2017年11月15日 (水)

LIVE 日本対ベルギー 戦 サッカー

13分過ぎ 
長沢…??知らない。けどいい選手だ。目立っています。
初めは互角に見えました。
しかし、13分過ぎにベルギーは日本の実力をすでに見切っているようです。
 
浅野を起用するのがハリルの本気布陣なのだろうが、アザールと浅野では、大人と子供くらいのサッカープロ選手の質の違いがあります。
いま出ているアザールは知らない方で、有名なアザールはベンチだから、まだベルギーは本気度2軍かも・・。
 
幼い浅野に依存せざるを得ない今の日本のFWの貧しさです。
 
31分過ぎ
長沢は初先発だそうで、知らないはずです。
 
wikipediaよりばっすいします。
 
「長沢 駿(ながさわ しゅん、1988年8月25日 - )は、静岡県静岡市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・ガンバ大阪所属 ポジションはフォワード。
愛称 シュン
生年月日  1988年8月25日(29歳)
出身地 静岡県静岡市清水区
 
身長 192cm
体重 82kg 」(抜粋終わり)
 
・・・大きな選手だ。動きはきびきびしている。
 
井手口は今日もいい状態だ。
今後欧州で高く売れる選手だ。
 
川島が3点は阻止している。おじさん、なかなか好調である。
 
その間に1点を取れれば日本の流れは作れるのだが。
 
35分過ぎ
前線での長沢のドリブルは日本人離れしている。
大きいからだがするすると前にでる。
ベルギー選手は長沢に驚いているのではないだろうか。
 
二人のアザールを紹介する。
本物はこれ。
 
「エデン・ミハエル・アザール(Eden Michael Hazard、1991年1月7日 - )は、ベルギー・エノー州ラ・ルヴィエール出身のサッカー選手。プレミアリーグ・チェルシーFC所属。ベルギー代表。ポジションはミッドフィルダー[2]。」(wikipedia)
 
いま出場しているのは、次のアザール。
私は知らない選手でした。
 
トラガン・アザール(ボルシアMG)
 
41分 そのアザールがゴール前にフリー!しかし、下手だった。
 
42分 テレ朝のアナウンサーがエデン・アザールの弟だと紹介してくれた。
兄弟なら似て非なるものです。
女子スケートの浅田姉妹、然り。
 
後半残り時間3分で1:0で予想通り日本が負けています。
もう国道20号線へ向かわねば混み始めるので、ここで家を出ます。
秋山村訪問です。

2017年11月13日 (月)

FIFA 強化試合 日本対ブラジル戦 の駄目

日本のジャーナリズムは監督交代を促しているのだろうか?
 
あの試合を録画で見ましたが、ブラジルと互角に戦えていたのは井手口1名のみ。
あとはいつものブルーな、精神的に下がったビビり侍ばかりでした。
 
メンタルがこれほど弱いと、実力は発揮できません。
 
せっかく世界のスカウトが注目して見ている試合、もっともブラジルの選手の値踏みのために見ているのですが、当然日本の優れた選手も目に入ります。
 
井手口一人しかまともな選手はいないことをPRしたはずです。
 
「リオデジャネイロオリンピックの正式メンバーにチーム最年少として選出された。
中略。
 
2017年8月31日の対オーストラリア戦では、82分にダメ押しとなる代表初ゴールを挙げ、日本代表の6大会連続W杯出場に貢献した[12]。
21歳8日でのW杯最終予選ゴールは中田英寿に次ぐ若さでW杯出場決定試合では歴代最年少となった。」(井手口陽介-wikipediaより)
 
今年の8月31日の試合で井手口の素晴らしいゴールを初めてみました。
 
こういう選手を3年間も隠したままでFIFA予選を戦ってきた監督の選手選抜の古めかしさは罪悪でさえあると思われます。
 
まだまだ若くて才能のある選手が放置されたままになっていると思われます。
 
監督は更迭すべきだと思います。
 
ジャーナリズムはその目を持たないのでしょうか?
 
