2017年7月12日 (水)

惹かれた車のデザイン

Sport

都内のある展示場で見かけたスポーツカータイプのクーペ
 
若いころ、トヨタコロナ2000GTで走り廻った私の感性は、年老いてもまだわずかに生きているかのようにこの車の姿に惹きつけられました。
 
詳しいことはわからないまま、自然にガラケーのシャッターを押しました。
 
帰宅して調べてみるとBMWのクーペでした。
 
値段はとてもとてもの2千万円+29万円でした。
 
下記サイトに同じカラーリングの車が登場していました。
 
BMW i8
https://www.bmw.co.jp/ja/all-models/bmw-i/i8/2014/at-a-glance.html
 
1.5L3気筒のようです。

2017年6月30日 (金)

新井白石とシドッチ(8) 最終回

私は東京・日本橋の道路元標から放射状に発する5街道をすべて足で歩いた。
 
その過程で、各地に黒川という地名があり、どうもそれが隠れ切支丹と縁があるのではないかと、思うようになっていった。
奥州街道では仙台の手前に黒川という地名があった。
仙台市にはいり、広瀬川の岸でテント泊したとき、そばに切支丹殉教碑を見つけた。
 
私の住まいの近くを尻手黒川(しってくろかわ)通りが通り、北の終点が「黒川」である。
附近をあるいたけどそれらしきものは発見できなかった。
 
ただ、ハリウッドの看板、化粧品メーカだろうが、不似合いな英語の工場看板に目が注がれたことを記憶している。周囲の住宅街と英語の看板とのバランスが取れていないという違和感を私は感じた程度だった。
 
もっとも重要なものは会津若松城であって、その旧名を黒川城というそうだ。
 
「若松城(わかまつじょう)は、福島県会津若松市追手町にあった日本の城である。
地元では鶴ヶ城(つるがじょう)と言うが、同名の城が他にあるため、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多い。
 
文献では旧称である黒川城(くろかわじょう)、または単に会津城とされることもある。
国の史跡としては、若松城跡(わかまつじょうあと)の名称で指定されている。」(若松城-wikipediaより)
 
なぜ重要かというと、切支丹大名の蒲生レオン氏郷が大名となって支配し、5年近く布教活動をしたはずの地であるから、会津は切支丹にとって重要な拠点となり得たはずなのである。
 
それが「黒川」だという。
 
私は新井白石の「西洋紀聞」の中にその名を見つけて、やはりそうだったのかと納得した次第である。
その下りを抜粋する。
 
「略。
いくほどなくして、上にもかくれさせ給ひしほどに、正徳四年甲午(1714)の冬に至て、かのむかし其教の師の正に帰せしものの奴婢なりといふ夫婦もの、此教師は黒川寿庵といひしなり。番名はフランシスコ・チウアンといひしか。
 
奴婢の名は、男は長助、女ははるといふ。
自首して、昔二人が主にて候もの世にあるし時に、ひそかに其法をさづけしかども、国の大禁にそむくべしとも存ぜず、年を経しに、此ほど彼国人の、我法のために身をかへり見ず、万里にしてここに来りとらはれ居候を見て、我等いくほどなき身を惜しみて、長く地獄に堕し
候はん事のあさましさに、彼人に受戒して、其徒と罷り成り候ひぬ。
 
これらの事申さざらむは、国恩にそむくに似て候へば、あらはし申す所也。
いかにも法にまかせて、其罪には行はるべしと申す。以下略。」(p17~、東洋文庫113 「西洋紀聞」(新井白石著、宮崎道生 校註、平凡社)より抜粋終り)
 
この抜粋について拙い筆者の現代語訳でよろしければ、最下段に掲載するので参考にしていただきたい。
 
「シドッチ神父と長助・ハル夫婦」
http://mr826.net/psi/blog/081010というサイトがある。
 
そこには、長助とはるがどのようにしてシドッチの世話を焼き、やがて洗礼を受け、それを幕府へ申し出たことが述べられている。
 
シドッチの死因については、こう書いてあった。
 
「そして同年11月27日、遂に獄死する。47歳であった。
シドッチの死因についてわれわれは何も知らない。
 
ただ、絶食や毒殺の可能性も否定できないと思う。
いずれにせよ、我々はシドッチ神父を殉教者として崇めたい。」(同上より抜粋)
 
前述の東洋文庫の「西洋紀聞」に出て来る黒川寿庵には注釈がついている。それを抜粋する。
 
「注四〇
黒川寿庵 寿庵の事蹟は、「査祅余禄」(続・群書類従第十二、所収)や「小日向志」によって、その大体が知られるが、それらに従うと、明国広東の人でイルマンとなり、(海老沢氏によればカテキスタ、すなはち伝道士)、岡本三右衛門と一緒に我が国に潜入して捕らえられ投獄されたが、岡本同様ころんだため、名を黒川三郎衛門と改めて妻をも与えられ、寛文十二年(1672)七人扶持を給せられた。
 
ところが、貞享三年(1688)末に至って、切支丹奉行中山勘解由(かげゆ)の家僕某に対して手紙を寄せ、再び信仰に復したことを告げ、刑死せんことを望むと申し出た。
やがて元禄四年(1691)七月、再び獄に下され、同十八年八月十八日に没した。
行年八十歳、無量院に葬られたという。
 
