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2018年5月 9日 (水)

作為をもって変更された世良修蔵の運命

いぜん下記ブログの作者としぼーさんと私の奥州街道を歩くブログで意見交換をしたことがある。
 
私が福島を通過する前後で、東京から津軽を目指して歩いている私のブログにコメント意見をくれたことがきっかけだった。
 
たまたま奥州鎮撫のキーワードでGOOGLE検索すると一番上にとしぼーさんのブログが検出された。
 
つまり、心ある歴史学者はこの件を取り扱わないように心掛けているということだろう。
秘密にしたたま闇に葬りたい現実なのだろう。
 
としぼーさんが今でも御元気に世良を正しく理解してくれていることを大変うれしく思う。
 
私は豊後の国生まれだが、会社勤務の関係で長州に20年間居住した。
いまは江戸勤務四半世紀となった。
 
世良の人事異動の事実が「としぼーのブログ!!」でわかる。
 
偶然だがいま私は彼が読んでいるこの本を電車で読んでいる最中だ。
5月3日に奥羽列藩同盟が成立した下りを読んでいる。
 
その前は米沢藩雲井龍雄を主人公にした「雲奔る」を読み終わっている。
雲井も実におしい人材だった・・・。
 
「だれが、どのようないきさつで世良を差し向けたのか。このことについて私は知らないでいた。
 
品川弥次郎と黒田清隆が辞退した。だから変わって世良と大山が任命されたという断片しか知り得なかった。
 
会津戊辰戦史 巻五 東方の戦 上  に、そのいきさつが書いてあった。
 
『三月二日奥羽鎮撫総督府左大臣九條道考公、参謀少将醍醐忠敬、下参謀大山格之助、世良修蔵以下兵若干を率いて京師を発す。
 
これより先(略)其の参謀には薩州藩黒田了介、長州藩品川弥次郎命を拝したるが、奥州鎮撫の方針を定むるに當り鎮撫を主とするか、討伐を主とするかに関して議整わず、鎮撫を主とする黒田、品川は参謀を辞し更に組織を一変し上記の如く任命せられたり。
 
薩長の巨頭中会津を絶滅せざれば飽き足らざるもの多数を占めたるを以ってなり。』
 
つまり、当たり前のことではあるが会津を討伐するという、組織決定がなされ、それにふさわしい人事があり、その結果として世良修蔵が奥州鎮撫総督府参謀の要職に就いたということである。
 
以後の世良の振る舞いというものは世良個人の資質もあろうが、新政府の組織決定。
 
つまり会津を殲滅する。このことは世良個人の思いではない。
世良はこのことに愚直なまでに邁進した。それは組織人として忠実に命令を履行したと言える。
 
世良個人に責任があるということではない。
そのように理解しなくてはならないという面があることは胸におかなければならないだろう。「奥州鎮撫総督府の顔ぶれ」(としぼーのブログ!!)より抜粋
2010/2/15(月)
https://blogs.yahoo.co.jp/toshikatu0214/23616843.html
 
世良は周防大島の生まれで勤王の志士であるが、優秀な学生であったという。
 
第2奇兵隊総督になってからは、高杉などの影響もあって戦闘的になっていったのだろう。

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