かつての第二次世界大戦における報道姿勢と同様に、完璧に敗戦を喫するまでは真実から目をそらし続ける性質がまだ続いているのでしょうか?
 
まことに情けない試合でした。
ベルギー戦はもっと情けなくなるはずです・・・。
 
ブラジルは明らかにゲーム後半は力を抜きました。
日本が好きだからです。
 
しかし、ベルギーは抜きません。悲惨な結果になることでしょう。
 
ハリルにいくらのお金を払っているのか私は存じませんが、少なくとも支払った総額は国民に明示すべきでしょう。
 
カケイ、モリトモと同様の税金の無駄遣い的雰囲気を感じているところです。
 
返金させるようなペナルティ条項を契約書には入れているのかしら・・・。

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2017年11月 8日 (水)

予見可能だった東北の大津波

フロイスの日本史3巻「安土城と本能寺の変」(中央公論新社)より抜粋します。
 
1586年の京都から堺にかけての大地震の記事がありました。
 
これを読んでいれば、東電も政府も東北大地震は予測可能な出来事であると確信できたはずです。
 
「1586年 大地震」で検索すると下記が真っ先に検出されました。
 
「天正地震は、天正13年11月29日(1586年1月18日)に日本の中部で発生した巨大地震である。
天正大地震(てんしょうおおじしん)あるいは天正の大地震(てんしょうのおおじしん)とも呼ばれる。
また、各地の被害から長浜大地震(ながはまおおじしん)、白山大地震(はくさんおおじしん)、木舟大地震(きふねおおじしん)、天酉地震とも呼ばれる。
 
『東寺執行日記』、『多聞院日記』など多くの古記録に記載され、『梵舜日記』(別名『舜旧記』『舜舊記』)には約12日間にわたる余震が記録されている。」(天正大地震-wikipediaより)
 
この記述からいえることは、日本の歴史や地震研究に少しでも詳しい学者連中はこの事実をみな知っていたことだということです。
 
なぜか原発設計の場では、その知識を封印する「くせ」が政府と東電の両者にあったと言うほかないでしょう。
 
以下は本書からの抜粋です。
 
「若狭の国には海に沿って、やはり長浜と称する別の大きな町があった。そこは多数の人々が出入りし、盛んに商売が行われていた。
人々の大いなる恐怖と驚愕のうちにその地が数日間揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が、遠くから恐るべき唸りを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。
高潮が引き返す時には、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑み込まれてしまった。」(前述のフロイスの日本史より抜粋終り)
 
この記述を読んだ西洋の原子力科学者は、海岸線の比較的低地に立地する日本の多数の原発に、とりわけ爆発可能性のより高いmox燃料を搭載した原発の核爆発の可能性が高いことを予見できるのではないだろうか。
 
素人のわたしでさえも、「それ」は予見可能なものであると思いました。

Photo

(動画、岩手県陸前高田市 奇跡の一本松より)
毎日新聞のサイトから引用
https://mainichi.jp/articles/20170310/hrc/00m/040/003000d
 
上の記事を書いたあとで、フロイスの記事に出てきた若狭湾が気になったので「若狭湾 原発」で検索すると下記が検出されました。

Photo_2

「院長の独り言より」引用
http://onodekita.sblo.jp/article/55310666.html
 
・・・・。
福島原発事故の数年後に、知人の米国人5人家族が知人の母の故郷である名古屋を捨ててスエーデンへ移住した、その理由がやっとわかりました。
 
日本の将来に、原発の爆発事故が多発することの怖れを頂いたものに違いないと・・・。
 
長年の知人であったけれども、私が日本人であることを理由に、彼女にはその真意を漏らしていただけなかったのでしょう。
 
私は日本脱出の理由を、その直前に彼女に会って直接聞きました。
「フクシマ原発事故の放射能が怖いから日本から逃げるのですか?」
 
「ソレダケジャ~ナイ~!3人の娘たちの老後の生活に不安があるから。」
 
「フクシマだけじゃあない」・・・という意味だったのかもしれません。
 
日本の国土から一日も早く原発を撤去し葬り去るほかに手はありません。
 
エネルギー問題などという矮小な問題とすり替えてはいけないほど重要な政治課題です。

2017年11月 4日 (土)