なお、「査祅余禄」によれば、天和二年(1682)二月、作事奉行青木遠江守の呼出をうけて、「天地之図」に関する質問に答えているが、この人物は航海術に通じていたようである。[海老沢氏「南蛮学統の研究」九十二ページ及び附録十三のうち「学文ノ事」の「下げ札」参照]」(p114、東洋文庫113 「西洋紀聞」(新井白石著、宮崎道生 校註、平凡社)より抜粋終り)
 
黒川寿庵はヨットマンだったのである・・・。
 
熊野古道を歩いていて、熊野権現はもともと長距離航海にたけたヨットマンであることを知った。
 
和歌山から帆船にのり、日本で唯一銀の精錬をしていた対馬へ行き、銀の器を持ち帰って朝廷へそれを奉納し褒められていた。
 
東京~小笠原父島間の900㎞を私はヨットで往復したことがある。
12泊13日の長い航海だった。
 
和歌山~対馬間も似たようなものであろうが、昔の船では生死を賭けた難行であっただろう。
 
ザビエルを日本へ運んだヨットマンは本名は伝わっていない。
フランス語で海賊という意味のアヴァン船長という名だけ伝わっている。
私はアヴァンも偉大なヨットマンであると思っている。
 
奈良時代以前の熊野権現も、江戸時代の黒川寿庵も、ともにヨットマンであったところに私は大いに興味を持ったのである。
 
シドッチはどのヨットマンと長い航海をして屋久島へやってきたのだろうか。
シドッチの日本密航専用船として建造された船だったらしい。
 
「海賊八幡船」という昔の映画のサイトにそれらしい帆船図絵が登場してくる。
http://arcadia3.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-f101.html

Wakou

倭寇の活動領域(wikipediaより引用)
 
「13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の事である。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼(かいらぎ)とも呼ばれる。
 
倭寇の活動地域
倭寇の根拠地は日本の対馬や壱岐・五島列島をはじめ、朝鮮の済州島、中国の沿海諸島部、また台湾島や海南島にも存在していた。
 
ボルネオ童話において、倭寇と思しきものが活躍する伝承もあり[30]、この周辺まで広く活動していたと思われる。また倭寇であるかは不明であるが、現在のタイにおいてもスペイン軍が「ローニン」の部隊に襲われて全滅したとの記録もある。」(倭寇-wikipediaより抜粋)
 
ローニンは浪人のことだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
参考)現代語訳
 
「略。
それほどもなくて、将軍もお亡くなりになるほどに、正徳四年甲午(1714)の冬に至って、昔キリスト教の宣教師の正式な人に帰依した人物の奴婢であるという夫婦もの、此の教師は黒川寿庵と名乗ったという。洗礼名はフランシスコ・チウアンといったとか。

奴婢の名は、男は長助、女ははると言う。
幕府の切支丹奉行に自首して、昔二人の主人が生きているときに、密かに洗礼を受けていたけれども、それが国の大禁にそむくことになるとも知らずに、長年を経てしまった。
 
此のほど彼の国の人(シドッチ)が、我法のために身の危険をもかえり見ずに、万里の波濤を越えて日本に来て、そして捕らわれの身になったことを見て、我等はたいしたこともないわが身を惜しんで、長く地獄に堕していることのあさましさに、彼の人に受戒して、其の信者となることにしたのでございます。

これらの事を隠して申上げないのであれば、それは国恩にそむくに似ていると思いましたので、その秘密を明らかにして申し上げた次第です。
 
どのようであれ法にまかせて、其の罪には(罰が)下されるべきだと言う。以下略。」(p17~、東洋文庫113 「西洋紀聞」(新井白石著、宮崎道生 校註、平凡社)を現代語訳した。)
---------------------------------------------------------
 
最後になるが、長助とはる夫婦が自首した『正徳四年甲午(1714)の冬』という時代について考えてみる。
大奥に謎を秘めた絵島という大奥御年寄がいたが、その年に事件に遭遇している。
江島とも書くようだ。
 
これも「その年の冬」である。
 
「江島生島事件(えじま いくしま じけん)は、江戸時代中期に江戸城大奥御年寄の江島(絵島)が歌舞伎役者の生島新五郎らを相手に遊興に及んだことが引き金となり、関係者1400名が処罰された綱紀粛正事件。絵島生島事件、絵島事件ともいう。
中略。
 
正徳4年1月12日(1714年2月26日)、時の徳川家第七代将軍である家継の生母月光院に仕える御年寄・江島は、主人の名代として同じ年寄の宮路と共に上野寛永寺、増上寺へ前将軍家宣の墓参りに赴いた。
 
その帰途に懇意にしていた呉服商後藤縫殿助の誘いで木挽町(現在の東京都中央区東銀座界隈。歌舞伎座周辺)の芝居小屋・山村座にて生島の芝居を見た。
 
芝居の後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開いたが、宴会に夢中になり大奥の門限に遅れてしまった。
大奥七ツ口の前で通せ通さぬの押し問答をしている内にこの事が江戸城中に知れ渡り、評定所が審理することになった。
 
