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2017年7月

2017年7月30日 (日)

ふふふ

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DOCOMOガラケーN-01Gという製造中止品を町田のビックカメラアウトレットで購入したものですが、ピントがあいません。しかも新品時にminSDが壊れて使えません。

救いは購入費が3000円前後で月々1420円でケータイができるということです。

SNSメールも携帯同士ならできます。音声通話はかなり品質は劣化していますが、何とか家内との通話は確保できています。声が全然本物と違うのが雑音の「なせるわざか。

値段の安さには代えられない。メールは月額500円くらいでパソコンからNIFTYで楽しんでいます。

さて、このボケた写真は中川温泉ぶなのゆを午後1時頃に出たときに、玄関右手の河原を見下ろして撮影したものです。

かねてより、私はこの川でこういう遊びをしたいと願っていましたが、彼らに先を越されました。悔しい限りです。

九州の筑後川、先般氾濫で大被害を受けた河川ですが、その川でこういう風にして毎年のん夏を腕白坊主として過ごしていたから、ぶなのゆの川には懐かしさを覚えていました。

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少し上流ではやや年長の中学生くらいの子供たちが大人の引率のもと、ライフジャケットをちゃんと着て清流をさかのぼっていました。

私らの頃は、素潜りでしたので、ジャケットなんか・・・ふふふ。

今は着けていないと「いけない子」にされてしまうのでしょうね。ふふふ。

2017年7月20日 (木)

要害山、武田神社、そして石和温泉日帰り入浴

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写真1 城入口から甲府駅を見る(甲府駅から約2㎞のこの緩やかな坂を上って武田神社へ至る)

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写真2 武田神社鳥居から甲府駅を見る(格安ガラケーなのでボケる)

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写真3 武田神社を迂回して背後に回り、さらに北へ坂を進む。
突き当りの右手が要害山だろう。ここから先へは歩いていくのは無理。ここ神社まででも甲府駅からは2㎞ちょっとはあるのである。

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「甲府駅」から(google mapより引用)

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図takeda 1-1x 「武田神社境内のご案内」より抜粋(要害山の絵がある)
「甲斐万国総鎮護 武田神社」
http://www.takedajinja.or.jp/
 
今日は2年前の真冬に行ったことのある”信玄の産湯”(私流の解釈)に浸かろうと、勢いをつけて早朝5時30分に家を出た。
 
「積翠寺にある、信玄公産湯の井戸
信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる要害山城である(または積翠寺)。
 
信虎は駿河国今川氏を後ろ盾とした甲府盆地西部(西郡)の有力国衆大井氏と対決していたが、大永元年(1521年)10月には今川家臣福島正成率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。
この際に大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したという。
幼名は太郎[注釈 3]。兄の竹松が7歳で夭折した為、嫡男となる。」(武田信玄-wikipedia)
 
「躑躅ヶ崎館に付属した城」
「要害山城」
「または積翠寺」
 
信玄も勝頼も要害山城で生まれたのである。
それを積翠寺とも称すとある。
躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)が今は武田神社となっている。
 
戦国時代の城は山の頂上にあったのではないかと思うが、平和の時代に山すそへ館を移したのかもしれないし、あるいは戦国時代から積翠寺の場所に平城があったのかもしれない。
山のてっぺんに城を築くのは、こののちの織田信長の岐阜城からだと私は認識している。
信長でさえ、居館は岐阜城から麓へ降りた平地に建てていた。
 
おそらくは平時は積翠寺を館とし、戦になれば家族とともに要害山の頂へと退き防衛戦を戦ったのだろう。
騎馬民族の末裔として理詰めの戦い方ではなかったか、と思う。

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写真4 積翠寺の標識は右、要害温泉も同じ方向なので右へ曲がった。
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写真5 右手が要害山のようだ。

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写真6 要害温泉(遠くの館が要害温泉旅館)
 
しかし、朝から国道20号線(甲州街道)を走ってようやくの思いで到着すると、どうも要害温泉の玄関の様子が変わっている。
閉館している、かのようである。
 
館内のフロントの鈴を鳴らしてやってきたおじさんから聞いた。
 
「もう日帰り温泉はやっていないんですよ・・・。」
「近くに日帰り入浴できる温泉はありませんか?」
「湯村まで行かないと・・。」
「ユムラですかあ・・。」
(この時点では湯村は韮崎市から相当奥へ入った場所という知識しか私の脳内にはなかった。)
 
