2017年4月22日 (土)

ますらおの  涙を袖にしぼりつつ

ある先生から教えていただいた事件ですが、あとでネットで検索して読みました。
 
ベトナム人民が警察官を軟禁した記事はベトナム侍たちの健在を示していて面白かった。
 
「ベトナムの首都ハノイ郊外の農村で、地元政府による土地収用の手法に反発した約1万人の村民が警備に当たっていた警官らを15日から監禁し、19日夜時点でも21人が解放されずにいる。村民は「政府と対立するつもりはない」として、土地利用の権利を訴えている。」(抜粋終わり)
 
「ベトナムの農民1万人、警官ら監禁 土地収用に反発」より。
ハノイ=鈴木暁子
2017年4月20日01時27分
http://www.asahi.com/articles/ASK4M74VLK4MUHBI02Y.html 
 
人民が警官を捕縛する様子を知り、私は明治初期の日本人民のことに思いを馳せました。
 
司法長官を捕縛した明治日本人民の行動が、私には身近な出来事に感じる理由がございます。
以下はそのことのご紹介になりますが、少年少女だった祖父母の駆け落ちからお話する必要があります。
少し長いですが、お付き合いいただければ幸いです。
 
まず「愛媛県のご先祖調べ ~家系図作成からルーツ調べ - 家族の樹」より祖父と祖母の出身に関わりのある部分を抜粋します。
http://www.kakeisi.com/survey/survey_ehime.html
 
『 周布郡には宇野氏のほか、新居郡の新居氏や桑村郡の得能氏が進出しています。
 桑村郡からは、得能氏・壬生川氏・桑原氏・黒川氏が出ています。
 
 越智郡は伊予国府あった中心地であり、越智氏発祥の地です。越智・河野氏の勢力が強い地域です。 今岡氏・拝志氏・高橋氏・桜井氏・山本氏・岡部氏・村上氏があります。
なかでも村上氏は海賊村上水軍として知られ、能島・来島・備後因島を拠点に活動し、能島
村上・来島村上・因島村上と呼ばれました。室町時代には河野水軍の配下となります。
中略。
 宇和郡には、京から公家西園寺氏が入り勢力を拡大させます。 配下の諸氏に南方氏・三善氏・熊崎氏・久枝氏・富永氏・鎌田氏・久良氏・白木氏・魚成氏・北之川氏・勝山氏・芝氏・法華津氏・土居氏がありました。 その他、南予の津島からは津島氏、が出ています。』(抜粋終わり)
 
関ケ原の戦いのあとで、家康にとって用済みになった村上水軍は陸にあげられたようです。
来島(くるしま)村上水軍は現在の大分県玖珠郡玖珠町に久留島(くるしま)藩領地をもらい受け、陸の大名になりました。
 
2代目藩主の正室が福島正則の娘(養女?)だそうで、藩主亡きあと出家し玄興院殿(げんこういんでん)を名乗り、玖珠町森に寺を造営し、そこに住まわれました。
そこは家主の名をとって、のちに曹洞宗禅寺玄興院と称されます。
当初から曹洞宗であったかどうかは存じません。密教から曹洞宗に変わったのかも知れません。
 
私は生まれて三歳まではたびたび母に負われてその寺の祖父を訪ね、祖父の膝の上で焼きおにぎりの香ばしい香りをかいだそうです。
 
東京・港区の芝の青松寺の墓地で、おそらく一番背の高い黒い色をした墓石が玄興院殿様のお墓ですが、玖珠町のお寺、玄興院にも分骨されたらしい墓があります。
伊予の「芝氏」と、港区の「芝」とに、不思議な縁をいま感じました。
 
やがて禅寺玄興院は廃寺となり無住のまま明治を迎えました。
伊予で生まれた私の祖父村上光大は少年僧侶のときに庄屋のお鶴お嬢さんと駆け落ちして海を渡り、旧久留島藩の玄興院に住まうことになりました。
破れ障子を修理し雨漏りを治し、廃寺を立て直したそうです。
 
15年ほど前に母を連れて越前の永平寺へ祖父の供養に参ったときに、「玄興院中興の祖」として5~6名のお坊さんが出て来られて母と私二人だけが座る永平寺のある部屋で祖父供養のための読経をあげていただきました。母は供養代を支払っていました。
中興の祖というのですから、それによれば玄興院は創設時から曹洞宗だった可能性が高いことでしょう。それはここではどうでもよいことでございます。
 
若き祖父の駆け落ちの相手は鶴(つる)と申し、宇和島の山奥の庄屋の分家の庄屋、芝家の長女だったと言います。
 
本家の芝家では昭和の末期に屋根裏から木簡が複数発見され、それには藤原道兼を祖とする旨の家系がかかれていたそうで、それを雑誌「歴史街道」の記事で見たことがあります。
 