当時の大奥には、7代将軍家継の生母月光院を中心とする勢力と前将軍家宣の正室天英院を中心とする勢力とがあった。月光院が家継の学問の師である新井白石や側用人の間部詮房らと親しい事から、大奥では月光院側が優勢であった。」(江島生島事件-wikipedia)
 
家継の生母月光院に仕える御年寄・江島は、新井白石と同じ勢力軍内にいたのであった。
 
私は絵島は江戸市中、例えば茗荷谷に潜伏している宣教師の元へ行ったのではないかと想像したことがかつてあった。
 
長助とはるの自首と江島に、何らかの関連性を感じているところである。
 
江島の墓は数年前にお参りしたことがある。
墓へ至る途中の真っ赤な楓の木がとても印象的だった・・・。

2017年6月28日 (水)

新井白石とシドッチ(その6)

鎖国に至った由来をシドッチが新井白石に語るくだりがある。
例の書籍から抜粋する。
 
「按ずるに、ポルトガル人、初に豊後国に来れる事は、天文十年(1541)七月也。
 
其後、薩摩国に来れるは、天文十二年八月也。」(p34~、東洋文庫113 「西洋紀聞」(新井白石著、宮崎道生 校註、平凡社)より抜粋した。)
 
鎖国の前に重要な事柄が出てきた。
 
私の理解では西洋人の渡来は1549年八月のザビエルを初めとしている。
これは40年ほど前に私が高校で習った日本史をもとにしているが、その後の各種情報もそれを補強してきた。
 
『ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年(天文18年)に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。』(フランシスコ・ザビエル-wikipediaより)
 
しかし、白石は、西洋人の日本初渡来は1541年7月にポルトガル人が豊後国へ渡来したことが始まりである、とシドッチから尋問した上で書いているのだ。
 
しかも薩摩国には1543年八月にポルトガル人が到着したと書いてある。ザビエル到着の6年も前に、・・・である。
 
理屈を言えばポルトガル人は貿易交渉にやってきて、布教に来たのはザビエルが初であるということになろう。
 
しかし、私は直感であるが、ポルトガル商人は宣教師を伴い佐伯の大友宗麟の館へ1541年7月に入った、・・・と思った。
 
さらに、ザビエルをゴアから呼べと命令したのは、当時、たしか薩摩へも影響力を保有していた大友宗麟ではなかったか・・・・と。
 
大分県生まれの私にとっては、とても重要なことなので、ついこの件の抜粋を書くはめになった。
 
この国がある種の危機に遭遇した時、一般日本人の誰も知らなかったような白髪の痩せた爺さんが大分県から突然出て来て総理大臣をやってのけたことの不自然さは、この理解により氷解した。
 
「自民党籍を有したことのない唯一の内閣総理大臣」(wikipwdia)なのである。
それが偶然だったのか、あるいは必然だったのか・・・。
 
鎖国の下りはこの後の項に書くことにした。
 
wikipedia記事には1543年、種子島へポルトガル商人が偶然漂着したかのように書かれている。
 
「鎖国まで
「南蛮貿易」も参照
 
天正遣欧少年使節の来訪を伝える印刷物、1586年(京都大学図書館蔵)略。
 
朱印船(狩野内膳画の南蛮屏風より)略。
 
大航海時代以後ポルトガルは積極的な海外進出とブラジル経営を中心として国力を伸長させ、16世紀初めには東南アジアへ進出し、日本近海へも活動域を広げ始めていた。
 
そして1543年、種子島へポルトガル商人が漂着(鉄砲伝来)したことが日本へのポルトガル人の最初の上陸であったとされている[1]。
 
ポルトガルは当時、アジア地域へ植民地および貿易相手国を求め進出を行っており、日本との接触ののち通商を求める商人の動きが活発化した。
また、貿易はキリスト教布教を伴って行われるものとの戦略があり[2]、貿易商人と共に多くの宣教師も日本を訪れる事となった。
 
1549年にはフランシスコ・ザビエルが日本を訪れキリスト教布教活動を行っている。
 
その後、織田信長らの庇護のもと両国間で南蛮貿易が開始され、1557年にマカオの居留権を獲得したポルトガルは同地と九州を拠点としながら貿易を展開していった[3]。
 
ポルトガルからは多くの製品、文化が日本に流入していった一方、日本からは銀などがポルトガルへ流出した。
 
同時に、九州を中心として宣教師によるキリスト教布教も行われ、キリシタン大名なども誕生し、天正遣欧少年使節の派遣なども行われた。
 
1603年には、『日葡辞書』がイエズス会によって長崎で発行された[4]。
4年以上の歳月をかけて編纂され、中世の日本語とポルトガル語を研究するうえでの貴重な資料となっている。」(日本とポルトガルの関係-wikipediaより)
 
「貿易商人と共に多くの宣教師も日本を訪れる」ことは、当初よりそうだった可能性が高い。
 
渡船費用はポルトガルのジョアン三世の援助金によって賄っており、そのうえジョアン三世はローマ法王にアジア地域への覇権確立のための軍派遣の許可を得ていたのではなかったか。
ザビエルはその延長戦上に載って日本へやってきたのである。(ザビエル書簡集を読んだ所感より)
 
よって、1541年7月に豊後国へ上陸したポルトガル人も宣教師か修道士か説教師かはわからないが、彼らのいずれかを伴っていた可能性が高いと私は思っている。
 
しかし、宗麟は洗礼を下せる資格のある宣教師の来日を乞うたのではないだろうか?
 
