
SH3B0149 標高700mの高台(山梨市駅最寄、温泉現地にタクシー乗り場あり)

SH3B0146 ほったらかし温泉施設全景

SH3B0160 あっちの湯(左手)、こっちの湯(右手)、私は広い方のあっちの湯へ。

SH3B0161 食堂

SH3B0150 あっちの湯はこの下

SH3B0152 薄の穂の間を下る

SH3B0157 内湯

SH3B0156 露天風呂(この1段下にも露天岩風呂が3つあります)
完成間近に勝頼が捨てた新府城は、躑躅(つつじ)ヶ崎の館・古府中に対してつけられたとのことでした。
未完成の城は防御に弱い、との理由で勝頼が廃棄した可能性はあるでしょう。
浅間山さえ噴火しなければ、群馬の岩櫃城へ籠ったかもしれません。
火山がなければ日本の歴史は変わっていた可能性があります。
「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、甲府市古府中にある戦国時代の甲斐国守護武田氏3代の居館跡で、国指定の史跡です。
1519年(永正16年)武田信虎(信玄の父)によって築造され、居館を中心に家臣の屋敷を周辺に配置した城下町を形成し、武田3代60年余りにわたって府中として栄えました。
武田氏館は周囲を外堀で囲んだ一辺が200mほどの正方形の主郭を中心に、東曲輪・西曲輪・中曲輪などで構成され、居館とはいえ虎口や空堀などの防御施設のある構造でした。
詰城として館から北方3kmほどの山(標高250m)に要害山城が築かれ、武田信玄はここで誕生したそうです。
武田信玄は「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり。」と詠ったと伝えられ、生涯この館に住んで、新たに大規模な城を築くことはありませんでした。
武田氏最後の当主勝頼は、1581年(天正9年)新府城を築城し居城を移しますが、織田・徳川勢に攻められると、天目山付近まで追いつめられて勝頼は自刃し、武田氏は滅亡しました。」(躑躅ヶ崎館(武田氏館)より)
http://www.gakujoken.or.jp/mmp/yamanashi/tsutsujigasaki/tsutsujigasaki.html
籠城戦ではなく騎馬戦で良く戦ってきた信玄の言葉によれば、「城は不要」とのことでした。
「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり。」(信玄)
父が築いてきた「人の城」を壊し、籠城すべき新府城も未完成のまま放浪することになった勝頼でした。
ところで信玄生誕地は館の北3㎞にある標高250mの要害山城です。そのふもとに要害温泉がありました。
ところが、今日の私はその東方約10㎞にある、甲府盆地の北、標高700mの高台にある日帰りの露天風呂に浸かり、山梨市街地を見下ろしています。
ある曇りのち晴れの日の、正午前後のことです。
「ほったらかし温泉公式サイト」http://www.hottarakashi-onsen.com/
このサイトより営業トークを紹介します。ぜひ近くを通ったら、一度お入りください。
今の時期なら夜明けの午前5時30分から利用できますので、朝日を眺めて入浴できます。また、夜も遅くまでやっていますので、満天の星と山梨市の夜景を眺めつつ湯治ができます。
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「富士を望み甲府盆地を見下ろす眺望と”星空が天井”と謳われる夜景が好評。
桃の花がピンクの絨毯となる春の甲府盆地。海抜700mの夏の涼風。紅葉に包まれる秋の山々。満天にちりばめた冬の星座と、四季折々の変化が楽しめます。
ほったらかし温泉の浴場は2箇所。平成11年開場の元の湯「こっちの湯」は富士山を真正面に望む眺望と落ち着いた風情が人気。平成15年末に開場した「あっちの湯」は「こっちの湯」に比べ2倍の広さで、新日本三大夜景に認定された甲府盆地を一望できるロケーションと雄大さが人気です。
又、「あっちの湯」で使用の新しい源泉は深度1500mの深層の破砕帯から湧出しておPH値は10.1と高く、お肌すべすべ、湯冷めしにくい凄いものです。
これまで通り、どちらの浴場でもお湯は出しっぱなしの上に毎日総入換しております。 当温泉で壮大な眺望にひたって日頃の疲れを吹き飛ばして下さい!
*「あっちの湯」は新源泉(PH10.1)「こっちの湯」は旧源泉(PH9.68)を使用しております。*
