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2018年6月 4日 (月)

大山登山(3)~弘法大師の影

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少し上の景色が開けてきた。光が差し込んでくる。

まぶしいと思ったら緑の中に神の好む金がある。

イスラエルの神は光を好む。(確か旧約聖書)・・・調べました。

「神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。」
(旧約聖書「創世記」1章3~5節)

http://information-station.xyz/7865.html より抜粋した。

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八大坊 上屋敷跡 大山を治めていた長官が住む屋敷だそうだ。

住職の空海はこの上にある下社のところに住んでいたようだから、ここは事務方のリーダが執務を取ったオフィスなのだろう。

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神は金をも好む。光を好むから光を反射する金をも好むのである。

一見、16葉の菊文様に見えた。しかし、上半分しか紋章がない。

16葉は天皇家の御家紋である。

数えてみると9葉の菊文様のようだ。2倍すると18葉になる。

しかしじっくりと見てみると0.5枚+7枚+0.5枚=8枚にも見える。

8枚なら下半分を加えると天皇家の家紋と同じになる。

また16葉菊文様はツタンカーメンの棺の蓋にあることは有名な話でもある。

このとき、私は直感でこの屋敷は紅葉で包まれているはずだと咄嗟に思った。

それは名古屋の清州城跡傍にある織田信長の廟の景色と同じだと直感したのである。

その直感は、那古野城(現名古屋城二の丸跡)の高麗瓦屋根の下で生まれた、或いは育った信長のイメージである。・・・そう高麗神社の境内にそびえる楓の巨木や紅葉の光景を映像として私の脳は再現してみせたのだった。

果たして、この菊の紋章はおびただしい紅葉の葉に囲まれていた。

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この景色は信長廟の景観そのものである。

そして空海も同じ人脈の中にあるのではないか・・・。

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上から降りてきた男性が男坂はきつかったと騒いでいる。それほどいやなら、女坂を登ればいいのだ。

煮えない男がいるものだ・・・。私はも男坂でいいと観念し始めている。

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女坂に七不思議か、弘法水・・・

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下社についたようだ。ケーブルカーの終着駅だ。

左へ行けばチップ式のトイレがある。

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大山阿夫利神社 下社、本殿、ここに大山寺があったとき、ここの庫裏に空海は住んでいたはずだ。

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小田原が霞んで見える。

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太平洋も見える。秀吉の水軍が小田原城へと押し寄せてきた浜辺だ。

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おや、本殿の右横、おみくじとの間に名水の看板がある。いってみよう。

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このトンネルを奥へ進む。無料だそうだ。

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龍の口から流れる名水で口を濡らす。

ふとみると賽銭箱が置いてある。無料だけど賽銭は欲しい。

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水に沈んだ金色の井桁に賽銭を投げ込んだ。10円である。この仕掛けは空海らしい・・気がする。

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上を見上げると神の喜ぶ光がうまい塩梅に注いで落ちる。

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いたるところでビジネスを仕掛けるところも空海の智慧のように思える。釈迦がこれを見たら笑うことだろう。

「大山名水 神泉」より抜粋する。

http://www.ooooyama.com/water.html
「大山阿夫利神社、本殿の下にある巡拝道には大山の名水である神泉があります。
この神泉に気づかない参拝者の方は多いようで、わです。(原文ママ)
 
以下、案内板より。
浄き明き直き象徴する神の恵の泉で湧き出るお水は、山内只一ヶ所の貴重な水源より引水いたしました。
最も清らかな尊いお水です。水は萬物の生々発展の原動力であります。
殖産の泉、長命延寿の泉としてご愛用ください。」(抜粋終わり)
 
「寺伝では空海(弘法大師)を3世住持と伝承する[1]」と大山-wikipediaであるので、その[1]を少し抜粋してみよう。
 
「紀要 第6号(8)古記録からみた大山信仰の諸相」より抜粋。
http://www.pref.kanagawa.jp/docs/kt7/cnt/f100108/p10531.html
 