そしてこの国で、しかも薩摩の祇園洲の砂浜で、初めてザビエルによる洗礼を受けたのは
宗麟ではなかったのか・・・と、夢想してみました。
 
なぜならば、大友宗麟の洗礼名は、ザビエルの名である。
 
大友フランシスコ宗麟・・・。
 
(以下はあとで補足追記したものです。)
 
しかし、時代は二人に多少のずれがあったようで、そうはとんやがおろさなかったようです。
 
「ザビエルもまたこの地(大分市)に来た宣教師の一人です。
この時挨拶をしたのが、まだ青年だった大友宗麟(この時の名は義鎮ですが、混乱を避けるため宗麟で統一します)。
宗麟がキリシタンとなるのはそれから26年も経ってからですが、この出会いは生涯忘れ得ぬものだったのではないでしょうか。」(「九州のキリシタン・ロードをゆくⅡ」より抜粋)
http://tenjounoao.waterblue.ws/travel/kyusyu2.html

2017年6月21日 (水)

新井白石とシドッチ(その5)

シドッチが屋久島に上陸し、百姓に発見される下りを、新井白石の書いた本より抜粋する。
その情景がありありと描写されているので面白い。
 
私の拙い現代語訳も下段に示す。
 

Photo

屋久島湯泊沖に船(google mapより引用)
 
「明くれば廿九日の朝(宝永5年(1708年)8月29日)、尾野間より二里計の西にある湯泊という村の沖のかたに、きのふ見えしごとくの船見えしかど、北風つよくして南をさして向きしほどに、午の時に至ては帆影も見えずなりき。
 
此の日、彼嶋の恋泊(こひどまり)といふ村の人、藤兵衛といふ百姓也。
炭焼かむ料に、松下といふ所にゆきて木を伐るに、うしろのかたにして人の声したりけるを
かへり見るに、刀帯びたるものの、手して招く一人あり。
 
其いふ所のことばも聞わかつべからず。水をこふさまをしければ、器に水汲みてさしをく。ちかづき呑て、又まねきしかど、その人刀を帯びたれば、おそれて近づかず。
 
かれも其心をさとりぬと見えて、やがて刀を鞘ながら抜きてさし出しければ、近づくに、黄金の方(ケタ)なる一つ取出してあたふ。
 
此ものきのふ見えし船なる人の、陸に上りしにやとおもひしかば、其刀をも、金をも、とらずして礒(イソ)のかたに打出てみるに、其船も見えず。また外に人ありとも見えず。
 
我すむかたにたち帰りて近きほとりの村に人はしらかして、かくとつぐ。
 
平田といふ村のもの二人出来しをともなひて、字は五次右衛門といふ者ども、松下にゆきて見しかば、一人それをたすけ、一人は其刀をもち、一人はそれが携えし袋やうの物をもちて、恋泊のものの家にいて行て、物したためてくはす。
 
かの人、また黄金のまろき二つと方(ケタ)なる一つを取出て、あるじにあたふ。藤兵衛なり。辞してとらず。
 
その物いひ、ききわきまふべからざれども、其形は我国の人也。さかやき(月代)、ここの人のごとくして、身には、木綿の浅黄色なるを、碁盤すじのごとくに染なしたるに、四目結の紋あるに、茶色のうらつけたるを着て、刀の長さ二尺四寸余なるを、我国の飾のごとくにしたる一腰(ヒトフリ)をさしたるなり。
 
此事、嶋を守れるものの許に聞こえしかば、宮之浦といふ所に、かのもの置くべき所作り出して、うつし置て、薩摩守の許につく(告ぐ)。
 
薩州の家人等、連署して、其事を長崎の奉行所に告ぐ。」
(p23~、東洋文庫113 「西洋紀聞」(新井白石著、宮崎道生 校註、平凡社)より抜粋。)
 
長崎まで新井白石は行き、そこで一度尋問したようだ。
 
その後シドッチは江戸茗荷谷の切支丹屋敷へ移され、そこで白石の尋問を受けることになる。
 

Photo_2

屋久島恋泊の藤兵衛宅(google mapより引用)左の赤い〇は湯泊付近
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
現代語訳 
 
明けて1708年8月29日、尾野間から2里西にある湯泊(ユドマリ)という村の沖合いに、昨日見えたように今日も船が見えたけれど、北風が強かったので船は南を目指して向いていたが、昼には帆影も見えなくなった。(おそらく追風を受けて帆船は南へと去ったのだろう。)
 
この日、彼の嶋の恋泊という村の人で藤兵衛という百姓が、炭を焼こうとして松下というところで木を伐っていると、うしろの方で人の声がしたので、振り返ると、刀を腰に差してはいるものの、手招きする人が一人いた。
 
