2017年8月14日 (月)

禁忌への挑戦(キンキキッド)

箱根でコストパフォーマンス日本一の湯(cp日本一)を発見したものの、
私には禁忌(きんき)に該当するのではないか、と思うほど入浴後の体調が悪かった。
 
しかし、このままあきらめるのではもったいない。
 
禁忌(きんき)という意味は、こうだった。
 
「1回の温泉入浴または飲用でも体に悪い影響をきたす可能性がある病気のことを指します。
禁忌症でも、専門的知識のある医師の指導のもとで温泉療養を行えます。」
(「知っておきたい!適応症と禁忌症とは?」より抜粋。)
http://www.asahi.com/ad/furozuki/furo/20160531_01.html
3/14/2017
 
つまり、
①体に悪いよ。
②病気治療にいいよ。
と、異なる二つの意見が書いてある。
 
あの最初に入浴した日は晴天で暑かった。
その1週間は体力も劣っていた。
そういうときに入浴して湯当たりを起こし、熱中症の症状も出たのではなかっただろうか。
 
もう一度この湯に入ったら、
①お陀仏になるか、
②健康を回復する、
どちらかである。
 
ロシアンルーレット・・・。
「ロシアンルーレット (русская рулета) は、リボルバー式拳銃に一発だけ実包(弾薬)を装填し、
適当にシリンダーを回転させてから自分の頭(特にこめかみ)に向け引き金を引くゲーム。
弾丸が入っていると予想した場合、天井に向けて引き金を引くことも可能とされるが、不発の場合無条件で負けとなる。
 
なお、リボルバーは設計上、シリンダーのどの穴に弾が入っているか視認できる。
よって残りの穴にダミーカートリッジを装填する、目隠しをするなどの対策をとるか、
或いは何らかの理由で判断力を失っているか強制されている場合でもなければ、
ルールにより負けにはなっても死を避けることは難しくないと考えられる。」(wikipediaより)
そして、私は禁忌への挑戦を行った。
 
今日で入浴後4日目を迎えたが、ますます元気である。
肌の艶もよい。
あらゆる健康指標が改善してきている。
 
ルーレットは②だった!
数回継続して禁忌を回避できるとすれば、箱根の湯は私の毎週の湯治場となるだろう。
もしそのおかげで長生きできたとしたら、神奈川県に住んで良かった・・・、と思うに違いない。
具体的には下記の改善を行い再挑戦した次第です。
私には効果的でもほかの人にはそうでない場合もありますので、あくまで参考までに記載します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
参考:私の禁忌への挑戦メニュー
 
箱根でコストパフォーマンス日本一の湯を発見したものの、禁忌に該当するのではないかと思うほど体調が悪かった。
 
しかし、このままあきらめるのではもったいない。
 
対策を講じた。
 
入浴前にペットボトルの水を半分飲む。
 
腰湯 5分
①肩まで浸かる40を数える。
②腰湯 5分
③足湯 5分
 
①~③を合計3サイクル回す。
 
洗髪だけして体はさっと拭く程度。
 
湯上りに脱衣場でペットボトルの水の残りを全部飲む。
 
ちなみに前回脱衣室の洗面器の蛇口の水をがぶ飲みしたことを後悔していたが、確認すると普通の水道水だそうだ。
 
前回は、熱中症にかかりかけていて入浴したために、体調悪化を生じたのかもしれない。

2017年8月10日 (木)

寿楽荘の湯の思い出(山口県光市)

一度このブログに書いたことがあるが、今はない幻の名湯「寿楽荘」について想い出を述べたい。
 
湯質は単純アルカリ性のよくある湯だったと思う。
現在でも付近にいくつか温泉旅館が営業している。
 
寿楽荘は大々的に改造してバーデンハウス光という名の温泉スパに生まれ変わっている。
これはこれで桜の花の下の露天風呂などは誠にいいものである。
 
忘れられないのは寿楽荘の窓辺の樹木に山鳥がやってきて、窓から漏れ出る湯気の揺らぎの中でさえずるシーンである。
 
温泉と野生の鳥のコラボレーション・・・。
 
上の娘が小学校2年くらい、8歳くらいだろうか、その妹が4歳の、二人を連れて浸かりに来たことがある。
入浴料は大人で350円だった。
 
まだ幼いので二人とも私と一緒に男湯に入った。
 
髪を洗い、体を洗ったら、最後に湯に肩まで浸かって30を数える。
自宅の風呂でやっていた習慣である。
 
あとから済まないことを命じたと後悔しているが、温泉の内湯は熱い。
自宅の湯より相当に熱い。
 
なのに、同じ30を肩まで浸かって数えさせたのである。
 
幼児は熱い湯には耐性がないのではなかったか。
 
今ならそこに配慮が行くが、当時は機械的に「湯から上がる前に30を数えなさい」といささか強権的な父親命令をしていたものだ。
 
命令には抵抗しがたく、二人ともおりこうさんに肩まで浸かって、頬をリンゴのように真っ赤にしながらきちんと30を数えた。
 
「さ~んじゅ!」ざぶーっと湯から立ち上がったら全身から湯気が立ち上っていた。
 
倒れることもなく元気に脱衣場へ走って行ってくれただけで大変な親孝行である。
 
寿楽荘には、野鳥だけでなく、娘たちとの思い出もあったのである。
 
私のコストパフォーマンス日本一の温泉探しの旅は終わることはないだろう。
幻の寿楽荘は、ひょっとしたら山形にあるのではないだろうか?
温泉宿の商売敵(かたき)であるはずの群馬の温泉旅館の御主人が、そっと私に教えてくれた。
 