一度祖母の実家(分家の芝家)を訪ねましたが、そこは坂本龍馬の脱藩道(土佐から宇和島)に面していて、街道筋にて庄屋として地域警備の仕事も兼務していたようです。
 
鶴お嬢様(私の祖母)がまだ幼いころ、深夜に家の板戸を叩くものがいたそうです。
 
「済まぬが握り飯を所望したい」とでも言ったことでしょう。
芝家の主人は家人に握りを作らせ茶を出してこれに応対したそうです。
 
その人物が去るに際し、お礼の手紙を書きたいので紙と硯を借りたいといいました。
 
達筆のお礼状はその後、なぜか大分県玖珠郡に渡った村上光大和尚の家内である鶴ばあさんが所持していました。
私の母の母です。
 
私は学生時代に虫食いになったその手紙を私の大分市の実家で母から見せられたことがあります。
祖母の鶴ばあさんがしばらくの間私の家に居候していたから、その手紙も私の家にあったようです。
その令状を書いた人物は、江藤新平でした。
 
宇和郡の山奥の芝家を出て、翌日確か隣県土佐で捕縛され、別の場所で斬首されたのではなかったか。
 
江藤新平-Wikipediaより抜粋します。
 
「中略。
江藤は征韓党を解散して逃亡し、3月1日に鹿児島鰻温泉の福村市左衛門方に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られた。
 
続いて3月25日、高知の林有造・片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くがいずれも容れられなかった。
 
このため、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる。
 
しかしその途上、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還される。
手配写真が出回っていたために速やかに捕らえられたものだが、この写真手配制度は江藤自身が明治5年(1872年)に確立したもので、皮肉にも制定者の江藤本人が被適用者第1号となった。
 
裁判とその最期[編集]
(写真は省略)
江藤新平の墓所、佐賀市の本行寺
 
4月8日、江藤は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下であった河野敏鎌の最初から死刑ありきの暗黒裁判ともいうべき不当な裁判によって裁かれることとなった。
4月13日に河野により除族の上、梟首の刑を申し渡され[3]、その日の夕方に嘉瀬刑場において処刑された。
 
判決を受けたとき「裁判長、私は」と言って反論しようとして立ち上がろうとしたが、それを止めようとした刑吏に縄を引かれ転んだため、この姿に対して「気が動転し腰を抜かした」と悪意ある解釈を受けた[4]。
その後、江藤の首は嘉瀬川から4km離れた千人塚で梟首された。
 
辞世は、
「ますらおの  涙を袖にしぼりつつ  迷う心はただ君がため」
 
明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布に伴う大赦令公布により賊名を解かれる。大正5年(1916年)4月11日、贈正四位。
墓所は佐賀県佐賀市の本行寺。墓碑銘は書家としても知られる副島種臣が手がけた。同市の神野公園には銅像もある。」(抜粋終わり)
 
このことと、鶴ばあさんの語りなどから推測しますと・・・、
「鹿児島鰻温泉の福村市左衛門方に湯治中の西郷隆盛に会った江藤新平は、薩摩士族の旗揚げを請うが断られたあと、おそらく陸路を宮崎を経由して佐賀関から四国八幡浜へ渡船で渡り、山道の街道を登り、鶴お嬢さんの住む芝家で深夜握り飯を食い、そのまま山道を土佐へ下って、翌日つまり、3月25日、高知の林有造・片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説いたと推測されます。
 
「明治6年(1873年)には朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変で西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に10月24日に下野。
明治7年(1874年)1月10日に愛国公党を結成し1月12日に民撰議院設立建白書に署名し帰郷を決意する。」
(江藤新平-Wikipedia)
 
そのすぐあとに江藤は指名手配を受けています。
 
すると、芝家のお鶴お嬢さんが2階の障子越しに階下の来客の話し声を聞いたのは明治7年(1874年)、3月25日か、その前の24日かになるものと思われます。
命がけの逃避行での高知訪問であることを合わせて考えますと、おそらくお鶴お嬢さんが江藤の声を聴いたのは明治7年(1874年)3月25日の深夜か早朝であろうと推測いたします。
 
ベトナムの人民に軟禁された警官も「ますらおの  涙を袖にしぼりつつ」孤独に耐えているのではないか・・・。
 
ニュースを見て、ふと、そう思った次第です。
 
取り急ぎ新聞記事の感想まで。
 
その江藤直筆の絶筆とも云える礼状は、虫食いが激しく修復にも耐えないことがわかり、祖母の死後に母が処分したそうです。
 
あのとき私が預かっておけば今頃は・・・。
 
習字用の和紙1~2枚書いていたので、ひょっとして単なる礼状ではなく、政府への意見書の部位がその中にあったとすれば、歴史的価値は高かったのではないかと思われます。
 
逃げた魚はいつも大きい・・・。
 
注)・・・。という表記法はザビエル書簡集のものを真似たものです。
 
ザビエルはフランスとスペインの間に挟まれていながら独立を目指すバスク人としての本音をローマカトリックに使える十字軍兵士として口にも文字にもできなかっただろう、そう私は拝察しております。
 
その声にもならない「思い」を彼は書簡の中で「・・・。」と、末尾に記すことで表現していました。私のは、その「猿真似」にほかなりません。

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