2017年7月20日 (木)

要害山、武田神社、そして石和温泉日帰り入浴

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写真1 城入口から甲府駅を見る(甲府駅から約2㎞のこの緩やかな坂を上って武田神社へ至る)

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写真2 武田神社鳥居から甲府駅を見る(格安ガラケーなのでボケる)

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写真3 武田神社を迂回して背後に回り、さらに北へ坂を進む。
突き当りの右手が要害山だろう。ここから先へは歩いていくのは無理。ここ神社まででも甲府駅からは2㎞ちょっとはあるのである。

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「甲府駅」から(google mapより引用)

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図takeda 1-1x 「武田神社境内のご案内」より抜粋(要害山の絵がある)
「甲斐万国総鎮護 武田神社」
http://www.takedajinja.or.jp/
 
今日は2年前の真冬に行ったことのある”信玄の産湯”(私流の解釈)に浸かろうと、勢いをつけて早朝5時30分に家を出た。
 
「積翠寺にある、信玄公産湯の井戸
信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる要害山城である(または積翠寺)。
 
信虎は駿河国今川氏を後ろ盾とした甲府盆地西部(西郡)の有力国衆大井氏と対決していたが、大永元年(1521年)10月には今川家臣福島正成率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。
この際に大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したという。
幼名は太郎[注釈 3]。兄の竹松が7歳で夭折した為、嫡男となる。」(武田信玄-wikipedia)
 
「躑躅ヶ崎館に付属した城」
「要害山城」
「または積翠寺」
 
信玄も勝頼も要害山城で生まれたのである。
それを積翠寺とも称すとある。
躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)が今は武田神社となっている。
 
戦国時代の城は山の頂上にあったのではないかと思うが、平和の時代に山すそへ館を移したのかもしれないし、あるいは戦国時代から積翠寺の場所に平城があったのかもしれない。
山のてっぺんに城を築くのは、こののちの織田信長の岐阜城からだと私は認識している。
信長でさえ、居館は岐阜城から麓へ降りた平地に建てていた。
 
おそらくは平時は積翠寺を館とし、戦になれば家族とともに要害山の頂へと退き防衛戦を戦ったのだろう。
騎馬民族の末裔として理詰めの戦い方ではなかったか、と思う。

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写真4 積翠寺の標識は右、要害温泉も同じ方向なので右へ曲がった。
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写真5 右手が要害山のようだ。

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写真6 要害温泉(遠くの館が要害温泉旅館)
 
しかし、朝から国道20号線(甲州街道)を走ってようやくの思いで到着すると、どうも要害温泉の玄関の様子が変わっている。
閉館している、かのようである。
 
館内のフロントの鈴を鳴らしてやってきたおじさんから聞いた。
 
「もう日帰り温泉はやっていないんですよ・・・。」
「近くに日帰り入浴できる温泉はありませんか?」
「湯村まで行かないと・・。」
「ユムラですかあ・・。」
(この時点では湯村は韮崎市から相当奥へ入った場所という知識しか私の脳内にはなかった。)
 
私は武田信虎の住んでいた石和(いさわ)に行くことをこの瞬間に決めた。
湯村も行きたい温泉ではあるが、地図を調べてきていないので次回に回す。
バイク用のバイクナビも売っているようだが、私は脳に記憶した地図で走る主義である。
 
石和は温泉街である。
駅に着けば案内があるはずだ。
 
10㎞ほど東へ山手通りを走ると、「石和温泉駅南口方面」という標識に出会った。
駅の歩道にバイクを乗り上げ、短時間停車なら警察も撤去しないだろうと判断し、歩いて駅構内に向かった。
観光案内所の看板の下にある自動ドアにこういう貼り紙があった。
「日帰り温泉、ワイナリーなどなど」
 
やはり今の時代でも駅はたのもしい情報源である。
若い人はあまり知らないのではないか。
なんでもスマホに頼ろうとして駅を素通りしてはいないか、などと余計な心配をしてしまう。
帰宅してから次の記事を読んだ。
「2017年1月31日を以て閉館予定。122年の歴史に幕。露天からの夜景は絶景でした。」
(Google に寄せられたクチコミを見る」より)

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写真7 要害温泉露天風呂からの眺めとほぼ同じ眺め
 
躑躅ヶ崎館は今はないが、そこに武田神社が建っている。
武田神社は「山梨県甲府市古府中町2611」にある。
 
「甲斐万国総鎮護 武田神社」より抜粋する。
http://www.takedajinja.or.jp/
 
「武田神社は信玄公の父君信虎公が永正16年(1519年)に石和より移した躑躅ヶ崎館跡に鎮座致しております。
この館には信虎・信玄・勝頼の三代が60年余りにわたって居住し、昭和13年には国の史跡として指定されました。
館跡には当時からの堀、石垣、古井戸等が残り、信玄公を始め一族の遺香を現在まで伝えると共に、神社創建の折、県内各所より寄進を受けた数百種類の樹木が四季折々の風景を見せます。
 
また、境内にある「三葉の松」は全国でも珍しく、黄金色(こがねいろ)になって落葉することから、身につけると「金運」のご利益があるといわれております。」(抜粋終わり)

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写真8 鳥居の向こうの左手に三つ葉の松があるらしい

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写真9 夏に咲くこの花を信玄は愛していたのか

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写真10 武田神社
 
「 「三葉の松」は全国でも珍しく、黄金色(こがねいろ)になって落葉することから、身につけると「金運」のご利益がある」らしい。
知っていたら落ち葉を拾って財布へ入れたのだが、城の入り口できょろきょろしていたおばさんたちはこの松を探していたのだろう。

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「甲斐万国総鎮護 武田神社」
http://www.takedajinja.or.jp/

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写真11 参道左手に能の舞台?神楽殿?