秋山川の秋

ラクラクホンのカメラでは像がボケるので、昔使っていたauケータイのカメラを持参しました。
 
相模湖を源流とする秋山川の景色も秋の終わりでした。
 
帰宅して画像を見るとラクラクホンよりももっとボケていました。
 
というわけで今日の画像もボケています。・・せっかくだから、以前撮影したきれいなものを最下段に掲載しておきます。

S

写真1 秋山川の秋

S_2

写真2 川は浅い
 
秋山川そばに温泉があります。
長湯しました。
 
ぬる湯に入ってくつろいだあと、洗い場で髪を洗っているときに左の二人の団塊の世代らしいおじいさんたちの会話が耳に入ってきました。
 
「最近はよ~、若い人たちは洗わないでどぶんと入ってくるんだよね。」
 
「そうよなあ、~の湯なんて黒くなっているよ。」
 
私は声に出さずに、「そうだそうだ!」とうなづきました。
 
山形でも、ここ山梨でも、同じように現代日本人の若者はかけ湯をしないでどぶんとそのまま湯に飛び込むようだ。
 
やはり猿だよなあ・・・。
 
私もその会話に入りたい気持ちで一杯でした。
 
いつかどこかで若者が湯船の中で大けがをさせられるのではないか、などとこの国の病を心配せずにはいられません。
 
当たり前のことをできない日本人が大量に生産されています。
 
我慢の限界に来てしまった短気で屈強なおじいさんたちの逆襲がやって来る前に、いい加減に若者たちよ、自ら反省し、他者を見習って、かけ湯をしてから湯に浸かりましょう。

Photo 秋山村

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2017年11月 2日 (木)

世子(せいし)の元で戦った信長の家臣の黒人のこと(補足)

先に掲載したブログ「信長暗殺の下手人、明智が教会に理解を示していた!」に一部加筆訂正しました。その部分を抜粋掲載します。
黒人が世子(せいし)=皇太子の元で戦っていたというのは、本能寺の変のあとで、安土城に迎えていた皇太子の元で明智軍と黒人が戦っていたことを意味するものと理解しました。
 
*訂正 フロイスの日本史に、天皇の皇子のために京都に信長が邸宅を建てていたことが出てきました。50~60㎞も都から離れている安土迄、黒人が移動できるはずもないとは思っていました。本能寺の近くの皇子の別邸へ黒人は駆けつけて防衛していたもののようです。
 
なお、本能寺は法華宗の寺でしたが、信長が僧侶を追い出して自分の別荘のように使っていたようです。
 
ずっと以前にちゃんとした寺であったとき、寺の前を宣教師らが通過したとき、(フロイスにとって)異教徒である僧侶たちは宣教師らに罵声を浴びせたりものを投げつけたりと狼藉を働いたことがあるようです。
 
「自分は神である」と宣伝し始めた信長と、異教徒の拠点だった法華宗寺院を、一緒に焔の中に投じることは、フロイスにとっても溜飲が下がったのではないかと思われます。
しかし、天下を手にした異教徒の明智がイエズス会に対してどのような態度に出るのかわからないという恐怖も同時に感じていたことでしょう
 
皇太子の防衛隊を許してイエズス会へ渡した明智は、皇太子の側にも、イエズス会の側にも、両方の側に立っていたことを想像させてくれます。
 
言い換えると、信長暗殺の下手人は明智であるが、黒幕は皇太子とイエズス会であるという憶測が彷彿として私の脳裏に浮かんできたのでした。

2017年10月26日 (木)

信長暗殺の下手人、明智が教会に理解を示していた!