その人の言うところ言葉は理解できない。水を乞うような振りをするので、器に水を汲んでその人の前にそっと置いた。
 
その人は器に近づいて来て、水を呑んだ。
そしてまた手招きをしたけれど、その人が腰に刀をさしているから恐ろしくて百姓は近づかなかった。
 
彼もその百姓の心を理解したと見えて、やがて鞘ごと刀を抜いて差し出したので、近づいてみた。すると黄金の四角いものを一つ取出して百姓に与えた。
 
この者は昨日見た船に乗っていた人が上陸してきたものに違いないと思ったので、その刀も黄金も受け取らないで礒の方へ出てみると、その船も見えなく、また彼以外に人がいるようにも見えなかった。
 
私は自分が住んでいるところへ帰って、近い隣村に人を走らせてこれこれの事があったと知らせた。
 
平田村のもの二人を伴い、字は五次右衛門といふ者たちであったが、松下に行って見たところ、一人彼の歩くのをたすけ、一人はその刀を持って、一人は彼が携えていた袋のような物を持って、恋泊のものの家に行って、食べ物を手配して彼に食わせた。
 
彼は、また丸い黄金を二つと四角い黄金一つを取出て、あるじにあたえた。その家の主は藤兵衛である。辞去してお礼を受け取らなかった。
 
その話し言葉は理解できないけれど、その外見は我国の人である。さかやき(月代)はここの人のように剃ってあり、身には、木綿の浅黄色のものを、碁盤すじのように染めたものに、四目結(よつめゆい)の紋がある上に、茶色の裏生地をつけたものを着て、刀の長さ二尺四寸余であって、我国の飾のようにした一腰(ヒトフリ)をさしている。
 
此事が嶋を守っているものの許(もと)に聞こえたので、宮之浦と言う所に、彼を置く場所を作り出して、そこに移し置いておき、薩摩守島津氏へ告げた。
 
薩州の家人等は、連署してその事を長崎の奉行所に告げた。」
(p23~、東洋文庫113 「西洋紀聞」(新井白石著、宮崎道生 校註、平凡社)を現代語訳した。)
 
島津の家臣たちの緊張した表情が目に浮かんでくるようである。

2017年6月16日 (金)

新井白石とシドッチ(その4) 撮影した写真 

A001

丸の内線の線路の向こうに行くにはどうすれば・・・

A01

丸ノ内線の線路の地下を通る車歩道、この向こう側に切支丹坂がある。

道路中央の十字の標識が、なぜか十字架に見えて仕方がない。

A002

線路とビルとトンネルと・・・。一瞬下の敷地にバイクを停めようかと思ったが、そこまでどういくかが先決課題である。

A3

江戸時代は、茗荷畑が谷間にあったそうだ。写真の上で左クリックすれば拡大された写真で掲示板の内容が読めます。

A4

丸の内線(この下をくぐり左手に上がる坂が切支丹坂

A5

研究所?

A6_3

国際仏教学大学院大学と書いてある。切支丹屋敷を訪ねていると仏教研究の大学に遭遇する。偶然ではないな、という印象を受ける。必然の理由はなんだろう。どちら側がこの大学を設置したのだろうか。

A7

思いがけず慶喜終焉地に遭遇、慶喜お前もか・・・、水戸派だものね・・。

A8

小日向一丁目東遺跡 (注:この画像の上で左クリックして拡大しても文字が読めないという場合、どうしても読みたい方はそのとき、キーボードのCtrl+[+](コントロールキーを押しながら+のキーを押すと、押す回数だけ拡大率が増します。縮小は同様にして「-」を押す。元のサイズに一気に戻したい場合はCtrl+[0](数字のゼロ)で戻ります。)

私はこの看板の中に、「1640年に筑後守が宗門改易方に任命され」その6年後にそこが「切支丹屋敷」となった旨の文字があることを、そうやって読みました。

そのキーワードでgoogle検索すると、下記のブログ記事に出会えました。

「井上筑後守政重」(新しき中世ブログ)
2009年10月13日 (火)
http://yasuraoka.cocolog-nifty.com/toma/2009/10/post-3d6f.html

「(井上筑後守政重は)1632年に大目付になり、島原の乱の鎮圧に参加、1640年に宗門改役を兼ねて、キリシタン弾圧の中心人物になった。」と同上記事に出ていました。

A82_2

町会掲示板(切支丹石碑の道路向かい)

A9

都旧跡 切支丹屋敷跡(再掲)

A10

同上、足元の石像、私には左手はマリア観音に見える。木の幹のくぼみにはおそらく十字架を埋め込んでかくしておいたのではないか・・・。

A11

切支丹坂(トンネルから手前に登ってきて、左(進行方向右折)へ折れたら切支丹屋敷跡。

A12

切支丹坂から映像ビルを見る

A12b

反対方向の路地

A13

東京地下鉄株式会社って・・・?棕櫚の木発見!

東北のあるカトリック教会の庭で尼さんに尋ねたことがある。

この庭の棕櫚の木は何に使うのですか?