「温泉好きは山形に行くがいい。あそこにはいい湯が沢山ある。」
 
群馬に名湯が沢山あるのはお互い承知の上での、牧ストーブの前での談話だった。
夏の厳しさが緩んだ頃に、山形を一度走ってみたいと思う。

2017年8月 5日 (土)

温泉と禁忌(きんき)

「知っておきたい!適応症と禁忌症とは?」より抜粋します。

http://www.asahi.com/ad/furozuki/furo/20160531_01.html

3/14/2017

「禁忌症について
1回の温泉入浴または飲用でも体に悪い影響をきたす可能性がある病気のことを指します。
禁忌症でも、専門的知識のある医師の指導のもとで温泉療養を行えます。
 
禁忌症には温泉の一般的禁忌症、泉質別禁忌症、含有成分別禁忌症があります。
 
温泉の一般的禁忌症は、病気の活動期や活動性の結核を始めとする、身体衰弱が著しい場合、慢性の病気がある場合などが挙げられます。
 
泉質別禁忌症においては2つの泉質が要注意。酸性泉と硫黄泉で、皮膚または結膜の過敏な方、高齢者の皮膚乾燥症の方の浴用は避けた方がいいでしょう。
 
最後に含有成分別禁忌症について。温泉に含有している成分別に飲用を避けた方がいい場合もあります。ナトリウムイオン、カリウムイオン、マグネシウムイオン、よう化物イオンを含む温泉を一日に多量摂取するとよくないとされるので、飲用は気を付けましょう。」(抜粋終わり)
 
これを読んで、私が最近行った日帰り温泉で行った行為に、ひょっとしたら最後に書いてある飲用を行った可能性があることに気づきました。
 
温泉を呑んだというつもりはありません。
 
バイクで暑い中を走って着いて、自販機がなかったので、着替え室の水道の水をごくりごくりとコップ一杯分飲んだのでした。
 
含有成分別禁忌症の中に持病があったのだろうと思いました。
 
すると、飲まねば皮膚過敏程度の作用しか悪いものはないのだと言えるようです。
 
恐いけど、もう一度飲用をしないで先の温泉に浸かって来る必要があります。
何も起きなければ、毎週湯治に通えるいい湯にはなるのですが・・・。さて。

チェルノブイリに学びましょう

最近この記事に出会いました。

このブログを読んでおられる読者の皆さんは、何度もそれに類する警告記事をここでご覧になっていたはずです。

最近は言いつかれて何も書かなくなっていますが・・。

 

「ショック報告!!福島原発事故の5年後からはじまる日本人の悲劇」

http://shinhakken-blog.seesaa.net/article/430044617.html

 

この記事も同じようにチェルノブイリで事故の5年後に生じ始める急激な病気増加のことを書いていたのです。

 

論評は避けます。皆さんの見識でご判断ください。

2017年8月 1日 (火)

日本一のCP、本格温泉に箱根で入った(650円也)

追記します。
下記の湯には禁忌がありますのでご注意ください。
どこの湯だと書いていませんのでまだ行ってはいないと思いますが、追記します。
 
入浴したのが8月1日ですが、3日、4日と計3回具合が悪くなりました。
偶然なのか、入浴の悪影響なのか、わかりません。
どうやら私には合わないようです・・・。
湯治どころか東寺にいくことになりそうです。
 
もしこのような湯に出会ったら、よく禁忌を確認してから入るかどうかをお決めください。
 
禁忌とは悪化させる可能性のあるものを指します。
 
参考例)
「急性疾患(特に熱のある場合)、活動性の結核、悪性腫瘍、重い心臓病、呼吸不全、
腎不全、出血性疾患、高度の貧血、その他一般に病勢進行中の疾患、
妊娠中(特に初期と末期)、皮膚・粘膜の過敏な人、殊に光線過敏症の人 」などなど。
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私は老人ではな~い!
 