「大山略史
丹沢表尾根の東端に位置する大山の山名は、山頂に大山祇神を祀るところに由来するといわれている。古くは「石尊大権現」と呼ばれて、山頂には巨大な自然石(磐座=神が宿る岩)をご神体として祀った阿夫利神社(上社)がある。
 
大山信仰がいつ頃形成されたかは特定できないが、過去に行われた山頂周辺の発掘調査(註3)では、縄文時代後期中葉の加曽利B式土器片や古墳時代の土師器片・須恵器片のほか、平安時代の経塚壺・経筒などが発見されたことから、かなり古い時代から大山に分け入る人々が存在し、そのような人々の間で大山の山岳信仰が徐々に形成されていったと考えられる。(注:この人々の中に空海がいたと言い伝えたのだろうか)
 
とくに縄文時代の土器片の遺物については、その当時の人々の信仰の遺物であるとする説と後世の修験者が持ち込んだものであるという説とに見解が分かれ、未だに決着をみていない。
 
古文献上では、8世紀中頃に成立した『万葉集』の東歌に「相模峰の雄峰見過ぐし忘れ来る妹が名呼びて吾を哭し泣くな」と謳われていることから、相模峰の雄峰として、その山容を誇っていたことがうかがわれる。
 
また10世紀前期に作成された『延喜式』神名帳(註4)には、相模国十三座の一つとして大住郡の項に「阿夫利神社」が名を列ねており、神名帳の原本である神祇官の台帳はすでに天平年間(724~748年)にはできていたとされるので、阿夫利神社の草創は8世紀前半にさかのぼることができる。
 
ちょうどこの頃から、日本固有の神道信仰と異国からもたらされた仏教信仰が融合調和した神仏習合がはじまり、さらにその後、山岳信仰をもととした修験道が盛んになると、山の中腹に不動明王像を本尊とする大山寺が建立されて阿夫利神社を管理する別当寺となって、「石尊大権現」と一体化した大山信仰が形成されるようになったと考えられる。
 
大山寺の開創の由来は、『續群書類從』第27輯下釋家部に収められている『大山寺縁起』(真名本)に次のように記されている。
 
天平勝宝7年(755年)、東大寺初代別当の良弁僧正(相模国出身、一説に近江国出身)が大山寺を開創し、聖武天皇は当寺を国家安穏を祈願する勅願寺とし、相模・安房・上総三国の租税の一部を充てて寺院経営を行わせた。
 
その後、天平宝字5年(762年)には行基の遺命により、弟子光増が不動明王像を彫刻して本堂に安置したと記されている。
 
その後の大山寺は元慶2年(878年)の大地震とそれにともなう大火により倒壊・焼失したが、元慶8年(884年)に安然(最澄の同族で円仁の弟子)によって再興され、天台宗系の僧侶たちの山林修行の場として命脈を保ったようである。
 
平安後末期には、大山は高部屋神社の地域(丸山城)を本拠地とする在地武士糟屋氏が支配する糟屋荘内に組み込まれ、その糟屋荘は久寿元年(1154年)12月に安楽寿院(京都市伏見区竹田内畑町)に寄進(註5)され、ついで鳥羽法皇の皇后美福門院得子、さらにその子八条院しょう子へと伝領(八条院領約220か所)されていった。以下略。」(抜粋終わり)
 
意外や意外、実は天台宗の修行の場であったのだ。
 
それを空海の寺と後の世にひっくり返してしまったのではないか?!
どうもまじめな最澄のほうに私はひかれつつある。
 
遣唐使国立僧侶の最澄は旧約聖書の漢文を持ち帰って、それが密教だと信じていた。
あとで帰国した私度僧空海が、新約聖書の漢訳を持ち帰ってきた。
 
最澄は自分が新約聖書を知らずに帰国したミスを悔いた。
司馬遼太郎著「空海の風景」に登場してくる話である。
 
中国で東方キリスト教は唐の都で仏教と集合し、お経の中に漢訳聖書として混じり入ったのである。
 
空海はそれを正しく理解し、日本へ持ち帰り、朝廷に報告した。
 
その成果がいまの高野山の全盛にあるのではないか、と私は思っている。

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