「枝の主日と言ってイエスの復活を祝うときに、この棕櫚の枝を切って祭壇に備えます。皆さんが仏壇に榊を活けるのと同じように・・・。」

2017年6月15日 (木)

新井白石とシドッチ(その3) バイクで辿った経路

Photo

図1茗荷谷から茗台中学校前信号(google mapより引用)
 
国際仏教学大学院大学を記憶して於いて下さい。後日写真が出てきます。
 
何度も繰り返しますが、地下鉄で茗荷谷駅下車し、徒歩で散歩がてらに歩くことをお勧めします。なかなかバイクや自動車では行きにくい場所です。タクシーならプロですから連れて行ってくれるでしょう。
思うに、江戸時代にあっても、春日通りから切支丹屋敷へ歩いて接近するのは草の中を分け入るようで難儀なことだったろうと思います。だからこそ隠れキリシタンが集まれたのです。お奈さんもきっと・・・。

Photo_2

図2春日通りからエイゾービル(切支丹屋敷跡)までの経路(google mapより引用)
国際仏教学大学院大学を右回りに迂回しました。
 
東京地下鉄の前は一方通行です。帰りにここを逆走しガードマンにたしなめられました。下記は逆走途中の撮影です・・・。まだ交通違反にこのときは気づいていません。
 
見事な複数本の棕櫚の木のある東京地下鉄の玄関先(写真紹介します)は何らかの重要な意味のある場所だっただろうと推理しました。

Photo_3

左手上方は地下鉄丸ノ内線の地上?線路、正面の森は佛教大学 。右手に東京地下鉄(株)の棕櫚の木が見えます。
 
実質的な隠れ切支丹向けの和式の教会があったのではないだろうか・・・。
 
ユダヤ教でもキリスト教でも、ナツメヤシ、日本ではザビエル以降は棕櫚、は祈りのサインです。
 
「なつめ椰子(デーツ)物語」より抜粋します。
http://www.fmkagawa.co.jp/yomu/seikimatu/seikimatu100.htm
 
「中略。
そうです。キリストが布教を終え、エルサレムに入城したとき、民衆は、木の枝を道に敷いて歓迎しましたが、これがなつめ椰子の葉だったのです。
 
いまでもキリスト教徒たちは、復活祭直前の日曜日をパーームサンデー(palm sunday枝の主日)と呼び、なつめ椰子の葉を手にして礼拝し、次の水曜日には復活の象徴ともいわれるその葉を燃やした灰を額にすり付け、肉体は灰に帰してもやがて復活する日を信じる儀式(灰の水曜日)をし、次の日曜日の復活祭を迎えます。
 
なつめ椰子のない日本では、蘇鉄の葉を使います。
生命の木と呼ばれ、砂漠のなかのオアシスのような、きびしい環境のなかでも成長し、いつも緑を絶やさないなつめ椰子は、そのもともとの名のフェニックスが示すように、不死の象徴、勝利の象徴とみられ、ギリシャやローマでは、競技の勝利者の冠などに使われ、ローマの軍隊が行進するときは、列の先頭にこれを掲げたといわれます。以下略。」(抜粋終わり)
 
十字軍の旗印のような役割もあったのですね。
 
ザビエルは、来日前に薩摩のヤジロウと和訳聖書を創る際に、ナツメヤシを棕櫚と訳させました。

2017年6月14日 (水)

新井白石とシドッチ(その2)

二人のことを考えながら、新宿甲州街道から茗荷谷の切支丹屋敷までの道程も説明したいと思う。
 
シドッチ-wikipediaより抜粋した前の記事にあったことだが、
新井白石は、「切支丹は見つけ次第拷問、転ばせること(棄教)が最良である」、という従来の幕府の規定を破り、以下のような意見上申を行ったという。
 
1.上策 本国送還 これは難しく見えるが、一番易しい。
2.中策 囚人として幽閉 これは簡単なようで実は難しい。
3.下策 処刑 これは簡単なようで実際、簡単。
 
白石はシドッチに友情のようなものを感じていたのではないだろうか。
お金もかかるし人手も要する本国送還を「一番易しい」と教えている。
役人はその手にはひっかからなかったようだ。
 
しかし、「処刑、これは簡単なようで実際、簡単」とも書いている。
中庸の考えを持つ儒学の影響を受けた武士は中間を選ぶと読んだのだろうか。
結局幕府の役人は、「一番易しい」本国送還を選ばず、また「簡単なようで簡単な処刑」も選ばなかった。
 
つまり、シドッチを茗荷谷のこの切支丹屋敷に軟禁する策を取ったのである。
 
それは遠藤周作の書いた小説「沈黙」の宣教師や日本人宣教師ペドロ岐部が受けた拷問に比べれば、厚遇中の厚遇である。

Photo_2

切支丹屋敷跡

Photo_3

切支丹坂を登り切ってすぐに右手の映像ビルを見る。映像ビルの敷地が元の切支丹屋敷だそうだ。

Photo_5

エイゾービル 映像新聞の看板

私は川崎の自宅を出てバイクで甲州街道(国道20号線)を東へ向かった。

武田信玄の遺臣たちが、いつかはこの道を辿って家康の寝首を掻こうと思い描いていた街道であろう。それを制止するために江戸幕府は八王子に千人の同心(いまの警察官)を住まわせた。そこを今でも八王子市千人町と言う。旧甲州街道に沿う。