そう思っている老人の方は入れないいい湯です。
 
私はこれまでコストパフォーマンス(つまり湯質÷入浴料金)最大の温泉を探して参りました。
 
山梨で日本一の湯だとこのサイトで報告したこともあります。
30年ほど前、幼稚園児童くらいの娘たちを男湯に連れ込んだ山口県の光市の寿楽荘は透明なアルカリ温泉で、山梨のそれに似ていました。今はバーデンハウス光として生まれ変わって今の時代風なスパになり替わっていました。
 
私は350円で入浴し、内湯の窓からモズや山鳩の鳴く姿を見るのが一番の楽しみでした。
今はそれは不可能になりました。
 
そこでバイクを買って、関東一円を走り回って寿楽荘を越えるコストパフォーマンスの湯を探しているのです。
 
群馬草津でもこれこそコストパフォーマンス日本一(CPと略称します。)だと書いたこともありました。
 
他に知らないから仕方なく日本一に評価を下したというのが正直なところです。
 
本日は自宅に最も最寄りの名湯である、箱根に向かいました・・・。
帰りに午後集中豪雨に会い、高速道路で対向車線のダンプが跳ねた重い水滴を全身にドカンドカンとまるで石ころを投げつけられたような衝撃を受けながら走りました。
時速100㎞で大きな水滴を胸で受けるとすごい衝撃になります。
 
帰宅してニュースを見ると蛯名で1時間に120㎜の大雨だったそうです。
100㎞/Hを越えるとこういう場合ウオータープレーニング現象が起きると体験済みですので、90㎞/Hに落して走りました。
 
ウオーターは水のこと、プレーニングとは「滑空」とか「滑る」という意味で、平たい石を川面に上手に放り投げると重いはずの石がまるで飛行機のように水面上をトントンと跳ねていくのがプレーニングです。
 
ヨットでも一般の速度を越えて強風時に走ると「プレーニング」を始めます。船がグイッと舳先を水面の上近くへ挙げて、お尻を左右に振りながら舵にはブーンという共振音を発しながら制御できないくらい早く水面を滑空します。(これは470級というオリンピック艇の体験談です。)
 
これを上手にできる人が日本一になり、オリンピックに行けます。私は実業団では日本一になりましたが、全日本では25位だったのでモントリオールオリンピックには行けませんでした。
 
つまり滑って転んではいけないのでバイクの速度を落としたという次第です。
話がプレーニングしてしまいました。
 
テーマは日本一のCPらしい本格温泉に今日は箱根で入った、ということです。
場所は言わないつもりですが、いつかやはりそこが日本一だと確信したらこの場で申し上げます。
 
親しい友人の老人4名にはこっそり教えますが、まだ老人ではない!などと見えを張っているやつは入れないことでしょう。ふふふ。
 
大涌谷温泉からの引湯なので薄い茶色がわずかに見える白濁湯です。
加水もなく、加温もせず。
しかもかけ流しです。
650円で気楽に入れるとは、稀有な天然温泉と言っていい。
大涌谷源泉「山田家」や五採館などの白濁湯は泥のような重い湯質のものが底に沈んでいて、いかにも大涌谷の白濁湯だと感じますが、ここのはそれに地下水が半分ほど入ったような、ほどよい白濁湯でした。それでも立派な大涌谷の湯だと思います。
 
日帰り入浴湯というよりも、「外来入浴可の共同浴場」という方が、建物や看板の風景に似合っている。
 
内湯は10人が入れるくらいで。露天風呂はない。
寿楽荘も同じだったから、私にとっては問題ではない。
 
小学生は大人の半分、それ未満はただだ。
子供に優しい。
 
問題は湯質です。
シャワーのある洗い場は男湯に3つ、女湯には5つある。シャワーのないカランだけの洗い場はもう少し多かったようだ。私にはシャワーはなくてもあってもどうでもよい。
石鹸だけはあるが、やはり自分用を持参すべし。本格日帰り入浴を目指すならば必要な心得だ。湯質意外に気を取られていること自体が、もう日帰りプロ失格である。
 
朝9時から入れるのはありがたい。
私は国道246号が空いている早朝5時~6時に走るので箱根には9時前に着くことが多い。
午後3時には一般入浴は終了。
 
地元の人にはピンとくる湯だろうが、よそ者の私が偶然辿り着くのはなかなか大変だと思う。町の人に聞いて地元の人の入る湯を教えてもらった次第。
聞き出す努力を惜しんではいけない。
とくに「俺はまだおいぼれていない」などと強がり言う年寄りにはこの湯は目に入らないだろう。
 
実はこの1㎞付近に似たような湯で、湯は透明だがなんと400円で入れる共同湯がある。
もし湯質さえここと同等であれば、CPはここを越えて日本一となるだろう。
そうすれば私は上記のお宝湯のことを場所で詳細に「よそ者たち」へお教えしたいと思う。
今のところ、密かに私は日本一CPの湯だと思い込んで、余韻を楽しんでいる。
湯上りには湯当たりしそうになって、気を付けないと湯船で倒れかねない。
体に効きすぎるのか、或いは逆効果なのか、持病に聴かねばわからない。
 