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写真12 手水鉢の柄杓台の形が武田菱(面白い)

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写真13 鳥居の先に細く下がっている直線(ボケてみずらい)の突き当りが甲府駅です。馬追にもってこいの直線坂です。
城を出て左手の駐車場の向かいに立て札が見える。

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写真14 高坂弾正の屋敷跡

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写真15 高坂弾正の屋敷跡
高坂弾正忠昌信(たかさかだんじょうのじょうまさのぶ)って誰だっけ・・・。
wikipediaに聞いてみる。
 
「春日 虎綱 / 香坂 昌信(かすが とらつな / こうさか まさのぶ)は、戦国時代の武将。
甲斐武田氏家臣で譜代家老衆。
幼名は春日源五郎(かすがげんごろう)。
武田晴信 (信玄)・勝頼に仕え、武田四天王の一人として数えられる。
 
姓名及び仮名[編集]
一般的に「高坂昌信」の名前で知られるが、姓については「高坂」または「香坂」姓を用いたのは最も長くて弘治2年(1556年)から永禄9年(1566年)9月までの11年間である。
この「高坂」または「香坂」姓は信濃国更級郡牧ノ島の香坂氏の家督を継承していることに由来する。
香坂氏は武田領と反武田の北信濃国人・上杉謙信との境目に位置しつつ唯一武田側に属しており、虎綱が養子に入った背景にも香坂氏の川中島地域における政治・軍事的立場が考慮されたと考えられている。
 
香坂氏に養子に入った時期は『甲陽軍鑑』によれば永禄4年に香坂氏が上杉謙信に内通し成敗された時点、または弘治2年(1556年)に小山田昌行(備中守)が水内郡海津城(長野市松代町)から雨飾城に番替えとなると後任として海津城代となり、この時点で「高坂」を称していたとしている。
なお、海津城築城は『甲陽軍鑑』によれば永禄3年のこととしている為、矛盾がある。
一方、高野山成慶院「武田家過去帳」では弘治4年時点で「香坂弾正」を称してることが確認される。
この他に「香坂」姓の名乗りが確認されるのは、永禄2年11月屋代政国宛判物における副状で、早くとも永禄6年6月まで「香坂」姓を称し、遅くとも永禄9年9月までには復姓している。
 
名については確実な文書上からの実名は「虎綱」であることが指摘されており、「昌信」(しょうしん)に関しては出家名であるとされる[要出典]。
 
また、仮名として弾正を名乗っていたとされ、しばしば「高坂弾正」と記載する場合もある。
永禄2年まで「弾正左衛門尉」を称し、同年以降には「弾正忠」に改めている。」(春日虎綱-wikipediaより)
 
武田家の忠臣春日氏である。
春日氏が養子に行った先が軍事的に重要な位置にある香坂氏(こうさかし)であった。
「春日氏かあ・・・」
私は妙に感心してしまった。
 
ここまで手が回っていたのであろう。思い過ごしかもしれないけれど、しかし春日局の政治的な徹底性は見事なまでである。
私の過去記事を読めば「その意味」が分かっていただけるものと思う。
 
新井白石とシドッチ(その2)
http://harukateinen.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-cc43.html

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写真16 信玄の父、信虎元居城の石和(いさわ)へ向かう

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写真17 駅案内所の自動ドアのガラス 「私の今知りたいことがある」と教えてくれる。

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写真18 1200円日帰り温泉入浴ができる旅館やまなみの廊下を通って大浴場へ向かう。
http://hotelyamanami.com/
 
日帰り入浴できるのは、次の水晶の湯とその露天風呂とワイン風呂です。
http://hotelyamanami.com/publics/index/53/

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写真19 石和温泉駅最寄りのワイナリー モンデ酒造

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写真20 モンデ酒造の工場見学入口(無料)

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写真21 眠るワイン

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写真22 ワイン樽

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写真23 ワイン熟成中

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写真24 買いました。国産と輸入のぶどうをブレンドして発酵、熟成したもの。

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写真25 レディー・バグとは「無実の人を救う虫」
白ワインは柔らかくて辛口と書いてありました。
 
レディ・バグはテントウムシらしい。
バグは計算機プログラムミスを「虫」と表現するときに使う英語だ。
 
「テントウムシ(天道虫)って英語でLadybird(Ladybug)とはどうして?」より抜粋します。 
http://jack8.at.webry.info/201006/article_1.html
 
「Lady Beetleでテントウムシのことらしい。さらにテントウムシはイギリスではLadybird,アメリカではLadybugと違う。
 
中略。
むかしむかし、あるヨーロッパの領主(Load)の前で、死刑にされそうな男が居た。
その男の肩にテントウムシが留まり、死刑になる前に逃がそうとフット息をかけて飛ばすと、ある男の肩に留まった。その男はテントウムシをたたきつぶした。それを見た領主はふと疑問に思い、再度調査させたところ、たたきつぶした男が真犯人だった。
これでテントウムシは無実の人を救う虫とされた。
 