* 年中無休 *
営業時間 日の出1時間前~22時(最終受付21時半)
*5~7月は早朝4時にオープン*
入浴料 大人800円(一風呂)(0歳~小学6年生迄は400円)
駐車場 280台」(抜粋終わり)
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私は、標高700mの木製浴槽の露天風呂にすがり、山梨市全景を見下ろしながら浸かっていました。
やがて、学生か新入社員のような雰囲気の若者4~5名のグル―プが同じ木の浴槽に入ってきました。
「あ~!」 (最初に湯船に肩まで浸かったときに、誰もが発するため息のような言葉)
「なんで『あ~!』って言うのだろうね」
「あはははは」
「あははっはっは~」
「350㎞くらい走ったかなあ」
聞きたくなくても静かな自然温泉なので、よく聞こえます。
若いということは元気がいいということだなあと、何気なく喧騒な会話を聞くでもなく耳にしていました。
そのうちの一人が私と同じ格好で、湯船の縁の上に両手の肘を乗せながら山梨市街地を見下ろしつつ、こう言いました。
「ほったらかし温泉に来てこうやって見下ろしてみれば、信玄だって支配したくなるよなあ、ははは。」
人間が人間を支配する構図をあまり軽く笑うべきことではないと思いましたが、実は私もさきほど同じことを湯船の中で市街地を見下ろしながら思ったので、この若者を批難することはできません。
ただ、私は大昔に誰かがこの場所でそう考えた可能性はあると思ったので、信玄であるとは断定していませんでした。
そこで、「それは本当か」と、私は自問自答しました。
つまり、信玄がこの場所でそう考えたという可能性はあるのか、どうか、という問題です。
それから若者の喧騒はあまり気にならなくなりました。
間違いなくこの高台に登り、眼下の人々を支配したいと考えた人物はいますが、それは信玄ではありません。
ずっとずっと昔の時代のことです。
おそらく「彼」は日本海から信濃の山を越えて来て、甲府の北側の高台から山梨市を見下ろしたことでしょう。
騎馬です・・・。
ちょうど、ほったらかし温泉のあたりに来て、温かい湧水に浸かって町を見下ろした可能性は十分あります。
もっとも町というよりもその当時は縄文人による村々の集落だったでしょう。
当時の倭人は顔と体に入れ墨をしていました。「皆面黥面文身」
黥面(げいめん)とは顔に入れ墨をすることです。
鯨漁との関連性もあるかもしれません。
鯨を驚かさないためには鯨の仲間の腹部にある細い線と似たものを顔に書いた可能性も感じられます。
また、文身とは身体に入れ墨を施すことであります。
顔にも裸に近い体にも入れ墨をしていたのですから、遠山の金さんも顔負けの姿でした。
「邪馬台国と卑弥呼-30
2010/12/18
刺青をしたニュージーランドのマオリ人
魏志倭人伝によると、倭人は「皆面黥面文身」というように男子はみな顔や体に入れ墨し、墨や朱や丹を塗っており、古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを太伯の子孫と称していると記されています。
黥面とは顔に刺青を施すことであり、文身とは身体に刺青を施すことであり、南方の海洋民族によくみられる特徴のようであります。
漁師なら分かりますが、何故に魏への使者が刺青者?と思われると思いますが、倭人の祖が苗族と考えれば話があいます。
中国の伝説によれば、BC26世紀頃に漢民族の原型である華夏民族の君主・黄帝が蚩尤(しゅう)を破り、敗れた蚩尤民族は苗(みゃお)族と黎(リー)族に分裂。
周王朝時代に華夏民族と同化し、一部は春秋の強国である楚や呉を建国します。
苗族の、頭飾りのデザインと、蚩尤の漢字が良く似ているようにも、私は思います。
太伯(たいはく)は、中国周王朝の古公亶父の長男で、呉の祖とされる人物です。
古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいましたが、末子の季歴の息子の昌が文武に優れており、古公亶父は我が家を興すのは昌だと言っていた為、これを推し量って、太伯と虞仲は季歴に後を継がせるために荊蛮の地へと自ら出向きました。
周の者が二人を迎えに来たたものの、二人は髪を切り、全身に刺青をして中華へと帰るに相応しくない人物としてこれを断ります。
太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従い、この国は呉とされています。