帰宅して血圧を計ったら、かなり改善していたので、その点ではよさそうな湯治湯である。
 
帰路の大雨にはバイクのシートの上で面食らった。
しかし、大雨や台風の時でもかつてホンダCB1300TR(ツーリング)で名古屋から5時間かけて川崎へ走ったキャリアがいまも生きている。ちっとも怖くはなかった・・・。
 
水滴を受けた胸やヘルメットが叫んでいただけである。

2017年7月30日 (日)

ふふふ

2017072816070000

DOCOMOガラケーN-01Gという製造中止品を町田のビックカメラアウトレットで購入したものですが、ピントがあいません。しかも新品時にminSDが壊れて使えません。

救いは購入費が3000円前後で月々1420円でケータイができるということです。

SNSメールも携帯同士ならできます。音声通話はかなり品質は劣化していますが、何とか家内との通話は確保できています。声が全然本物と違うのが雑音の「なせるわざか。

値段の安さには代えられない。メールは月額500円くらいでパソコンからNIFTYで楽しんでいます。

さて、このボケた写真は中川温泉ぶなのゆを午後1時頃に出たときに、玄関右手の河原を見下ろして撮影したものです。

かねてより、私はこの川でこういう遊びをしたいと願っていましたが、彼らに先を越されました。悔しい限りです。

九州の筑後川、先般氾濫で大被害を受けた河川ですが、その川でこういう風にして毎年のん夏を腕白坊主として過ごしていたから、ぶなのゆの川には懐かしさを覚えていました。

50

少し上流ではやや年長の中学生くらいの子供たちが大人の引率のもと、ライフジャケットをちゃんと着て清流をさかのぼっていました。

私らの頃は、素潜りでしたので、ジャケットなんか・・・ふふふ。

今は着けていないと「いけない子」にされてしまうのでしょうね。ふふふ。

2017年7月12日 (水)

惹かれた車のデザイン

Sport

都内のある展示場で見かけたスポーツカータイプのクーペ
 
若いころ、トヨタコロナ2000GTで走り廻った私の感性は、年老いてもまだわずかに生きているかのようにこの車の姿に惹きつけられました。
 
詳しいことはわからないまま、自然にガラケーのシャッターを押しました。
 
帰宅して調べてみるとBMWのクーペでした。
 
値段はとてもとてもの2千万円+29万円でした。
 
下記サイトに同じカラーリングの車が登場していました。
 
BMW i8
https://www.bmw.co.jp/ja/all-models/bmw-i/i8/2014/at-a-glance.html
 
1.5L3気筒のようです。

2017年6月30日 (金)

新井白石とシドッチ(8) 最終回

私は東京・日本橋の道路元標から放射状に発する5街道をすべて足で歩いた。
 
その過程で、各地に黒川という地名があり、どうもそれが隠れ切支丹と縁があるのではないかと、思うようになっていった。
奥州街道では仙台の手前に黒川という地名があった。
仙台市にはいり、広瀬川の岸でテント泊したとき、そばに切支丹殉教碑を見つけた。
 
私の住まいの近くを尻手黒川(しってくろかわ)通りが通り、北の終点が「黒川」である。
附近をあるいたけどそれらしきものは発見できなかった。
 
ただ、ハリウッドの看板、化粧品メーカだろうが、不似合いな英語の工場看板に目が注がれたことを記憶している。周囲の住宅街と英語の看板とのバランスが取れていないという違和感を私は感じた程度だった。
 
もっとも重要なものは会津若松城であって、その旧名を黒川城というそうだ。
 
「若松城(わかまつじょう)は、福島県会津若松市追手町にあった日本の城である。
地元では鶴ヶ城(つるがじょう)と言うが、同名の城が他にあるため、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多い。
 
文献では旧称である黒川城(くろかわじょう)、または単に会津城とされることもある。
国の史跡としては、若松城跡(わかまつじょうあと)の名称で指定されている。」(若松城-wikipediaより)
 
なぜ重要かというと、切支丹大名の蒲生レオン氏郷が大名となって支配し、5年近く布教活動をしたはずの地であるから、会津は切支丹にとって重要な拠点となり得たはずなのである。
 
それが「黒川」だという。
 
私は新井白石の「西洋紀聞」の中にその名を見つけて、やはりそうだったのかと納得した次第である。
その下りを抜粋する。
 
「略。
いくほどなくして、上にもかくれさせ給ひしほどに、正徳四年甲午(1714)の冬に至て、かのむかし其教の師の正に帰せしものの奴婢なりといふ夫婦もの、此教師は黒川寿庵といひしなり。番名はフランシスコ・チウアンといひしか。
 
奴婢の名は、男は長助、女ははるといふ。
自首して、昔二人が主にて候もの世にあるし時に、ひそかに其法をさづけしかども、国の大禁にそむくべしとも存ぜず、年を経しに、此ほど彼国人の、我法のために身をかへり見ず、万里にしてここに来りとらはれ居候を見て、我等いくほどなき身を惜しみて、長く地獄に堕し
候はん事のあさましさに、彼人に受戒して、其徒と罷り成り候ひぬ。
 