この話が戦国時代に宣教師からもたらされて「天道常に善人にくみす」と言われたことから天道虫になった。また天道虫は飛ぶときに木などに登ってから飛び立つ習性があることから、さらに天道虫の甲羅は赤く、黒い斑点があることから、太陽(お天道様)と黒点を連想させ、天道虫となった。」(抜粋終わり)
 
石和温泉が私の日帰り入浴の行動範囲に入ってきた良い1日となりました。
禍転じて福となす。
 
帰宅して調べて分かったことは、湯村温泉はさほど要害から遠くはないということだった。
 
@niftyが教えてくれた。
 
湯村温泉の日帰り温泉、旅館、ホテルおすすめ
https://onsen.nifty.com/yumura-yamanashi-onsen/ 

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google検索より引用 湯村温泉と積翠寺

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google検索より引用 日帰り湯@湯村温泉

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「甲府駅」から「石和温泉駅」まで(google mapより引用)

名古屋に住んでいたときに、春日井という地名を知っていた。

石和(いさわ)の地図を見ていて春日居という地名があった。

石和は元は武田信虎の居城があった場所である。

躑躅ヶ崎館へ引っ越す前である。

ここに春日氏は住んでいたのだろう。

戦国時代にやってきてレディ・バグの話を伝えたという宣教師は、甲府よりも以前に石和の春日居に入ったように、私には思われるのである。

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石和城と春日居、そして名古屋城と春日井(google mapより引用)
(名古屋城の二の丸跡は今は大相撲名古屋場所が開かれる体育館であるが、その地下には高麗瓦の屋根を備えた二の丸を持つ那古野(なごの)城跡があるはずだ。そこで信長は生まれて育った。)

信虎を発見し信玄を育てたのも、そして信長を発見したのも、さらには信長や勝頼を死なせたのも、春日氏であったと言えないだろうか・・・。

いろいろと濃い情報に触れたような気がする。

大変疲れた一日でもあった。

2017年5月29日 (月)

山梨 はやぶさ温泉 日帰り入浴

「はやぶさ温泉: 山梨 源泉掛け流し 日帰り入浴」より湯質に関する下りを抜粋します。
http://www.hayabusaonsen.net/index.html

「~泉質について~
笛吹川断裂温泉帯特有のアルカリ性単純泉(低張性アルカリ性温泉)と呼ばれています。
昭和23年施行の温泉法では、泉温、液性、浸透圧で泉質が決められます。
 
本泉の低張性アルカリ性単純泉とは、ヒトの体液の浸透圧(1kg中8.8g)を基準に8g未満の低張性(日本の大部分の温泉が低張性です)、Ph9.95という高アルカリ、泉温が42℃なので温泉ということになります。
 
Ph値が大きいアルカリ性になると、肌の角質を溶かすのでツルツルする感じを得られます。いわゆる美人の湯です。」(抜粋終わり)
 
温泉施設はこのサイトで案内しています。
 
2時間600円で下道で往復可能な日帰り温泉です。(但し、バイクの場合です。渋滞のある自家用車では実験できていません。)
 
白骨温泉泡の湯は下道では通えません。よって、はやぶさ温泉が今のところ私の日本一のコストパフォーマンス日帰り温泉となりました。
 
行けば良さは実感できると思いますが、探求心が薄いままですと銭湯のような印象だけで帰ってしまいかねません。ぜひ露天風呂まで行ってみてください。信玄よ、おまえもか・・・。
 
楓の木に囲まれている湯船で秋は壮観でしょう。
 
(吉田松陰と高杉晋作は楓の契りで結ばれていました。そしてイタリア大使館玄関脇にも見事な楓があります。信玄よ、おまえもか・・・。)
 
以下は私の本日の撮影したものです。

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富士山が写っているのですがガラケー写真の限界でした。画像をクリックして拡大すれば、中央やや左に富士山の雪溶け途中の雄姿が見えます。

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この道の右手にはやぶさ温泉が見えてきます。

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道路の右端の大きな樹木の左下に見えるのがはやぶさ温泉です。

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駐車場から案内板が誘導します。

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はやぶさ温泉玄関

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5月の花、つつじが山梨では満開です。

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信玄の郷らしい用水の整備です。

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内湯。すっきりした外観。窓の向こう側の階段を下りていくと自然味満天の露天風呂へ至ります。ここは露天も源泉かけ流しのようなのでお勧めです。硫黄の薄い香りを私は感じましたが、湯質には硫黄など説明されていませんでした。ごく微量の硫化水素か何かを私の鼻は嗅いでいるようです。

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「全部かけ流し」は珍しいです。湯量が豊富ということです。

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運転手以外は工場見学のあとで試飲できます。売店でも試飲できますのでおいしいと思ったワインを買えばよいですが、私はバイク運転がありますので、直感でメルロを買いました。

帰り道、近くのマンズワインワイナリー工場でメルローワインを買い求めました。あいにくブドウは小諸と信州のメルロでしたが、マンズワインで蒸留したとのことなので地酒と判断しました。

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http://www.mannswine-shop.com/winery/katsunuma/

より引用しました。

2017年4月 6日 (木)