甲州街道も、日本橋から甲府まで歩いたので、つい記事がそちらへ脱線しそうになる。

戻す。

国道20号の大原交差点を左折し、環状七号線を右回りに練馬、亀有方面へ走る。

上の根橋北信号の次の板橋中央陸橋を左側道へそれて陸橋の真下を右折すると国道254号川越街道で本郷方面へ向かう。

以前東中野に住んでいたことがあるのでここで土地勘が働いた。

川越は大奥のどなたかが貴重な家財のみならず建築材料までも持ち出して引っ越した先であり、本郷は東大や後楽園の方向であり、江戸城へと向かう道である。

つまり、江戸城と川越の往復を頻繁に行っていた街道が川越街道であることに思いが至る。東池袋2丁目を過ぎて都電荒川線を横切る。

昔ながらのチンチン電車が走っている。

右手の数駅先に西早稲田駅があるはずだ。つまり大隈重信の早稲田大学の地域にほど近い場所を走っている。

私はこのときバイクの上で風を切りながら、西早稲田付近に住む春日局の姪であるお奈(おなあ)さんのことを考えている。また西早稲田駅前一帯の名主の夏目氏(明治時代に息子は小説家になった)のことを脳裏に浮かべているが、そのことはこの項を終えたあとの補講で触れることとしたい。

話が長くなるからである・・・。

白石はお奈さんがシドッチに会えるように計らったのではないだろうか、ふとそう感じた。

時代的に二人が接近できるかどうか検証が必要ではあるが・・・。

お奈さんが会津城の切支丹大名蒲生氏郷の家臣町野氏の妻となり会津に住む間に、松阪より亡命してきた山鹿貞似夫婦(内縁のようで妻女の名は不明)を匿い居候させた。そのお奈さんの家で生まれた男子が山鹿素行であり、吉田松陰の兵学の思想的恩師である。

ザビエルも山鹿素行も、のちの時代に松陰も平戸へと向かう。平戸城の向かい数㎞先には平戸ザビエル教会が今でも眺めることができる。

私が知っているザビエル教会は、平戸と山口の2か所だけである。かいつまんでみただけでも、やはり話は長くなる。お奈さんはやがて江戸へ出て春日局の引きで大奥へ入り、家光の禅の講師をする。

女中らはお奈さんの教えは切支丹の教えだと家光に訴え、慌てたお奈さんは切支丹大名だった父の弟が住職をする京都の寺へ行き、そこで出家し、名を祖心尼(そしんに)と改める。そのまま江戸に戻り、家光の禅の講師を大奥で継続するのである。

その隠居寺が西早稲田付近にあり、境内には無数の棕櫚の若葉が生えているのを見たことがある。

大塚一丁目をすぎて小石川五丁目を通過する。

江戸小石川別邸といえば徳川光圀(みつくに)、ドラマで有名な黄門様を思い出すが、大日本史編纂に従事させた明の亡命者、朱舜水(しゅ しゅんすい)は光圀の本郷の別邸に住み大日本史の編纂を手伝った。というか、ほとんど朱が書いたのではなかったか・・・。

日本の歴史を書くに、中国人を起用したのである。なんだか変!

その別邸は今は東大農学部正門の入って左手の銀杏の木の根元にある石碑でわかる。

「朱舜水先生住居之跡」という風な文字が刻んであったと記憶している。

大きな石碑なので見落とすことはない。

いま探しているのは茗荷谷の切支丹屋敷跡である。途中でいくつか緩やかな分岐に遭遇するが、国道254号を走ればよい。

3_254

あちらからこちらへとR254を進んできた

254

川越街道R254(春日通り)の標識が道路向かいみ見える。

そうそう。川越街道を南下している途中で、春日通りの交通標識が重なって出てきた。

川越街道は江戸に接近するとき、ある場所から春日通りに名を変えるのである。

将軍家光の乳母こと、実は家光の実母ではないかという説があるお福(のちに春日局)は各大名との謁見を大奥ではできない(子種を将軍一人に制限するために大奥へは男性禁制)ため、江戸城外に複数の住居を持ちそこで謁見した、と最近のNHK歴史もの番組で見た。

かつて江戸城で家康の子を身ごもったお福は、切支丹大名大友宗麟の影響下にあった佐伯城下町で子を産み、江戸へ戻って秀忠の長男とすり替え育てた、という説がある。

これもNHK佐伯局の報道で古文書を証拠として示した解説を数年前に見た。

政治的な要請を大名から聞いた春日局は江戸城に戻り、家光へ取り次いでいたのであろう。

斎藤福の父親が明智光秀の重臣斎藤利三であり、本能寺で織田信長を殺害した下手人の統領であることはあまり喧伝されてはいないように思われる。

さる高貴な女性が江戸城から川越に転居させた家財道具を一度見聞しておく必要がある。

ザビエルは布教をする相手として女性を目標として定めたようである。当時の大名の男性は男色趣味があり洗礼を授けることが不可能であったという事情もあるが、フランシスコ大友宗麟、レオン蒲生氏郷など若干の例外はある。

