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2018年6月 3日 (日)

大山登山(2)~弘法大師の影と遭遇

二つ前の記事で四国御遍路企画を述べた。
四国一周の図を見て正直にこう感じた。
 
佐伯の真魚(まお)、空海は、四国の金山・銀山を探しさまよっていたように思われる。
 

Photo 再掲移載

全国の街道にも弘法大師の足跡があるが、全国で金山銀山の鉱脈を掘って歩き回っていたのではないか、などとすんなりと思いが浮かんだ。
 
その仮の寓居を寺として遍路ビジネスへと発展させたという推理である。
 
88か所のお賽銭、合計88円を持参すると記事に書いた。
 
このとき空海の怒りを少し背中に感じていたが、本心そう思うのだから仕方がない。
 
大山を登り始めて、いきなりケーブルカーの営業開始前となった。
徒歩での大山登山初挑戦である。
このとき、ふと空海の責めを感じた。
 
そして歩き始めると、左女坂、右男坂である。
よせばいいのに男気を出して男坂を当然のように選んだ私は、そのことを後悔しながらいま男坂を上っている。
 
この選択ミスにも空海の影を感じている。
 
ああ、私は大山に弘法大師と二人行脚をしているのだろうか・・・。

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右手に水の流れる落ちる音が聞こえ始めた。

F1000706

右手を見ると、はるか遠くに木製の堰のような構築物が新緑の中に小さく見える。

あそこから水の流れが下へ落ちて、その沢の音が私の右の耳に入ってきたのだ。

空海が錫杖をついて水を出したというのもあそこだろうか?

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男坂に33祠ある中の其の31番目であるという。

F1000709

うへえ。お許し下され、弘法大師様・・・。

帰宅して登山の翌日の夜、自宅のパソコンで大山寺の歴史を調べてみた。

そして弘法大師がこの寺の住職として住んでいたという事実に接したのである。

ああ、やはり弘法大師は私の後ろからケーブルカーの選択を誤らせ、坂の選択を間違わせていたのである。

「大山寺の開基」より抜粋します。
http://www.oyamadera.jp/

「大山寺は、奈良の東大寺を開いた良弁僧正が天平勝宝七年(七五五)に開山したのに始まります。

行基菩薩の高弟である光増和尚は開山良弁僧正を継いで、大山寺二世となり、大山全域を開き、山の中腹に諸堂を建立。

その後、徳一菩薩の招きにより、大山寺第三世として弘法大師が当山に入り、数々の霊所が開かれました。

大師が錫杖を立てると泉が湧いて井戸となり、また自らの爪で一夜にして岩塊に地蔵尊を謹刻して鎮魂となすなど、現在は大山七不思議と称される霊地信仰を確立しました。

また日本古来の信仰を大切にし、尊重すべきとのお大師様のおことばにより、山上の石尊権現を整備し、伽藍内に社殿を設けるなど神仏共存を心掛け手厚く神社を保護してきました。

元慶八年には天台宗の慈覚大師の高弟・安然が大山寺第五世として入山。伽藍を再興し、華厳・真言・天台の八宗兼学の道場としました。

これより大山は相模国の国御岳たる丹沢山系の中心道場として各地に知られ、別当八大坊をはじめとする僧坊十八ケ院末寺三、御師三百坊の霊山として栄えました。

しかし明治初年の廃仏毀釈により、現阿夫利神社下社のある場所から現在の場所に移りました。

関東一円を初め日本中の強い信仰に支えられ、幸いにもご本尊を初めとする,数々の寺宝は破壊を免れました。

明治期に数多くの信者たちの寄進によって現在の位置に本堂をはじめ数々の伽藍が再興され現在に至っています。大山寺はまさに多くの信者に支えられた一大霊地といえます。 」(抜粋終わり)

明治維新によって大山寺は廃仏毀釈に会ったことは何かの記事で知っていた。

現阿夫利神社下社に大山寺はあって、そこに弘法大師は住んでいたのである。

山頂の阿夫利神社上社は古く縄文時代からあった石を祀る大陸のシャーマニズム信仰であったのではないだろうか。

それを敬えと弘法大師は言ったそうな。

「 阿夫利神社 上社 - 関東三十六不動霊場」より抜粋する。
http://kanto36fudo.fudasyo.net/top/1/fudo-1-3-newpage1.html

「中略。

 本社に大山祇大神(オオヤマツミ)、摂社奥社に大雷神(オオイカツチ)、前社に高龗神(タカオカミ)を祀る。


 ただし、これらは明治になってから神仏分離の際に祀られるようになったものであり、江戸期以前の神仏習合時代には、本社には本来の祭神である石尊大権現(山頂で霊石が祀られていたことからこう呼ばれた)が祀られていた。

 摂社には、奥社に大天狗、前社に小天狗が祀られていた。

 これが全国八大天狗に数えられた大山伯耆坊である。

 元々は伯耆大山の天狗であり、相模大山の相模坊が崇徳上皇の霊を慰めるために四国の白峰に行ってしまったために、誰も居ない富士講の人々に信仰されたという。」(抜粋終わり)

崇徳上皇が怨霊を抱えて死なざるを得なかった場合、その霊を鎮めることで怨霊がたたらずに済むというわけだ。

崇徳という高貴なおくり名も、怨霊信仰のなせる業のように見える

ほめちぎることで、亡くなった人の怒りは静まると言う迷信をまじめに信じていたのである。

その影響を受けて大山信仰も生まれたのだろう。

聖徳太子の聖徳も同じおくり名である。夫婦親族を虐殺したあとで怨霊に怯えたための命名であるとの説もあるようだ。

崇徳のことは別途触れることとしよう。

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