みはらしの丘・みたまの湯 市川三郷町(山梨)

11 かつてこの国へやってきたおそらく傭兵だったテュルク系騎馬民族(トルコ系)集団も、このようにして丘の上から農耕集団を見下ろしていたのではないか・・・、と、ふと思うほど雄大な景色でした。

上は湯船から見えるはずの光景、中央部に八ヶ岳(ガラケーカメラではよく写っていません)

湯船の中からは、右手の方には茅が岳、金峰山(奥秩父)などが見えました。

正面に八ケ岳を見ながらのパノラマ露天風呂。・・・景色では山梨一かも知れません。
下記サイトに湯船からのパノラマが掲載されています。
http://www.mitamanoyu.jp/spa
 
湯質は我が家最寄のくりひら温泉や稲城の温泉と同じような黒褐色の湯でした。
 
「くりひら湯快爽快」
http://www.yukaisoukai.com/kur/
 
私はそれを関東ローム層特有の色だと思っていますが、果たしてどうか?
ここもちゃんとした温泉ですが、神奈川県にある我が家の周囲にも沢山ある湯質と似通っています。
 
韮崎の温泉や甲府の要害温泉、山梨のほったらかし温泉、塩山のとある公衆風呂など5~6か所この地方の湯には浸かっていますが、山梨で初めて出会った黒い湯(やや薄い赤茶けた色)でした。
 
湯船には客が10名ほどいたのであいにく写真は撮影できませんでした。
 
下記サイトには周辺の山々の解説がきれいな写真とともに掲載されています。
 
みたまの湯(みたまのゆ)
http://fujisan.world.coocan.jp/nagame/archives/2011/11/post-198.html
 
「御坂山地の末端にある台地上の、大変見晴らしがいい温泉施設です」などと、みたまの湯周辺の山を詳しく解説しています。
 
「いつもの風景や出かけたときにあの山はどこだろうと思ったことはありませんか。」と始まるブログなので山に詳しい方なのでしょう。
 
この方は湯には入らずに景色だけを撮影に来たとのことです。
 
以下にこの湯に至るまでの私の撮影した関連写真を掲載します。

1 1 笛吹川沿いの笛吹ラインを走る

2 2 この坂を上る

3 3 山梨県西八代運市川三郷 ブドウ畑が広がる

5 5 駐車場は広い

6 6 南アルプス方面

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8 8 みたまの湯

85 8b 甲斐上野駅からバスで5分

9 9 いで湯の賑ひにけり

午前11時30分頃に私は退場しました。

 
靴箱へ向かおうとしたとき、高齢者ばかりの団体客がバス1台分わーっと到来するのに出くわしました。なかなか靴箱へたどり着けずに、高齢者の嵐が止むのをちょっとだけ高齢者の私も待つしかありませんでした。
 
「御霊(みたま)に幸いあれ・・・。」の「みたま」か、とそのときは感じました。
 
外に出て写真を撮影していたときに、三珠庁舎というバス停が時刻表に書いてありましたので、正しくは「三珠」を「みたま」と読むものと思われました。
 
私は湯質にこだわりがありますので、リピートはしないだろうと思いました。
 
しかし、長い人生の中で、ふと一人で静かに考えたいというとき、この露天風呂の景色の中にいることだろうと思いました。
 
それほどに魅力のある景色を抱える黒い湯の露天でした。

2016年12月23日 (金)

京王高尾山温泉 極楽湯 訪問記

とても清潔な日帰り温泉専門店でした。

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PAP_0006 高尾山氷川神社にお参り。温泉の隣になるので参らないわけには行きません。

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PAP_0007 高尾山口駅の裏が氷川神社と極楽湯

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PAP_0009 氷川神社の由来「縁結び、五穀豊穣の御神徳あり・・・と」

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PAP_0005 駅の北側にある正面の館が高尾山温泉極楽湯です。

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PAP_0004 京王電鉄の経営です。(壁の右上にKEIOのマーク)
どうりで普通の日帰り温泉旅館とは異なり、女性スタッフの気遣いが細やかで素晴らしかったです。

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PAP_0003 京王高尾山温泉 極楽湯と書いてあります。撮影しませんでしたが、入口暖簾をくぐって左手の壁に人の大きさくらいのでかい天狗のお面がかけてありました。高尾山は修験道の山だったという意味かも知れません。
それほどでかいお面でしたが、入館時は見落とししていました。退館時に気づきました。
湯船の様子など詳しくは下記サイトをご覧ください。
 
「京王高尾山温泉」
http://www.takaosan-onsen.jp/bath/index.html
 
以下では、今日の体験感想を述べます。
 
上記サイトによれば、
 
「アルカリ性単純温泉
泉色 微弱白色・澄明
源泉温度 26.2°C
効能 筋肉痛・関節痛・五十肩・関節のこわばり・うちみ・冷え症・疲労回復・健康増進」とあります。
 
天然温泉 露天岩風呂(ぬる湯・あつ湯)の湯質はアルカリ性で、二の腕を擦ると若干ぬるぬるします。
 
タイルがつるつる滑りやすくなっているのも、アルカリ成分によるものとのこと、コケナイようにご注意ください。
 
首都圏日帰り温泉第1位は埼玉県北部にあり、行ってみましたがいまいち感がありました。
その第2位に上がっていたのが、この極楽湯です。
 
天然温泉 露天岩風呂の「ぬる湯」は39.4℃でなかなかゆったり浸かれていい湯でした。
1時間半ほどそこに居たと思いますので、最近ではめったに出会えないゆっくり湯治のできる湯船でした。
 
