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2018年8月12日 (日)

生麦事件ー2

F100005270

横浜開港記念館(今でも会議室として利用されているようだった)
公武合体を主導していた島津久光にとって、生麦村での英国人殺害が攘夷運動の火付け役になるとは思ってもいなかったようだ。
歴史を逆に見て行けば、生麦事件を利用して日本国内を内戦へ誘導しようと画策したものがいたという推理も成り立つかも知れない。
それがこの記事を書く私の関心事である。
生麦事件の数日前に上海から横浜へ到着した英国人青年アーネスト・サトー19歳は、横浜ホテルの窓から居留民たちのこの事件に対する興奮の様子を覚めた目で見ていた。
上海でも生首がごろごろしており、太平天国の乱を見てきたばかりのサトーは、ここ横浜でも同じことが行われていると思っただけかも知れない。
アフリカでも、アジアでも、植民地化するということは、共通してそういう前奏曲が鳴るものかも知れない。
最初にサトーが宿泊した横浜ホテルを探してみた。
「国際港都には一流ホテルが欠かせない。商取引や観光のために多くの外国人が訪れるからである。貿易港としての横浜の地位が確立しつつあった時期の1860(万延元)年2月24日、待ち望まれていた最初のホテルが開業した。
その名は横浜ホテル、場所は現在の山下町70番地(現在住友海上・上野共同ビル所在地)、創業者はオランダ船ナッソウ号の元船長フフナーゲル、ここにはバーとビリヤードが用意されていたが、これらも公衆用としては日本最初である。
ほかに泊まるとろがなかったので、英公使オールコックを始め、シーボルト父子、亡命中のロシアの革命家バクーニン、画家のハイネやワーグマン、「シルク・ロード」の命名者とされる地質学者のリヒトホーフェンら、そうそうたる人物が投宿している。その後、1866(慶応2)年末の大火で焼失し、再建されなかった。
横浜開港資料館・調査研究員 斎藤多喜夫」(横濱もののはじめ探訪 その19より抜粋)
「現在の山下町70番地」とはgoogleに聞くと、「横浜市中区山下町70であると答えてくれた。

Photo_3

図1 横浜ホテルのあった場所(google mapより引用)
このホテルの窓から、英国公使館員らやフランス人ら数名が騎馬でリチャードソン救出(実際は遺体収容)に向かったが、その騒ぎをサトーは見下ろしていた。一人だけいた英国人のご婦人が帽子と髪の一部を切られて、ほうほうの体で騎馬で居留地へ逃げかえって事件の発生を伝えたのだった。
サトーはこののち、右下の青い〇の谷戸橋付近に住居を移すことになる。
ここが居留地の西のはずれになるようだ。今の谷戸橋は鉄製だ。
江戸末期の実際の木製の谷戸橋はいまのフランス橋のあたりだと言う。
ついでにそこも調べておいた。次回訪問時は訪ねてみたい。

Photo_4

図2 フランス橋
「谷戸橋(やとばし)は、神奈川県横浜市中区の堀川(中村川下流部)に架かる橋梁である。
歴史[編集]
山手の丘と、のちに関内と呼ばれる一帯とは元は地続きであったが、横浜港開港の翌年の1860年(万延元年)、居留する外国人と日本人との間にトラブルが生じることを避けるため堀川を開削。この時に初代の谷戸橋が架けられた。
この橋は木橋で[1]、今の谷戸橋よりやや下流側の水町通りに接続した。
現在はその付近にフランス橋が架かる[2]。
1866年(慶応2年)には山手の側も外国人居留地となり、外国人からは「キャンプヒル・ブリッジ」とも呼ばれた[1]。1887年(明治20年)には、横浜で4番目となる鉄橋に架け替えられた[3]。」 (谷戸橋-wikipediaより)

東禅寺事件まとめ
サトーが来日する前に、英国大使館襲撃事件が既に発生していた。

東禅寺事件-wikipediaより要点のみ抜粋する。
「文久元年(1861年)5月28日 第一次東禅寺事件
5月27日にイギリス公使館(江戸高輪東禅寺)に入ったイギリス公使ラザフォード・オールコックらを5月28日午後10時頃、水戸藩脱藩の攘夷派浪士・有賀半弥ら14名は東禅寺のイギリス公使館内に侵入し、オールコック公使らを襲撃した。外国奉行配下で公使館の警備に就いていた旗本や郡山藩士・西尾藩士らが応戦し、邸の内外で攘夷派浪士と戦闘し、双方が死傷者を出した(警備兵2名、浪士側3名が死亡)。オールコックは危うく難を逃れたが、書記官ローレンス・オリファントと長崎駐在領事ジョージ・モリソンが負傷した。両名はその後帰国している。

文久2年(1862年)5月29日 第二次東禅寺事件
東禅寺警備の松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺した事件。
東禅寺警備兵の一人、松本藩士・伊藤軍兵衛は、東禅寺警備により自藩が多くの出費を強いられていることや、外国人のために日本人同士が殺しあうことを憂い、公使を殺害し自藩の東禅寺警備の任を解こうと考えた。伊藤は夜中にニールの寝室に侵入しようとしたが、警備のイギリス兵2人に発見され戦闘になり、彼らを倒したものの自分も負傷し、番小屋に逃れて自刃した。
 
文久2年8月15日(西暦1862年9月8日)、サトーはイギリスの駐日公使館の通訳生として横浜に着任。
文久2年8月21日晴天 生麦事件発生


次々回はリチャードソンの遺体を回収に行った英国公使館医師のウィルスの日記により、殺傷事件の様相を見ることにしたい。

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