これらの事申さざらむは、国恩にそむくに似て候へば、あらはし申す所也。
いかにも法にまかせて、其罪には行はるべしと申す。以下略。」(p17~、東洋文庫113 「西洋紀聞」(新井白石著、宮崎道生 校註、平凡社)より抜粋終り)
 
この抜粋について拙い筆者の現代語訳でよろしければ、最下段に掲載するので参考にしていただきたい。
 
「シドッチ神父と長助・ハル夫婦」
http://mr826.net/psi/blog/081010というサイトがある。
 
そこには、長助とはるがどのようにしてシドッチの世話を焼き、やがて洗礼を受け、それを幕府へ申し出たことが述べられている。
 
シドッチの死因については、こう書いてあった。
 
「そして同年11月27日、遂に獄死する。47歳であった。
シドッチの死因についてわれわれは何も知らない。
 
ただ、絶食や毒殺の可能性も否定できないと思う。
いずれにせよ、我々はシドッチ神父を殉教者として崇めたい。」(同上より抜粋)
 
前述の東洋文庫の「西洋紀聞」に出て来る黒川寿庵には注釈がついている。それを抜粋する。
 
「注四〇
黒川寿庵 寿庵の事蹟は、「査祅余禄」(続・群書類従第十二、所収)や「小日向志」によって、その大体が知られるが、それらに従うと、明国広東の人でイルマンとなり、(海老沢氏によればカテキスタ、すなはち伝道士)、岡本三右衛門と一緒に我が国に潜入して捕らえられ投獄されたが、岡本同様ころんだため、名を黒川三郎衛門と改めて妻をも与えられ、寛文十二年(1672)七人扶持を給せられた。
 
ところが、貞享三年(1688)末に至って、切支丹奉行中山勘解由(かげゆ)の家僕某に対して手紙を寄せ、再び信仰に復したことを告げ、刑死せんことを望むと申し出た。
やがて元禄四年(1691)七月、再び獄に下され、同十八年八月十八日に没した。
行年八十歳、無量院に葬られたという。
 
なお、「査祅余禄」によれば、天和二年(1682)二月、作事奉行青木遠江守の呼出をうけて、「天地之図」に関する質問に答えているが、この人物は航海術に通じていたようである。[海老沢氏「南蛮学統の研究」九十二ページ及び附録十三のうち「学文ノ事」の「下げ札」参照]」(p114、東洋文庫113 「西洋紀聞」(新井白石著、宮崎道生 校註、平凡社)より抜粋終り)
 
黒川寿庵はヨットマンだったのである・・・。
 
熊野古道を歩いていて、熊野権現はもともと長距離航海にたけたヨットマンであることを知った。
 
和歌山から帆船にのり、日本で唯一銀の精錬をしていた対馬へ行き、銀の器を持ち帰って朝廷へそれを奉納し褒められていた。
 
東京~小笠原父島間の900㎞を私はヨットで往復したことがある。
12泊13日の長い航海だった。
 
和歌山~対馬間も似たようなものであろうが、昔の船では生死を賭けた難行であっただろう。
 
ザビエルを日本へ運んだヨットマンは本名は伝わっていない。
フランス語で海賊という意味のアヴァン船長という名だけ伝わっている。
私はアヴァンも偉大なヨットマンであると思っている。
 
奈良時代以前の熊野権現も、江戸時代の黒川寿庵も、ともにヨットマンであったところに私は大いに興味を持ったのである。
 
シドッチはどのヨットマンと長い航海をして屋久島へやってきたのだろうか。
シドッチの日本密航専用船として建造された船だったらしい。
 
「海賊八幡船」という昔の映画のサイトにそれらしい帆船図絵が登場してくる。
http://arcadia3.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-f101.html

Wakou

倭寇の活動領域(wikipediaより引用)
 
「13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の事である。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼(かいらぎ)とも呼ばれる。
 
倭寇の活動地域
倭寇の根拠地は日本の対馬や壱岐・五島列島をはじめ、朝鮮の済州島、中国の沿海諸島部、また台湾島や海南島にも存在していた。
 
ボルネオ童話において、倭寇と思しきものが活躍する伝承もあり[30]、この周辺まで広く活動していたと思われる。また倭寇であるかは不明であるが、現在のタイにおいてもスペイン軍が「ローニン」の部隊に襲われて全滅したとの記録もある。」(倭寇-wikipediaより抜粋)
 
ローニンは浪人のことだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
参考)現代語訳
 
「略。
それほどもなくて、将軍もお亡くなりになるほどに、正徳四年甲午(1714)の冬に至って、昔キリスト教の宣教師の正式な人に帰依した人物の奴婢であるという夫婦もの、此の教師は黒川寿庵と名乗ったという。洗礼名はフランシスコ・チウアンといったとか。