先日、山梨での私的に見た日本一のコストパフォーマンス温泉(公衆温泉)(過去記事参照)のぬるぬる感には負けます。その半分程度ですが、十分なアルカリ性を感じました。
 
大人通常料金は1,000円(税込)ですので、コストがそこそこかかりますので、コストパフォーマンスでいうと日本一にはなれません。
 
しかし、入場券10枚綴り8,000円(税込)を買いますと、一回800円の入浴になり、日本一の座へかなり接近してきます。
 
もしここの入浴料が500円ならば、間違いなく私的には日本一の日帰り温泉になります。
天然温泉 露天岩風呂(あつ湯)は一段高いところにあり、そこから高尾山方面の林を眺めていて、山鳥を数羽発見し、その鳴き声を聞いたのは高い得点となっています。
首都圏日帰り温泉1位を訪ねてがっかりしたので、2位の高尾山温泉へ来るのに半年を経過してしまいました。
 
面倒くさがらずに来てみてよかったです。
日本2位になる可能性さえ感じた日帰り温泉でした。
 
上記サイトで紹介があるようにそのほかにもいろいろな湯船を用意していますが、私はあまり興味がありませんが、腰湯(座り湯)だけは特筆すべきものでした。
 
寝湯は好物なのですが、座り湯は初めての体験で気に入りました。寝湯には負けますが、ある瞬間にこれはいいと感じました。
 
向かって一番右端に座っていますと、朝日が上がってきて上半身をぽかぽかと温めてくれます。
背中や腰、尻、手などは流れる湯水で温まります。
 
しばらくしていると、「フラッ」と寝入りそうになりました。
 
寝湯で寝ていて眠るのは自然ですが、座り湯でつい眠りそうになったことに感動しました。
 
今は太陽がなければ上半身表面は寒いので、なかなかそういう状態にはなれませんが、太陽が照射した一瞬にそういうことを体験できました。
 
よって、春先に座り湯に座れば、座ったまな眠れそうです。
また行こうと思いました。
 
帰りにカウンターの女性スタッフが頭に濡れタオルを乗せて帰ろうとする私を見て、「ビニール袋を差し上げましょうか?」と聞いてくれました。
 
私からビニール袋を下さいと言った経験は別の温泉でありましたが、温泉館の人からそう申し出をされたのは初めてでしたので、顧客応対がしっかりしているなあと感心しました。
 
顧客あっての京王電鉄、さすがに社員教育が線路の隅々まで行き届いているようです。
 
いい湯に入ったなあ、という実感を抱いて帰路に向かいました。
 
ちなみに温泉客用の無料バイク置き場は125cc以下の場所へ誘導されますので、大型バイクの人はさらにその奥の左手、p5の看板の左隣の台形のスペースのバイク置き場へ移動する必要があります。オレンジ色の看板に「温泉客用バイク駐輪場」という風な看板が出ています。

2014年11月 9日 (日)

露天風呂思索~湯船の信玄の支配欲

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SH3B0149 標高700mの高台(山梨市駅最寄、温泉現地にタクシー乗り場あり)

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SH3B0146 ほったらかし温泉施設全景

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SH3B0160 あっちの湯(左手)、こっちの湯(右手)、私は広い方のあっちの湯へ。

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SH3B0161 食堂

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SH3B0150 あっちの湯はこの下

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SH3B0152 薄の穂の間を下る

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SH3B0157 内湯

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SH3B0156 露天風呂(この1段下にも露天岩風呂が3つあります)

完成間近に勝頼が捨てた新府城は、躑躅(つつじ)ヶ崎の館・古府中に対してつけられたとのことでした。

未完成の城は防御に弱い、との理由で勝頼が廃棄した可能性はあるでしょう。

浅間山さえ噴火しなければ、群馬の岩櫃城へ籠ったかもしれません。
火山がなければ日本の歴史は変わっていた可能性があります。

「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、甲府市古府中にある戦国時代の甲斐国守護武田氏3代の居館跡で、国指定の史跡です。

1519年(永正16年)武田信虎(信玄の父)によって築造され、居館を中心に家臣の屋敷を周辺に配置した城下町を形成し、武田3代60年余りにわたって府中として栄えました。

武田氏館は周囲を外堀で囲んだ一辺が200mほどの正方形の主郭を中心に、東曲輪・西曲輪・中曲輪などで構成され、居館とはいえ虎口や空堀などの防御施設のある構造でした。

詰城として館から北方3kmほどの山(標高250m)に要害山城が築かれ、武田信玄はここで誕生したそうです。

武田信玄は「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり。」と詠ったと伝えられ、生涯この館に住んで、新たに大規模な城を築くことはありませんでした。

武田氏最後の当主勝頼は、1581年(天正9年)新府城を築城し居城を移しますが、織田・徳川勢に攻められると、天目山付近まで追いつめられて勝頼は自刃し、武田氏は滅亡しました。」(躑躅ヶ崎館(武田氏館)より)
http://www.gakujoken.or.jp/mmp/yamanashi/tsutsujigasaki/tsutsujigasaki.html