私は中央文庫「完訳 フロイス 日本史」全12巻を読んだことがあります。
中身はほぼ忘れました。
 
織田信長のそばにいた時間が長い宣教師フロイスの手紙や日記などが素材になっていますので、織田信長研究のために読んだものです。
 
そして10年後の今、それを電車で読んでいます・・・。
本棚に3巻がないのでそれを読んでいます。
まだ信長は元気な時代です。
 
最近たまたま下記をネットで読みました。
 
「信長、大興奮!! ~弥介の肌の色~」 
https://ameblo.jp/ukitarumi/entry-12070345720.html
2015年09月09日(水)
 
黒人を発見したときの信長の大声に興味があったからですが、その中に下記のフロイスの報告書の抜粋がありました。
例のフロイスの日本史では見た記憶がないものでした。
 
その中に驚く表現を見つけました。
 
「③「1582年11月5日付、口之津発信、ルイス・フロイス師のイエズス会総長宛、信長の死に関する報告書
 
■翻訳文■
(前略)
信長の求めによって巡察師が彼の許に残していった黒人(カフル)が信長の死後、世子の邸へ行き同所で長い間戦っていたので我らは少なからず心配していたが、明智の一家臣が彼に近づき、恐れずに刀を(棄てるよう)求めたところ、彼はこれを差し出した。
 
別の家臣が明智の許に行き、黒人をいかにすべきか問うたところ、その黒人は動物(ベスティアル)であって何も知らず、また日本人でもないから彼を殺さず、インドの司祭たちの教会に置くように命じた。」(抜粋終わり)
 
 
仏教徒(法華宗)であると思われる明智がイエズス会教会に理解を示している様子が伺えるのです。
 
黒人が世子(せいし)=皇太子の元で戦っていたというのは、本能寺の変のあとで、安土城に迎えていた皇太子の元で明智軍と黒人が戦っていたことを意味するものと理解しました。
 
*訂正 フロイスの日本史に、天皇の皇子のために京都に信長が邸宅を建てていたことが出てきました。50~60㎞も都から離れている安土迄、黒人が移動できるはずもないとは思っていました。本能寺の近くの皇子の別邸へ黒人は駆けつけて防衛していたもののようです。
なお、本能寺は法華宗の寺でしたが、信長が僧侶を追い出して自分の別荘のように使っていたようです。
 
ずっと以前にちゃんとした寺であったとき、寺の前を宣教師らが通過したとき、(フロイスにとって)異教徒である僧侶たちは宣教師らに罵声を浴びせたりものを投げつけたりと狼藉を働いたことがあるようです。
 
「自分は神である」と宣伝し始めた信長と、異教徒の拠点だった法華宗寺院を、一緒に焔の中に投じることは、フロイスにとっても溜飲が下がったのではないかと思われます。
しかし、天下を手にした異教徒の明智がイエズス会に対してどのような態度に出るのかわからないという恐怖も同時に感じていたことでしょう
 
皇太子の防衛隊を許してイエズス会へ渡した明智は、皇太子の側にも、イエズス会の側にも、両方の側に立っていたことを想像させてくれます。
 
言い換えると、信長暗殺の下手人は明智であるが、黒幕は皇太子とイエズス会であるという憶測が彷彿として私の脳裏に浮かんできたのでした。
 
そもそもなぜ私がフロイスの日本史を今電車で読んでいるのかをお話しします。
一度読んでいるから内容をよく知っているのではありません。
 
わかりにくいし、冗長な長い文章が多いのです。
だから読んでいるうちに眠ってしまいます。
 
退屈な通勤電車の中で。どうしたらぐっすり眠って疲労を取ることができるのだろうか?
必死で考えた結果が、電車で「フロイスの日本史」を読もうということだったのです。
 
2度目の読書ですが、最初が冗長ゆえに理解しずらかっただけに中身をまったく記憶していませんので、2度目でも新鮮です。
 
しかし、10分も経過すると、もう手に本を持つことができなくなります。
睡眠薬でもこれほどの効果は発揮できないのではないでしょうか?
 