奴婢の名は、男は長助、女ははると言う。
幕府の切支丹奉行に自首して、昔二人の主人が生きているときに、密かに洗礼を受けていたけれども、それが国の大禁にそむくことになるとも知らずに、長年を経てしまった。
 
此のほど彼の国の人(シドッチ)が、我法のために身の危険をもかえり見ずに、万里の波濤を越えて日本に来て、そして捕らわれの身になったことを見て、我等はたいしたこともないわが身を惜しんで、長く地獄に堕していることのあさましさに、彼の人に受戒して、其の信者となることにしたのでございます。

これらの事を隠して申上げないのであれば、それは国恩にそむくに似ていると思いましたので、その秘密を明らかにして申し上げた次第です。
 
どのようであれ法にまかせて、其の罪には(罰が)下されるべきだと言う。以下略。」(p17~、東洋文庫113 「西洋紀聞」(新井白石著、宮崎道生 校註、平凡社)を現代語訳した。)
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最後になるが、長助とはる夫婦が自首した『正徳四年甲午(1714)の冬』という時代について考えてみる。
大奥に謎を秘めた絵島という大奥御年寄がいたが、その年に事件に遭遇している。
江島とも書くようだ。
 
これも「その年の冬」である。
 
「江島生島事件(えじま いくしま じけん)は、江戸時代中期に江戸城大奥御年寄の江島(絵島)が歌舞伎役者の生島新五郎らを相手に遊興に及んだことが引き金となり、関係者1400名が処罰された綱紀粛正事件。絵島生島事件、絵島事件ともいう。
中略。
 
正徳4年1月12日(1714年2月26日)、時の徳川家第七代将軍である家継の生母月光院に仕える御年寄・江島は、主人の名代として同じ年寄の宮路と共に上野寛永寺、増上寺へ前将軍家宣の墓参りに赴いた。
 
その帰途に懇意にしていた呉服商後藤縫殿助の誘いで木挽町(現在の東京都中央区東銀座界隈。歌舞伎座周辺)の芝居小屋・山村座にて生島の芝居を見た。
 
芝居の後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開いたが、宴会に夢中になり大奥の門限に遅れてしまった。
大奥七ツ口の前で通せ通さぬの押し問答をしている内にこの事が江戸城中に知れ渡り、評定所が審理することになった。
 
当時の大奥には、7代将軍家継の生母月光院を中心とする勢力と前将軍家宣の正室天英院を中心とする勢力とがあった。月光院が家継の学問の師である新井白石や側用人の間部詮房らと親しい事から、大奥では月光院側が優勢であった。」(江島生島事件-wikipedia)
 
家継の生母月光院に仕える御年寄・江島は、新井白石と同じ勢力軍内にいたのであった。
 
私は絵島は江戸市中、例えば茗荷谷に潜伏している宣教師の元へ行ったのではないかと想像したことがかつてあった。
 
長助とはるの自首と江島に、何らかの関連性を感じているところである。
 
江島の墓は数年前にお参りしたことがある。
墓へ至る途中の真っ赤な楓の木がとても印象的だった・・・。

2017年6月28日 (水)

新井白石とシドッチ(その6)

鎖国に至った由来をシドッチが新井白石に語るくだりがある。
例の書籍から抜粋する。
 
「按ずるに、ポルトガル人、初に豊後国に来れる事は、天文十年(1541)七月也。
 
其後、薩摩国に来れるは、天文十二年八月也。」(p34~、東洋文庫113 「西洋紀聞」(新井白石著、宮崎道生 校註、平凡社)より抜粋した。)
 
鎖国の前に重要な事柄が出てきた。
 
私の理解では西洋人の渡来は1549年八月のザビエルを初めとしている。
これは40年ほど前に私が高校で習った日本史をもとにしているが、その後の各種情報もそれを補強してきた。
 
『ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年(天文18年)に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。』(フランシスコ・ザビエル-wikipediaより)
 
しかし、白石は、西洋人の日本初渡来は1541年7月にポルトガル人が豊後国へ渡来したことが始まりである、とシドッチから尋問した上で書いているのだ。
 
しかも薩摩国には1543年八月にポルトガル人が到着したと書いてある。ザビエル到着の6年も前に、・・・である。
 
理屈を言えばポルトガル人は貿易交渉にやってきて、布教に来たのはザビエルが初であるということになろう。
 
しかし、私は直感であるが、ポルトガル商人は宣教師を伴い佐伯の大友宗麟の館へ1541年7月に入った、・・・と思った。
 
さらに、ザビエルをゴアから呼べと命令したのは、当時、たしか薩摩へも影響力を保有していた大友宗麟ではなかったか・・・・と。
 
大分県生まれの私にとっては、とても重要なことなので、ついこの件の抜粋を書くはめになった。
 
この国がある種の危機に遭遇した時、一般日本人の誰も知らなかったような白髪の痩せた爺さんが大分県から突然出て来て総理大臣をやってのけたことの不自然さは、この理解により氷解した。
 