籠城戦ではなく騎馬戦で良く戦ってきた信玄の言葉によれば、「城は不要」とのことでした。

「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり。」(信玄)
父が築いてきた「人の城」を壊し、籠城すべき新府城も未完成のまま放浪することになった勝頼でした。

ところで信玄生誕地は館の北3㎞にある標高250mの要害山城です。そのふもとに要害温泉がありました。

ところが、今日の私はその東方約10㎞にある、甲府盆地の北、標高700mの高台にある日帰りの露天風呂に浸かり、山梨市街地を見下ろしています。
ある曇りのち晴れの日の、正午前後のことです。

「ほったらかし温泉公式サイト」http://www.hottarakashi-onsen.com/

このサイトより営業トークを紹介します。ぜひ近くを通ったら、一度お入りください。

今の時期なら夜明けの午前5時30分から利用できますので、朝日を眺めて入浴できます。また、夜も遅くまでやっていますので、満天の星と山梨市の夜景を眺めつつ湯治ができます。
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「富士を望み甲府盆地を見下ろす眺望と”星空が天井”と謳われる夜景が好評。
桃の花がピンクの絨毯となる春の甲府盆地。海抜700mの夏の涼風。紅葉に包まれる秋の山々。満天にちりばめた冬の星座と、四季折々の変化が楽しめます。

ほったらかし温泉の浴場は2箇所。平成11年開場の元の湯「こっちの湯」は富士山を真正面に望む眺望と落ち着いた風情が人気。平成15年末に開場した「あっちの湯」は「こっちの湯」に比べ2倍の広さで、新日本三大夜景に認定された甲府盆地を一望できるロケーションと雄大さが人気です。
 
又、「あっちの湯」で使用の新しい源泉は深度1500mの深層の破砕帯から湧出しておPH値は10.1と高く、お肌すべすべ、湯冷めしにくい凄いものです。
これまで通り、どちらの浴場でもお湯は出しっぱなしの上に毎日総入換しております。 当温泉で壮大な眺望にひたって日頃の疲れを吹き飛ばして下さい!

*「あっちの湯」は新源泉(PH10.1)「こっちの湯」は旧源泉(PH9.68)を使用しております。*
* 年中無休 *
営業時間  日の出1時間前~22時(最終受付21時半)
*5~7月は早朝4時にオープン*
入浴料 大人800円(一風呂)(0歳~小学6年生迄は400円)
駐車場 280台」(抜粋終わり)
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私は、標高700mの木製浴槽の露天風呂にすがり、山梨市全景を見下ろしながら浸かっていました。
やがて、学生か新入社員のような雰囲気の若者4~5名のグル―プが同じ木の浴槽に入ってきました。

「あ~!」 (最初に湯船に肩まで浸かったときに、誰もが発するため息のような言葉)
「なんで『あ~!』って言うのだろうね」
「あはははは」
「あははっはっは~」

「350㎞くらい走ったかなあ」

聞きたくなくても静かな自然温泉なので、よく聞こえます。

若いということは元気がいいということだなあと、何気なく喧騒な会話を聞くでもなく耳にしていました。

そのうちの一人が私と同じ格好で、湯船の縁の上に両手の肘を乗せながら山梨市街地を見下ろしつつ、こう言いました。

「ほったらかし温泉に来てこうやって見下ろしてみれば、信玄だって支配したくなるよなあ、ははは。」

人間が人間を支配する構図をあまり軽く笑うべきことではないと思いましたが、実は私もさきほど同じことを湯船の中で市街地を見下ろしながら思ったので、この若者を批難することはできません。

ただ、私は大昔に誰かがこの場所でそう考えた可能性はあると思ったので、信玄であるとは断定していませんでした。

そこで、「それは本当か」と、私は自問自答しました。

つまり、信玄がこの場所でそう考えたという可能性はあるのか、どうか、という問題です。
それから若者の喧騒はあまり気にならなくなりました。

間違いなくこの高台に登り、眼下の人々を支配したいと考えた人物はいますが、それは信玄ではありません。

ずっとずっと昔の時代のことです。

おそらく「彼」は日本海から信濃の山を越えて来て、甲府の北側の高台から山梨市を見下ろしたことでしょう。
騎馬です・・・。

ちょうど、ほったらかし温泉のあたりに来て、温かい湧水に浸かって町を見下ろした可能性は十分あります。

もっとも町というよりもその当時は縄文人による村々の集落だったでしょう。

当時の倭人は顔と体に入れ墨をしていました。「皆面黥面文身」

黥面(げいめん)とは顔に入れ墨をすることです。
鯨漁との関連性もあるかもしれません。
鯨を驚かさないためには鯨の仲間の腹部にある細い線と似たものを顔に書いた可能性も感じられます。

また、文身とは身体に入れ墨を施すことであります。

顔にも裸に近い体にも入れ墨をしていたのですから、遠山の金さんも顔負けの姿でした。

「邪馬台国と卑弥呼-30  

2010/12/18
刺青をしたニュージーランドのマオリ人  

魏志倭人伝によると、倭人は「皆面黥面文身」というように男子はみな顔や体に入れ墨し、墨や朱や丹を塗っており、古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを太伯の子孫と称していると記されています。