だらだらと、回りくどいフロイスの言い回し。
zzzzz・・・。

2017年10月20日 (金)

米沢藩士の時間よ止まれの感覚~小野川温泉尼湯での長い沈黙

Photo

尼湯
「小野川温泉は小野小町の開湯伝説がある温泉だ。父を探して京都からここまで来たときに病にたおれ、薬師如来が夢枕で温泉を知らせて回復したという。」
写真、文とも
http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/spa/onogawa_amayu/onogawa_amayu.htm より抜粋

Siro

絵、文とも米沢城-wikipediaより引用しました。
 
「米沢城(よねざわじょう)は、山形県米沢市丸の内(出羽国置賜郡)にあった中世から近世にかけての日本の城(平城)である。江戸時代は米沢藩上杉氏の藩庁および、二の丸に米沢新田藩の藩庁が置かれていた。2017年続日本100名城に選定された」(米沢城-wikipediaより)
 
日本一コストパフォーマンスの高い温泉だと私が思う小野川温泉の尼湯での思い出です。
尼湯は地元民の共同湯ですが、泉質は滑川温泉に負けていない、と私は感じました。
湯の花の感じはむしろそれ以上の趣があると思います。
しかし、ちいさな銭湯のような湯です。
 
以前紀州白浜を訪ねたとき、似たような構造物の共同湯を3つくらい見ました。
古代から我が国にある共同湯の形式なのでしょう。
 
そういう町湯が気にいらないという人は、その少し先にある河鹿荘(かじかそう)の日帰り湯をお勧めします。
といっても私は玄関を訪ねて入らないまま帰りましたので湯船は見ていません。
 
小野川温泉のおすすめ日帰りで検索すると尼湯と河鹿荘は必ず登場し高い評価を得ています。
旅館風の風情でお湯を楽しみたい人は河鹿がお勧め。
 
私はやぼったくても庶民向けの湯でしかも湯質は日本トップクラスというものを求めていますので、尼湯に浸かったことに幸福を感じています。
 
さて、その尼湯のことです。
湯温は42度なので心して浸からないとすぐに茹で上がります。
地元のおじさんやおじいさんは実にゆったりと長く入っています。
私も頑張ったけど15分くらいで湯船のへりに上がって座ってしばらく冷やす始末でした。
 
右手に浸かっているおじいさんが湯から上がったら、そこへ私は再度浸かろうと狙っていました。
・・・20分くらい経過してもなかなかおじいさんはあがりません。
 
「一体何分浸かっているんだろう?」と部屋の中を見回して時計を探すけど、ありません。
 
・・・時計のない日帰り温泉はあまり体験していません。珍しい。
 
仕舞いに米沢人に私もなり切って、時間の経過なぞ小さな問題だあ!などと腹をくくって湯船から上がったままで、おじいさんの上りを待ちました。
 
シーン!
 
音がしないのです。
4~5人入っているのですが、一通り洗い終わると静寂が訪れます。
 
たまらず上がって冷やしているのは私だけ。肩まで浸かるおじいさんと半身浴のおじさんなど様々。
しかし物音を立てないのです。
 
時計のチクタクがこういう場合聞こえてくるのですが、その時計もないのです。
 
本当に「シーン」という状況が10分以上続いたでしょうか。
 
その時に、なぜ明治維新戦争で米沢藩が激しく戦わなかったか?
その前にはなぜ吉良邸が赤穂浪人集団による夜討強盗殺人に遭遇しているとき、実子の米沢藩主の吉良の嫡男は敵討ちに行かなかったのか?

そういう長い間の疑問が私なりに解けたのでした。
 
会津100万石を家康に奪われて米沢に押し込められて以来、耐えることを藩是としたのではなかったか・・・と。
 
江戸で討幕戦争が起きようが、第二次世界大戦が起きようが、この尼湯に浸かる藩士や明治の米沢市民は、時計のうごきなぞ無視して、ひたすら今の静かな平和な時間を堪能していたのではなかったか?
 