「自民党籍を有したことのない唯一の内閣総理大臣」(wikipwdia)なのである。
それが偶然だったのか、あるいは必然だったのか・・・。
 
鎖国の下りはこの後の項に書くことにした。
 
wikipedia記事には1543年、種子島へポルトガル商人が偶然漂着したかのように書かれている。
 
「鎖国まで
「南蛮貿易」も参照
 
天正遣欧少年使節の来訪を伝える印刷物、1586年(京都大学図書館蔵)略。
 
朱印船(狩野内膳画の南蛮屏風より)略。
 
大航海時代以後ポルトガルは積極的な海外進出とブラジル経営を中心として国力を伸長させ、16世紀初めには東南アジアへ進出し、日本近海へも活動域を広げ始めていた。
 
そして1543年、種子島へポルトガル商人が漂着(鉄砲伝来)したことが日本へのポルトガル人の最初の上陸であったとされている[1]。
 
ポルトガルは当時、アジア地域へ植民地および貿易相手国を求め進出を行っており、日本との接触ののち通商を求める商人の動きが活発化した。
また、貿易はキリスト教布教を伴って行われるものとの戦略があり[2]、貿易商人と共に多くの宣教師も日本を訪れる事となった。
 
1549年にはフランシスコ・ザビエルが日本を訪れキリスト教布教活動を行っている。
 
その後、織田信長らの庇護のもと両国間で南蛮貿易が開始され、1557年にマカオの居留権を獲得したポルトガルは同地と九州を拠点としながら貿易を展開していった[3]。
 
ポルトガルからは多くの製品、文化が日本に流入していった一方、日本からは銀などがポルトガルへ流出した。
 
同時に、九州を中心として宣教師によるキリスト教布教も行われ、キリシタン大名なども誕生し、天正遣欧少年使節の派遣なども行われた。
 
1603年には、『日葡辞書』がイエズス会によって長崎で発行された[4]。
4年以上の歳月をかけて編纂され、中世の日本語とポルトガル語を研究するうえでの貴重な資料となっている。」(日本とポルトガルの関係-wikipediaより)
 
「貿易商人と共に多くの宣教師も日本を訪れる」ことは、当初よりそうだった可能性が高い。
 
渡船費用はポルトガルのジョアン三世の援助金によって賄っており、そのうえジョアン三世はローマ法王にアジア地域への覇権確立のための軍派遣の許可を得ていたのではなかったか。
ザビエルはその延長戦上に載って日本へやってきたのである。(ザビエル書簡集を読んだ所感より)
 
よって、1541年7月に豊後国へ上陸したポルトガル人も宣教師か修道士か説教師かはわからないが、彼らのいずれかを伴っていた可能性が高いと私は思っている。
 
しかし、宗麟は洗礼を下せる資格のある宣教師の来日を乞うたのではないだろうか?
 
そしてこの国で、しかも薩摩の祇園洲の砂浜で、初めてザビエルによる洗礼を受けたのは
宗麟ではなかったのか・・・と、夢想してみました。
 
なぜならば、大友宗麟の洗礼名は、ザビエルの名である。
 
大友フランシスコ宗麟・・・。
 
(以下はあとで補足追記したものです。)
 
しかし、時代は二人に多少のずれがあったようで、そうはとんやがおろさなかったようです。
 
「ザビエルもまたこの地(大分市)に来た宣教師の一人です。
この時挨拶をしたのが、まだ青年だった大友宗麟(この時の名は義鎮ですが、混乱を避けるため宗麟で統一します)。
宗麟がキリシタンとなるのはそれから26年も経ってからですが、この出会いは生涯忘れ得ぬものだったのではないでしょうか。」(「九州のキリシタン・ロードをゆくⅡ」より抜粋)
http://tenjounoao.waterblue.ws/travel/kyusyu2.html

2017年6月21日 (水)

新井白石とシドッチ(その5)

シドッチが屋久島に上陸し、百姓に発見される下りを、新井白石の書いた本より抜粋する。
その情景がありありと描写されているので面白い。
 
私の拙い現代語訳も下段に示す。
 

Photo

屋久島湯泊沖に船(google mapより引用)
 
「明くれば廿九日の朝(宝永5年(1708年)8月29日)、尾野間より二里計の西にある湯泊という村の沖のかたに、きのふ見えしごとくの船見えしかど、北風つよくして南をさして向きしほどに、午の時に至ては帆影も見えずなりき。
 
此の日、彼嶋の恋泊(こひどまり)といふ村の人、藤兵衛といふ百姓也。
炭焼かむ料に、松下といふ所にゆきて木を伐るに、うしろのかたにして人の声したりけるを
かへり見るに、刀帯びたるものの、手して招く一人あり。
 