黥面とは顔に刺青を施すことであり、文身とは身体に刺青を施すことであり、南方の海洋民族によくみられる特徴のようであります。

漁師なら分かりますが、何故に魏への使者が刺青者?と思われると思いますが、倭人の祖が苗族と考えれば話があいます。  

中国の伝説によれば、BC26世紀頃に漢民族の原型である華夏民族の君主・黄帝が蚩尤(しゅう)を破り、敗れた蚩尤民族は苗(みゃお)族と黎(リー)族に分裂。  
周王朝時代に華夏民族と同化し、一部は春秋の強国である楚や呉を建国します。

苗族の、頭飾りのデザインと、蚩尤の漢字が良く似ているようにも、私は思います。

太伯(たいはく)は、中国周王朝の古公亶父の長男で、呉の祖とされる人物です。 

古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいましたが、末子の季歴の息子の昌が文武に優れており、古公亶父は我が家を興すのは昌だと言っていた為、これを推し量って、太伯と虞仲は季歴に後を継がせるために荊蛮の地へと自ら出向きました。 

周の者が二人を迎えに来たたものの、二人は髪を切り、全身に刺青をして中華へと帰るに相応しくない人物としてこれを断ります。

太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従い、この国は呉とされています。

このように、呉の初代王である太伯は髪を短く切り、全身に刺青をしていたため、太伯の末裔と自ら称する倭人の身分の高い者も刺青をしていた可能性があります。  

実際、魏志倭人伝には「男子皆黥面文身以其文左右大小別尊之差」と刺青の位置や大小によって社会的身分の差を表示していた事や、当時の倭人諸国の間で各々異なったデザインの刺青が用いられていた事が述べられており、

魏志倭人伝では、これら倭人の刺青に対して、中国大陸の揚子江沿岸地域にあった呉越地方の住民習俗がよく似ているとしています。

苗族は、中国の少数民族で、貴州省はじめ、湖南省、雲南省、四川省、広西チワン族自治区、湖北省、海南省に住んでいます。  

そのルーツは、稲作発祥の地である長江中流域とされ、米食を主食とし、塩や酢で味付けした魚などの副食とともに1日3食とります。 

また日本の納豆菌と遺伝的に同種の納豆、赤飯、餅、なれ鮨、味噌、醤油があり、さらに高床式倉庫、鳥居、鵜飼など極めて日本の風習に近いものがあり、我々日本文化のルーツではないかとされています。

BC2000年頃、寒冷期を迎え、黄河文明(=漢民族=龍信仰)が南下し、長江文明(=太陽・鳥信仰)は破壊され、一部の人々がボートピ-プルとなって日本に流れ着き、次にBC800年頃にまた寒冷期を迎え、黄河文明の漢民族は東南アジアからポリネシアにまで進出し、三苗(苗族=太陽族・鳥族・蛇族)が長江流域を追われて西南部の山岳地帯へ逃れ、また一部の人々は、海を渡って日本に流れ着き(天孫降臨)、蛇(=三輪山)・鳥(=鳥居・天鳥船・八咫烏・白鳥:日本武尊)・太陽信仰(天照大御神=卑弥呼)をもたらしたと考えられます。」(「倭人と刺青  邪馬台国と卑弥呼」より)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1277.html

私の母方の祖父は曹洞宗の僧侶でしたが、孫の私が生まれたときに命名してくれました。
「逸(いつ)」の字を用いた名前でしたが、祖父はそれを「逸(えつ)」と読ませました。

僧侶の漢字の読みは「呉音(ごおん)」で読む慣わしになっていますので、それが「えつ」となる理由でした。
小学校の先生が「いつ」と読むために、小学校からは母が「読み」を変えたようです。

僧侶の一団が呉からやってきたのか、あるいは、もっと古代から集団移住がなされていて、のちに仏教を支配の道具として利用しようとし、彼らの古代の言葉「呉音」によってお経の漢字に音(おん)を与えたのか、それはまだ推測の域を出ません。

「業(ぎょう)」を「業(ごう)」と読ませたりするのも呉音によるものと思われます。

湯船の下に広がっていた古代山梨の倭人集落には「男子皆黥面文身以其文左右大小別尊之差」、つまり全員が顔と体に入れ墨をしており、入れ墨の大小によって身分差が表されていた可能性があります。

では、いったい「誰」が彼らを支配しようと思ったのでしょうか。

ここで湯に浸かって見下ろせば、先ほどの若者と同様に、私も、また古代の彼も、同じように倭人を支配したいと思ったことでしょう。

しかし、彼は「入れ墨をしていない人種であった」ことはどうやら確かなようです。
なぜならば、魏志倭人伝から2000年ほどが経過した今日、この国で入れ墨をしている人を日常で見かけることは殆どなくなっていることから、彼は入れ墨習慣を好まなかった人であることがわかります。

「倭人伝には倭人の風俗について重要な証言がある。
倭人は身分の貴賎無く、皆黥面文身をしていたと書いてある。

ところが日本書紀によると神武天皇が畿内に入った時、天皇が連れていた家来が黥面をしていた事に畿内の女性が驚くシーンがある。

この時、畿内には刺青が無かったと言う事になる。

畿内の古墳出土の人物埴輪の入墨らしきもののあるが、何れも身分の低い人物だ。
黥面に驚いた女性は身分が高く、、下賤の者達の入墨に遭遇した事が無かったのだろう。

また、日本書紀に雄略天皇が部下のちょっとした失策を怒って罰として黥面をさせたと言うのである。
3世紀に全員がやっていた黥面文身の風俗が5世紀には刑罰になってしまうなど有りうるだろうか?