このように、呉の初代王である太伯は髪を短く切り、全身に刺青をしていたため、太伯の末裔と自ら称する倭人の身分の高い者も刺青をしていた可能性があります。
実際、魏志倭人伝には「男子皆黥面文身以其文左右大小別尊之差」と刺青の位置や大小によって社会的身分の差を表示していた事や、当時の倭人諸国の間で各々異なったデザインの刺青が用いられていた事が述べられており、
魏志倭人伝では、これら倭人の刺青に対して、中国大陸の揚子江沿岸地域にあった呉越地方の住民習俗がよく似ているとしています。
苗族は、中国の少数民族で、貴州省はじめ、湖南省、雲南省、四川省、広西チワン族自治区、湖北省、海南省に住んでいます。
そのルーツは、稲作発祥の地である長江中流域とされ、米食を主食とし、塩や酢で味付けした魚などの副食とともに1日3食とります。
また日本の納豆菌と遺伝的に同種の納豆、赤飯、餅、なれ鮨、味噌、醤油があり、さらに高床式倉庫、鳥居、鵜飼など極めて日本の風習に近いものがあり、我々日本文化のルーツではないかとされています。
BC2000年頃、寒冷期を迎え、黄河文明(=漢民族=龍信仰)が南下し、長江文明(=太陽・鳥信仰)は破壊され、一部の人々がボートピ-プルとなって日本に流れ着き、次にBC800年頃にまた寒冷期を迎え、黄河文明の漢民族は東南アジアからポリネシアにまで進出し、三苗(苗族=太陽族・鳥族・蛇族)が長江流域を追われて西南部の山岳地帯へ逃れ、また一部の人々は、海を渡って日本に流れ着き(天孫降臨)、蛇(=三輪山)・鳥(=鳥居・天鳥船・八咫烏・白鳥:日本武尊)・太陽信仰(天照大御神=卑弥呼)をもたらしたと考えられます。」(「倭人と刺青 邪馬台国と卑弥呼」より)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1277.html
私の母方の祖父は曹洞宗の僧侶でしたが、孫の私が生まれたときに命名してくれました。
「逸(いつ)」の字を用いた名前でしたが、祖父はそれを「逸(えつ)」と読ませました。
僧侶の漢字の読みは「呉音(ごおん)」で読む慣わしになっていますので、それが「えつ」となる理由でした。
小学校の先生が「いつ」と読むために、小学校からは母が「読み」を変えたようです。
僧侶の一団が呉からやってきたのか、あるいは、もっと古代から集団移住がなされていて、のちに仏教を支配の道具として利用しようとし、彼らの古代の言葉「呉音」によってお経の漢字に音(おん)を与えたのか、それはまだ推測の域を出ません。
「業(ぎょう)」を「業(ごう)」と読ませたりするのも呉音によるものと思われます。
湯船の下に広がっていた古代山梨の倭人集落には「男子皆黥面文身以其文左右大小別尊之差」、つまり全員が顔と体に入れ墨をしており、入れ墨の大小によって身分差が表されていた可能性があります。
では、いったい「誰」が彼らを支配しようと思ったのでしょうか。
ここで湯に浸かって見下ろせば、先ほどの若者と同様に、私も、また古代の彼も、同じように倭人を支配したいと思ったことでしょう。
しかし、彼は「入れ墨をしていない人種であった」ことはどうやら確かなようです。
なぜならば、魏志倭人伝から2000年ほどが経過した今日、この国で入れ墨をしている人を日常で見かけることは殆どなくなっていることから、彼は入れ墨習慣を好まなかった人であることがわかります。
「倭人伝には倭人の風俗について重要な証言がある。
倭人は身分の貴賎無く、皆黥面文身をしていたと書いてある。
ところが日本書紀によると神武天皇が畿内に入った時、天皇が連れていた家来が黥面をしていた事に畿内の女性が驚くシーンがある。
この時、畿内には刺青が無かったと言う事になる。
畿内の古墳出土の人物埴輪の入墨らしきもののあるが、何れも身分の低い人物だ。
黥面に驚いた女性は身分が高く、、下賤の者達の入墨に遭遇した事が無かったのだろう。
また、日本書紀に雄略天皇が部下のちょっとした失策を怒って罰として黥面をさせたと言うのである。
3世紀に全員がやっていた黥面文身の風俗が5世紀には刑罰になってしまうなど有りうるだろうか?
これは大陸からの渡来人の影響を考えなくてはならない。
私は黥面をしない渡来人がやって来て支配したからこの風俗が消えたものと考える。」
(「黥面文身」より)http://www.geocities.jp/taru638/page036.html
日本書紀の記述によれば、神武天皇と畿内に住んでいた女性たちは、「黥面」とまったく縁がなかったかのうようです。