其いふ所のことばも聞わかつべからず。水をこふさまをしければ、器に水汲みてさしをく。ちかづき呑て、又まねきしかど、その人刀を帯びたれば、おそれて近づかず。
 
かれも其心をさとりぬと見えて、やがて刀を鞘ながら抜きてさし出しければ、近づくに、黄金の方(ケタ)なる一つ取出してあたふ。
 
此ものきのふ見えし船なる人の、陸に上りしにやとおもひしかば、其刀をも、金をも、とらずして礒(イソ)のかたに打出てみるに、其船も見えず。また外に人ありとも見えず。
 
我すむかたにたち帰りて近きほとりの村に人はしらかして、かくとつぐ。
 
平田といふ村のもの二人出来しをともなひて、字は五次右衛門といふ者ども、松下にゆきて見しかば、一人それをたすけ、一人は其刀をもち、一人はそれが携えし袋やうの物をもちて、恋泊のものの家にいて行て、物したためてくはす。
 
かの人、また黄金のまろき二つと方(ケタ)なる一つを取出て、あるじにあたふ。藤兵衛なり。辞してとらず。
 
その物いひ、ききわきまふべからざれども、其形は我国の人也。さかやき(月代)、ここの人のごとくして、身には、木綿の浅黄色なるを、碁盤すじのごとくに染なしたるに、四目結の紋あるに、茶色のうらつけたるを着て、刀の長さ二尺四寸余なるを、我国の飾のごとくにしたる一腰(ヒトフリ)をさしたるなり。
 
此事、嶋を守れるものの許に聞こえしかば、宮之浦といふ所に、かのもの置くべき所作り出して、うつし置て、薩摩守の許につく(告ぐ)。
 
薩州の家人等、連署して、其事を長崎の奉行所に告ぐ。」
(p23~、東洋文庫113 「西洋紀聞」(新井白石著、宮崎道生 校註、平凡社)より抜粋。)
 
長崎まで新井白石は行き、そこで一度尋問したようだ。
 
その後シドッチは江戸茗荷谷の切支丹屋敷へ移され、そこで白石の尋問を受けることになる。
 

Photo_2

屋久島恋泊の藤兵衛宅(google mapより引用)左の赤い〇は湯泊付近
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
現代語訳 
 
明けて1708年8月29日、尾野間から2里西にある湯泊(ユドマリ)という村の沖合いに、昨日見えたように今日も船が見えたけれど、北風が強かったので船は南を目指して向いていたが、昼には帆影も見えなくなった。(おそらく追風を受けて帆船は南へと去ったのだろう。)
 
この日、彼の嶋の恋泊という村の人で藤兵衛という百姓が、炭を焼こうとして松下というところで木を伐っていると、うしろの方で人の声がしたので、振り返ると、刀を腰に差してはいるものの、手招きする人が一人いた。
 
その人の言うところ言葉は理解できない。水を乞うような振りをするので、器に水を汲んでその人の前にそっと置いた。
 
その人は器に近づいて来て、水を呑んだ。
そしてまた手招きをしたけれど、その人が腰に刀をさしているから恐ろしくて百姓は近づかなかった。
 
彼もその百姓の心を理解したと見えて、やがて鞘ごと刀を抜いて差し出したので、近づいてみた。すると黄金の四角いものを一つ取出して百姓に与えた。
 
この者は昨日見た船に乗っていた人が上陸してきたものに違いないと思ったので、その刀も黄金も受け取らないで礒の方へ出てみると、その船も見えなく、また彼以外に人がいるようにも見えなかった。
 
私は自分が住んでいるところへ帰って、近い隣村に人を走らせてこれこれの事があったと知らせた。
 
平田村のもの二人を伴い、字は五次右衛門といふ者たちであったが、松下に行って見たところ、一人彼の歩くのをたすけ、一人はその刀を持って、一人は彼が携えていた袋のような物を持って、恋泊のものの家に行って、食べ物を手配して彼に食わせた。
 
彼は、また丸い黄金を二つと四角い黄金一つを取出て、あるじにあたえた。その家の主は藤兵衛である。辞去してお礼を受け取らなかった。
 
その話し言葉は理解できないけれど、その外見は我国の人である。さかやき(月代)はここの人のように剃ってあり、身には、木綿の浅黄色のものを、碁盤すじのように染めたものに、四目結(よつめゆい)の紋がある上に、茶色の裏生地をつけたものを着て、刀の長さ二尺四寸余であって、我国の飾のようにした一腰(ヒトフリ)をさしている。
 
此事が嶋を守っているものの許(もと)に聞こえたので、宮之浦と言う所に、彼を置く場所を作り出して、そこに移し置いておき、薩摩守島津氏へ告げた。
 
薩州の家人等は、連署してその事を長崎の奉行所に告げた。」
(p23~、東洋文庫113 「西洋紀聞」(新井白石著、宮崎道生 校註、平凡社)を現代語訳した。)
 
島津の家臣たちの緊張した表情が目に浮かんでくるようである。

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