これは大陸からの渡来人の影響を考えなくてはならない。
私は黥面をしない渡来人がやって来て支配したからこの風俗が消えたものと考える。」
(「黥面文身」より)http://www.geocities.jp/taru638/page036.html

日本書紀の記述によれば、神武天皇と畿内に住んでいた女性たちは、「黥面」とまったく縁がなかったかのうようです。

ところが古事記にも同様の記載があることがわかりました。

「三世紀の魏志倭人伝が伝えるその習俗はそれほど伝統のある倭人固有の海人的風習である。
『古事記』にも「神武天皇」の段で神武の「皇后」になるホト・タタラ・イススキヒメ(別名ヒメ・タタラ・イスケヨリヒメ)が野遊びをしているとき、神武の供をしていたオホクメノミコトに声を掛けられ、その黥面(げいめん)を見ておどろいてうたったという古歌が記録されている。

あめつつ ちどりましとと など黥(さ)ける利目(とめ)

大意はアメ・ツツ・チドリ・シトト(本居宣長以来、鳥の名とされている)の鳥のように、なぜ入れ墨で目をするどく見せているのかといったものだが、八世紀の久米部(くめべ)にもかつての黥面の風習がいいつたえられていたらしい。」(「倭の古王国と邪馬台国問題上 著者 中島一憲」より抜粋。)

「大久米命 おおくめのみこと
記・紀にみえる久米直(くめのあたい)の祖。

「古事記」によれば,神武天皇の東征にしたがい,大和(奈良県)の宇陀(うだ)の豪族兄宇迦斯(えうかし)や,忍坂(おさか)の土蜘蛛(つちぐも)を討った。そのとき,兵の士気を鼓舞するためにうたわれたのが,久米歌とされている。「日本書紀」では大来目。」(https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E7%B1%B3%E5%91%BD-1060069より

「久米氏(くめし)は、日本の氏族の一つ。

久米直
古代日本における軍事氏族の一つで、『新撰姓氏録』によれば高御魂(タカミムスビ)命の8世の孫である味耳命(うましみみのみこと)の後裔とする氏と、神魂(カミムスビ)命の8世の孫である味日命(うましひのみこと)の後裔とする氏の2氏があった。久米部(「くめべ」と読む。来目部とも表記することもある)の伴造氏族。

『日本書紀』神代下天孫降臨章1書には、大伴氏の遠祖の天忍日命が、来目部の遠祖である大来目命(天久米命)を率いて瓊瓊杵尊を先導して天降ったと記されており、『新撰姓氏録』左京神別中の大伴宿禰条にも同様の記述がある。このことから、久米直・久米部は大伴氏の配下にあって軍事的役割を有していたと考えられている。

ただ、『古事記』には天忍日命と天津久米命の2人が太刀・弓矢などを持って天孫降臨に供奉したとあり、大伴氏と久米氏を対等の立場として扱っており、両氏の関係を考える上で一つの問題点となると思われる。

また、神武天皇東征説話に見える来目歌、戦闘歌舞の代表といえる久米舞は、久米氏・久米部の性格を考える上で重要である。」(久米氏-wikipediaより)

・・・。
黥面の久米氏は、大伴氏の配下で軍事的役割を担う武将であったようです。
南方の狩猟民族同様に、弓矢に長けていたのでしょう。

さて、古代の話はこれくらいにします。

戦国時代にこの甲府盆地を支配するようになったのは、信玄ではなく、その父の武田信虎でした。だからほったらかし温泉に信玄が浸かったということはあったとしても、眼下の市街地は既に父の支配下にあったのでした。

「甲斐統一と甲府開設

永正16年(1519年)には、守護所を武田氏歴代の居館であった石和(笛吹市石和町)より西の甲府へ移り、初め川田に館を置く(川田館)。
のちに府中(甲府市古府中)に躑躅ヶ崎館を築き城下町(武田城下町)を整備し、家臣を集住させた(『高白斎記』)。

その後も国人領主今井氏や信濃の諏訪氏との争いに加え、大永元年(1521年)に今川氏配下の土方城主・福島正成を主体とする今川勢が富士川沿いに西郡まで侵攻し甲府へ迫ると、甲府館北東の要害山城へ退き、今川勢を飯田河原合戦(甲府市飯田町)、上条河原合戦(甲斐市、旧中巨摩郡敷島町)で撃退する。

この最中に、要害山城では嫡男・晴信が産まれている(『高白斎記』『王代記』)。」(武田信虎-wikipediaより)

湯船で私の隣の若者が云った信玄の甲府盆地支配欲の話は、どうやら事実とは異なるようです。

平時は要害城に退いていて、必要時は山から下りて来て山野の騎馬合戦で相手と戦う父の信虎でした。

戦の頃、「信玄(幼名晴信)はここほったらかし温泉より西方10㎞にある標高250mの要害山城の中で、産湯に浸かって泣いていた(ようだ)」というのが事実のようです。

要害山のふもとにある温泉旅館「要害」の温泉が、その湯に近似しているであろうと思われます。

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