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2018年8月11日 (土)

生麦事件ー1

アーネスト・サトーの日記からは読み取れない『島津久光一行の動向』から見ていくことにする。

Photo

横浜生麦郵便局 google mapより引用

Photo_2

「歴旅.コム 生麦事件の現場~神奈川宿(旧東海道)」より引用

http://shmz1975.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-0dbb.html

郵便局と小学校の南側を東西に走る旧東海道、右端の赤い地点で戦闘が生じ、左端まで逃げたリチャードソンはそこで落馬しとどめを刺された。駅の近くに参考館があるらしい。次回訪問予定。

F100006770

写真1(再掲)事件現場から横浜方面を見る。道路の突き当り附近の交差点でリチャードソンは落馬し、処刑されたようである。

アーネスト・サトーの日記からこの事件の核心に迫ろうとしているが、その前にサトーの日記からは読み取れない島津久光の考えを生麦事件-wikipediaより以下に抜粋する。
このwikipedia記事にはサトーの日記を引用した部分も多くあり、事件の全容をよく記載しているので、興味がある方は全文を読まれたい。
「核心」とはある国によるこの国の支配権確立のための画策工作である可能性を私はぼんやりと感じている。それは徳川慶喜が大政奉還したあとで、勝てる戦を放棄して大阪から東京へ逃げかえるシーンでも、ほんの少しだけ垣間見える「光景」である。
「久光一行の動向
久光一行はその夜、横浜に近い神奈川宿に宿泊する予定を変更して程ヶ谷宿に宿泊した。一行の中にいた大久保利通の当日の日記によれば、横浜居留地の報復の動きを警戒して、藩士2人が探索に出ている。公儀御料である生麦村の村役人はただちに事件を神奈川奉行に届け出、これを受けて調査を開始した奉行は久光一行に対して使者を派遣し、事件の報告を求めた。しかし久光一行は翌日付けで「浪人3~4人が突然出てきて外国人1人を討ち果たしてどこかへ消えたもので、薩摩藩とは関係ない」という届出をすると、奉行が引き止めるのも意に介さずそのまま急いで京へ向かった。神奈川奉行からの報告を受けた老中板倉勝静は、薩摩藩江戸留守居役に対して事件の詳しい説明を求めたところ、数日後に「足軽の岡野新助が、行列に馬で乗り込んできた異人を斬って逃げた。探索に努めているが依然行方不明である」と説明した[2]。神奈川奉行からの詳細な報告を受けて事件の概要を把握していた幕府はこの事実とは異なる説明に憤り、江戸留守居役に出頭を求め糾弾したが、薩摩藩側はしらを切り通した。
大名行列に対する外国人の「不作法」については、久光らは江戸に到着して間もない6月23日、幕府に訴え書き[2]を提出していた。その文面によれば、往路ですでに久光の行列は騎馬の外国人に遭遇していたところ、狭い東海道において、大名一行の通行にかまわず横に並んで広く場所をとり、不作法が見受けられる、というものである。続けて「少々のことには目をつぶれ、と藩士たちに達してはいるが、先方に目にあまる無礼があった場合はそのままにするわけにもいかない。各国公使へ不作法は慎むように達して欲しい」と訴えている。それに対する幕府の返答は、「そういう達しはすでに出しているが、言葉も通じず、習慣も違うことから、我慢して穏便にすませて欲しい」というものだったが、実際には幕府はそのような通達を出してはいなかった。
事件後の状況と余波[編集]
2009年、生麦事件参考館に建てられた碑。山階宮晃親王作の漢詩が刻まれている。
横浜外国人墓地にあるリチャードソンの墓。近年、有志によって、マーシャルとクラークの墓も左右に集められた。
文久2年[編集]
事件から2日後の8月23日(1862年9月16日)、ニール代理公使は横浜において外国奉行津田正路と会談した。この会談でニールは「勅使の通行は連絡があったのに、なぜ島津久光の通行は知らせてこなかったのか」と追及した。これに対して奉行は「勅使は高貴だが、大名は幕府の下に属するもので達する必要はない。これまでもそれで問題はなかった」と答え、「勅使より薩摩藩の通行の方が問題が起こる可能性が高いのはわかりきった話」として、ニールに反論されている[7]。ニールは本国の外務大臣への報告書に、久光通行の知らせはなかったことを明記して、外交上自国に有利な幕府の過失を指摘している[5]。
8月30日には、老中板倉勝静邸においてニールと老中板倉・水野忠精との折衝が行われ、ここでもイギリス側は犯人の差し出しを繰り返し要求した。一方、ニールは本事件の賠償金要求については、イギリス本国の訓令を待って交渉することとしていた。
当時の幕府においては、多数の軍勢を伴って幕府の最高人事に介入した久光に対して、敵意を持つ見方が一般であった。そのため、生麦事件の知らせに「薩摩は幕府を困らせるために、わざと外国人を怒らせる挙に出た」と受け止める幕臣が多数で、薩摩を憎みイギリスを怖れることに終始し、対策も方針もまったく立てることができないでいたという[8]。当の久光の幕政介入によって政事総裁職に就いた松平慶永は、本事件に関する処置案(久光の帰国差し止め等)を老中らに建言するも受け入れられず、一時登城を停止する事態となった。
一方、東海道筋の民衆は、「さすがは薩州さま」と歓呼して久光の行列を迎えたという[9]。閏8月7日(1862年9月30日)に久光は上洛、9日に参内するが、孝明天皇はわざわざ出御して久光の労を賞し、これは無位無冠の者に対しては異例の待遇であった。この事件を題材に山階宮晃親王が作った「薩州老将髪衝冠 天子百官免危難 英気凛々生麦役 海辺十里月光寒」という漢詩は、明治になって愛唱された[2]。しかし、生麦事件をきっかけとして朝廷が攘夷一色に染まってしまったことは、久光および薩摩藩の思惑を超えた結果だった。薩摩藩の幕政改革の意図は攘夷ではなく、彼らの不満はむしろ幕府が外国貿易を独占していたことにあったのである[注釈 6]。尊攘派の支配する京都の情勢に耐えかねた久光は、23日に京都を発って鹿児島に戻った。 」(生麦事件-wikipediaより抜粋)

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