私は米沢藩士は腰抜けになっていたのではないかと以前は軽く考えていました。
 
しかし、尼湯の信じられないくらい静かな時計のない静寂を体感して、怯えて彼らは行動しなかったのではなく、悟ったから動かなかったのだと気づきました。
 
米沢藩士の立場で、忠臣蔵と明治維新戦争を小説に書いてみようと思いました。
 
尼湯は湯質も最高でしたが、米沢藩士の心意気を実感させてくれた温泉でした。
150年前には彼らの先祖が同じようにしてこの湯に浸かっていたことは間違いないと実感した次第です。
 
米沢牛もおいしかったけれど、米沢藩士に大いに魅力を感じました。

2017年10月18日 (水)

山猿へお詫び

最近都会の日帰り温泉に浸かった。
 
都会といっても川崎市内だから東京から見れば田舎かもしれない。
まあ首都圏である。
 
湯船に入る前にかけ湯をした。
先日このブログで講義したかけ湯方法である。
 
ところが、私は都会の湯では先客に声をかけずに入っていることに気づいた。
 
箱根の共同湯などでは一応声をかけて入っているが、当地ではかけないで入っていた。
ただ、右手を少し前に出して、声には出さないが、失礼しますという唇の動きをさせながら首を軽く上下に振って会釈をして入っていた。
 
これはゆったりと浸かっている先客に私の立てた波や音が迷惑をかけることを詫びる気持ちから、そう軽く会釈して中に入っていくのである。
 
山猿諸君に必ずかけ湯をして先客に失礼しますと声をかけて入ることと指導しておきながら、状況が変われば私は声をかけないで会釈で済ますことに気づいたのです。
ここでお詫びいたします。
 
米沢の小野川温泉共同湯尼湯(200円)では、失礼しますと声をかけたのだから、明らかに地元の人々の湯であると認識している場合は、声を出すようだ。
 
川崎市のその湯は誰もが入る日帰り温泉であって、多少は地元も来るが多くは遠くから来る人々であり、皆が対等であるという認識をしていたようだ。
人間関係を掌握することはなかなか難しい。
 
どうか山猿諸君!
人間として生まれてきたからには、最低限の日本人の常識は身に着けようぜ!
(お詫びの記事ながら、最後は説教スタイルに戻ってしまって失礼)

2017年10月16日 (月)

都心部の雌猿

Photo

「JALキャビンアテンダントがナビゲート。10分でできるイスに座ったままのリフレッシュ」より一部を引用。
http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20090106/1022494/?P=5&rt=nocnt
 
都心の地下鉄の構内ホーム、上りエスカレータ前に20人ほどが渋滞して並んでいる。
 
私は急ぐ必要もないので、ゆったりと歩いてエスカレータ前の群れに並ぼうとしていた。
 
すると、私の右後ろから足早に私を抜いていった人間がいた。
そいつの左手が私の右手の甲に触れた。
 
なんとなく柔らかい手だなあと思ううちに、若い女性がさっそうとスカートを翻しながら私の
右手をすり抜けて前に通り過ぎた。
 
それだけならよく出会うシーンであり、おかしくはない。
 
しかし、その若い女性は私の右手の甲に触れた彼女の左手を、さも汚いものに触れたかのようにぬれ落ち葉を手の甲から振り払うかのようにブラブラブラと数回振りながら歩き去っていった。
 
むっと来た私は彼女の全体像を理解しようとした。
 
正面の素顔を見ることはできない。
周囲を見るしかできない。
 
彼女は右肩の上にスマホの画面を自分の顔に向けて見ながら歩いていたのだった。
しかもスマホからは2本のイヤホンらしいワイヤーが耳へとつながっている。
 
通勤時に急ぐ必要があるときに、スマホ画面を見ながら音を聞いて急ぎ足であるく途中で、前を歩くおじいさん(私のこと)の位置を測定しそこなって手をぶつけてきたのだった。
 