川越には、マリア観音や十字架を模した家財があるのではないか。

また脱線しそうになる。

ともかく江戸に近づくと国道254号は春日通りと名を重複して用いるのである。

それは江戸時代もおそらく同じであっただろう。

大名にとってはるばるやってきて春日通りに着くということは、実質的に家光謁見に相当する面会を春日局とできるのである。

末子相続の認可など、幕府に目をつむってもらいたいお願いごとは沢山あったことだろう。

やがて茗荷谷駅前を通過し、すぐに茗台中学前信号を右折し、とても狭い路地へと入る。突き当りで交通止めにあう。自家用車ではいかない方がよい。

私は突き当たるまでバイクで前に進む。

階段に突き当り、仕方なくその場に駐輪して、徒歩で階段を10段ばかり降りて周辺を撮影した。

Photo_4

庚申坂下を左右に走っているのは線路で地下鉄丸ノ内線が地上を走っているところだ。

線路下にトンネルがあり、その向こうが切支丹坂であると町内看板に書いてある。

Photo_6

庚申坂

この庚申坂下にある地下鉄丸の内線の地上線路?の下の歩道トンネルの先に切支丹坂があり、その先が屋敷跡だと思われる。

一旦川越街道に戻ってどこかで大きく右へ迂回してから裏側から庚申坂下へ接近することにしよう。(その3に続く)

 

 

 

大涌谷を初めて覗きました

失敗は成功の元、七転八起。
 
早朝出発していつもの信玄隠し湯へ向かう。
水曜日は休日の看板!
 
一旦はそのまま家に帰ろうと国道246号を逆に走っていたが、右折小田原の交通看板を見て箱根へ行こうと決意した。

1 あぶりやま(大山)に雲がかかっている。

Photo 小田原市民はジョークがお好きか、或いは本気なのかもしれない。看板左下の川を眺める。

5s 懐かしい川藻。

3s 反対側はまともなメッセージ

温泉は強羅温泉に浸かることを内心決めていたが、もしあの大涌谷直下の眺望の良い泥湯の館が営業しているならそこへ浸かるかもしれない。
かつて何度も立入禁止の看板と警察官に制止された三叉路へたどり着く。
高度が高いから肌寒く感じる。
三叉路で観光バスやら自家用車やらが顔を突き合わせて徐行。
接近してみると、皆さんどんどん大涌谷へと左折し、坂を上っている。
立入禁止は解除されていた。
私の初大涌谷が実現するということだ。

8

大涌谷駅駐車場でバイル駐輪210円ですと言われる。左端が私のバイク。
山頂付近だから整備がかかるのだろう。払う。

9

もうもうと硫黄の白煙があちこちから上がり、軽いジェット音も聞こえる。
1年ほど前だったか、ジェット旅客機並みの轟音を吐いていたのはこの開口部だったのかとなんだか懐かしい。

6

人込み入ると8割がた中国語が耳に入ってきた。

7

そうだ、黒卵を買おう。温泉卵だけ買って出てきた。買い物は中国人に任せよう。

9_2

9s

9_4

10 箱根外輪山

12 山の奥に大涌谷。この辺りが強羅温泉だ。

2017061412140001_3 強羅駅から徒歩1分の場所

11s 本格温泉に1000円はお得。

13ph222 大浴場
確かに酸性温泉だ。湯上りにお腹や腿などの脂肪の付近が赤くなっていた。湯治効果はありそう。健保は効かないけど。

大涌谷からひいた酸性ph2.2・カルシウムー硫酸塩・塩化物温泉・加温加水無しの源泉掛流し・の白濁した湯である。湯温はやや高いが、湯治にはもってこいである。

熱いので1時間も入っていなかったが、効能はぞんぶんに感じている。もう一度来たい湯である。

電車で行ける日帰り温泉としては、「湯質は一流」といってもいいのではないか。

2017年6月10日 (土)

6月8日朝の百合の蕾・・・その後

677

6月8日朝7時 右手の蕾は少し開き始めています。

67730

6月8日朝7時30分 髭を剃って、朝食を食べ、ネクタイを締めながら30分後に撮影。こころもち蕾が開いたような気がします。日照の影響が大きいようです。

67740as

6月8日朝7時40分AS もう家を出ないといけません。お出かけ前に1枚。

6774050

6月8日朝7時40分  もっと開いているように見えます。では行ってきま~す!

6821

6月8日夜21時満開! 帰宅して浅野蕾が満開になっているのに気づきました。窓ガラスに近い右側の花です。

69730a

6月9日朝7時30分A

69730

6月9日朝7時30分B

610745a

6月10日朝7時45分―A

610745b

6月10日朝7時45分―B  以上です。
 

2017年5月30日 (火)

お気に入りの日帰り湯

2017042509570000

この山のふもとにあります。山の向こうは信玄の甲州です。峠を騎馬で信玄らが下りて来る光景が目に浮かびます。

S

小田原攻めのあとで傷病兵の傷を癒させたのでしょうか。

2017042510010002

騎馬民族は川の水の色で塩分のあることを見抜いていたことでしょう。馬が飲まない水ですから・・・。いや馬のミネラル補給に好適だったのかも知れません。

それが温泉にはいいアルカリ水なんです。

2017042510170001

ぶなの木を眺めながら、1週間の疲れをいやす。娘の婚約により喪失感を受けたときもここで癒されました。ふーっ、いい湯です。

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

最近のコメント

2017年7月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