ところが古事記にも同様の記載があることがわかりました。
「三世紀の魏志倭人伝が伝えるその習俗はそれほど伝統のある倭人固有の海人的風習である。
『古事記』にも「神武天皇」の段で神武の「皇后」になるホト・タタラ・イススキヒメ(別名ヒメ・タタラ・イスケヨリヒメ)が野遊びをしているとき、神武の供をしていたオホクメノミコトに声を掛けられ、その黥面(げいめん)を見ておどろいてうたったという古歌が記録されている。
あめつつ ちどりましとと など黥(さ)ける利目(とめ)
大意はアメ・ツツ・チドリ・シトト(本居宣長以来、鳥の名とされている)の鳥のように、なぜ入れ墨で目をするどく見せているのかといったものだが、八世紀の久米部(くめべ)にもかつての黥面の風習がいいつたえられていたらしい。」(「倭の古王国と邪馬台国問題上 著者 中島一憲」より抜粋。)
「大久米命 おおくめのみこと
記・紀にみえる久米直(くめのあたい)の祖。
「古事記」によれば,神武天皇の東征にしたがい,大和(奈良県)の宇陀(うだ)の豪族兄宇迦斯(えうかし)や,忍坂(おさか)の土蜘蛛(つちぐも)を討った。そのとき,兵の士気を鼓舞するためにうたわれたのが,久米歌とされている。「日本書紀」では大来目。」(https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E7%B1%B3%E5%91%BD-1060069より)
「久米氏(くめし)は、日本の氏族の一つ。
久米直
古代日本における軍事氏族の一つで、『新撰姓氏録』によれば高御魂(タカミムスビ)命の8世の孫である味耳命(うましみみのみこと)の後裔とする氏と、神魂(カミムスビ)命の8世の孫である味日命(うましひのみこと)の後裔とする氏の2氏があった。久米部(「くめべ」と読む。来目部とも表記することもある)の伴造氏族。
『日本書紀』神代下天孫降臨章1書には、大伴氏の遠祖の天忍日命が、来目部の遠祖である大来目命(天久米命)を率いて瓊瓊杵尊を先導して天降ったと記されており、『新撰姓氏録』左京神別中の大伴宿禰条にも同様の記述がある。このことから、久米直・久米部は大伴氏の配下にあって軍事的役割を有していたと考えられている。
ただ、『古事記』には天忍日命と天津久米命の2人が太刀・弓矢などを持って天孫降臨に供奉したとあり、大伴氏と久米氏を対等の立場として扱っており、両氏の関係を考える上で一つの問題点となると思われる。
また、神武天皇東征説話に見える来目歌、戦闘歌舞の代表といえる久米舞は、久米氏・久米部の性格を考える上で重要である。」(久米氏-wikipediaより)
・・・。
黥面の久米氏は、大伴氏の配下で軍事的役割を担う武将であったようです。
南方の狩猟民族同様に、弓矢に長けていたのでしょう。
さて、古代の話はこれくらいにします。
戦国時代にこの甲府盆地を支配するようになったのは、信玄ではなく、その父の武田信虎でした。だからほったらかし温泉に信玄が浸かったということはあったとしても、眼下の市街地は既に父の支配下にあったのでした。
「甲斐統一と甲府開設
永正16年(1519年)には、守護所を武田氏歴代の居館であった石和(笛吹市石和町)より西の甲府へ移り、初め川田に館を置く(川田館)。
のちに府中(甲府市古府中)に躑躅ヶ崎館を築き城下町(武田城下町)を整備し、家臣を集住させた(『高白斎記』)。
その後も国人領主今井氏や信濃の諏訪氏との争いに加え、大永元年(1521年)に今川氏配下の土方城主・福島正成を主体とする今川勢が富士川沿いに西郡まで侵攻し甲府へ迫ると、甲府館北東の要害山城へ退き、今川勢を飯田河原合戦(甲府市飯田町)、上条河原合戦(甲斐市、旧中巨摩郡敷島町)で撃退する。
この最中に、要害山城では嫡男・晴信が産まれている(『高白斎記』『王代記』)。」(武田信虎-wikipediaより)
湯船で私の隣の若者が云った信玄の甲府盆地支配欲の話は、どうやら事実とは異なるようです。
平時は要害城に退いていて、必要時は山から下りて来て山野の騎馬合戦で相手と戦う父の信虎でした。
戦の頃、「信玄(幼名晴信)はここほったらかし温泉より西方10㎞にある標高250mの要害山城の中で、産湯に浸かって泣いていた(ようだ)」というのが事実のようです。
要害山のふもとにある温泉旅館「要害」の温泉が、その湯に近似しているであろうと思われます。
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