それがわかってから、なおさら彼女が手をブラブラ振って迷惑なものに触ったかのようなそぶりをする姿に腹が立った。
 
なんという自分勝手な猿なんだろう。
 
ぶつかって謝るのが10年ほど前までの東京での常識だった。
いま「それ」は消えている・・・。
 
姥湯でかけ湯もせずに、こちらがした挨拶にも答えずに、静かに肩まで浸かっていた2匹の山猿の方が、まだ彼女よりは「ましな生き物」である。
 
義務教育は既に完全に崩壊している。
 
進駐軍が狙った通りにこの国は内部崩壊へと進んでいるようである。
そうなるように造られた憲法と行政システムではあった。
 
ろくな選択肢の用意されていない貧困政治家ばかりの衆議院選挙。
憲法をさらに改悪しそうな気配が感じられる。
 
第2次世界大戦の前夜も、ひょっとしてこのようなやるせない世相ではなかったのか?

2017年10月14日 (土)

山猿考~姥湯温泉の湯船にて

山猿考~姥湯温泉の湯船にて・・・
 
紅葉絶景の山間の秘湯、青味がかった乳白色の透明度15㎝のお湯にたった一人で貸し切り状態でどっぷりつかっています。
 
そこへ見た目は人間そのものの20歳代に見える若者のオス?が脱衣場から出てきました。
体を洗うのかと思っているとかけ湯もしないまま、そのままどぶんと湯に入ってきました。
 
「汚ったねえ」
 
私の第一印象です。
 
かけ湯の仕方を知らないのだから、きっと猿に違いない。
でも毛皮もなく私と同じような裸なので、どう見ても人間に見えるのです。
 
人間であるのにかけ湯を知らない?
 
だったらここで私が教えてあげるしかないだろう。
人間だったら教えれば次からはちゃんとやれるはずです。
 
まずこう教えよう。
 
座って片膝でも蹲踞でも構わないが周囲にシブキが飛び散らないように低い姿勢になってから、湯を背中に掛けます。
 
右肩から、そして左肩から。
背中などの汗を洗い流す行為です。
そのあとで前と後ろを手で洗います。
前はおしっこのでるところ、後ろは大便の出るところ。
きれいにしてから湯に入るのです。
 
最後にもう一回湯を全身にかけて、すっきりしましょう。
 
これでかけ湯が終りです。
入る前に先に入っている人へ会釈をしながら声をかけましょう。
 
「おはようございます」でもいいし、「こんにちは」でもいいでしょう。
「失礼します」もいいですね。
 
相手が返事をしなくてもかまいません。気にせずに声をかけて入りましょう。
傍にいる山猿似の若者にこれを講義するべきだろう。
 
そう考えているうちに、もう一匹の山猿が脱衣場から出てきました。
30歳代でしょう。
 
すたすた歩いてきて、かけ湯もせずにそのままどぶん。
ああ、これも猿か?!
 
こうやって次々とやってくる猿たちにここでかけ湯講義を続けていては命が持たないでしょう。
 
あと20年のわたしの寿命を全部かけ湯講習会に費やすことになるはずです。
私は親父や銭湯のおじさんたちの姿から独自に学びました。
今はその場がないようなので、本来は義務教育の中で教えるべきです。
 
東京の通勤電車の中の半分くらいはこの手合いの猿どもに見えるから、講義相手は無限
に生息しています。
 
しかるに親切にかけ湯を教えてあげようというおじさんは私一人のように思われます。
残りの人生をすべてかけ湯講義に割いてもなお、猿たちは続々と生まれて来るのです。
 
私は2匹の山猿を両側に眺めながら、こう考えました。
猿は自然のままに放置しておこう。
そうすることで私の余命20年を別の有意義な目的のために使うことができるのです。
 
そういうことを姥湯の山姥の湯の中で考えました。

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