私は武田信虎の住んでいた石和(いさわ)に行くことをこの瞬間に決めた。
湯村も行きたい温泉ではあるが、地図を調べてきていないので次回に回す。
バイク用のバイクナビも売っているようだが、私は脳に記憶した地図で走る主義である。
 
石和は温泉街である。
駅に着けば案内があるはずだ。
 
10㎞ほど東へ山手通りを走ると、「石和温泉駅南口方面」という標識に出会った。
駅の歩道にバイクを乗り上げ、短時間停車なら警察も撤去しないだろうと判断し、歩いて駅構内に向かった。
観光案内所の看板の下にある自動ドアにこういう貼り紙があった。
「日帰り温泉、ワイナリーなどなど」
 
やはり今の時代でも駅はたのもしい情報源である。
若い人はあまり知らないのではないか。
なんでもスマホに頼ろうとして駅を素通りしてはいないか、などと余計な心配をしてしまう。
帰宅してから次の記事を読んだ。
「2017年1月31日を以て閉館予定。122年の歴史に幕。露天からの夜景は絶景でした。」
(Google に寄せられたクチコミを見る」より)

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写真7 要害温泉露天風呂からの眺めとほぼ同じ眺め
 
躑躅ヶ崎館は今はないが、そこに武田神社が建っている。
武田神社は「山梨県甲府市古府中町2611」にある。
 
「甲斐万国総鎮護 武田神社」より抜粋する。
http://www.takedajinja.or.jp/
 
「武田神社は信玄公の父君信虎公が永正16年(1519年)に石和より移した躑躅ヶ崎館跡に鎮座致しております。
この館には信虎・信玄・勝頼の三代が60年余りにわたって居住し、昭和13年には国の史跡として指定されました。
館跡には当時からの堀、石垣、古井戸等が残り、信玄公を始め一族の遺香を現在まで伝えると共に、神社創建の折、県内各所より寄進を受けた数百種類の樹木が四季折々の風景を見せます。
 
また、境内にある「三葉の松」は全国でも珍しく、黄金色(こがねいろ)になって落葉することから、身につけると「金運」のご利益があるといわれております。」(抜粋終わり)

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写真8 鳥居の向こうの左手に三つ葉の松があるらしい

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写真9 夏に咲くこの花を信玄は愛していたのか

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写真10 武田神社
 
「 「三葉の松」は全国でも珍しく、黄金色(こがねいろ)になって落葉することから、身につけると「金運」のご利益がある」らしい。
知っていたら落ち葉を拾って財布へ入れたのだが、城の入り口できょろきょろしていたおばさんたちはこの松を探していたのだろう。

Mituba

図mituba
「甲斐万国総鎮護 武田神社」
http://www.takedajinja.or.jp/

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写真11 参道左手に能の舞台?神楽殿?

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写真12 手水鉢の柄杓台の形が武田菱(面白い)

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写真13 鳥居の先に細く下がっている直線(ボケてみずらい)の突き当りが甲府駅です。馬追にもってこいの直線坂です。
城を出て左手の駐車場の向かいに立て札が見える。

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写真14 高坂弾正の屋敷跡

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写真15 高坂弾正の屋敷跡
高坂弾正忠昌信(たかさかだんじょうのじょうまさのぶ)って誰だっけ・・・。
wikipediaに聞いてみる。
 
「春日 虎綱 / 香坂 昌信(かすが とらつな / こうさか まさのぶ)は、戦国時代の武将。
甲斐武田氏家臣で譜代家老衆。
幼名は春日源五郎(かすがげんごろう)。
武田晴信 (信玄)・勝頼に仕え、武田四天王の一人として数えられる。
 
姓名及び仮名[編集]
一般的に「高坂昌信」の名前で知られるが、姓については「高坂」または「香坂」姓を用いたのは最も長くて弘治2年(1556年)から永禄9年(1566年)9月までの11年間である。
この「高坂」または「香坂」姓は信濃国更級郡牧ノ島の香坂氏の家督を継承していることに由来する。
香坂氏は武田領と反武田の北信濃国人・上杉謙信との境目に位置しつつ唯一武田側に属しており、虎綱が養子に入った背景にも香坂氏の川中島地域における政治・軍事的立場が考慮されたと考えられている。
 
香坂氏に養子に入った時期は『甲陽軍鑑』によれば永禄4年に香坂氏が上杉謙信に内通し成敗された時点、または弘治2年(1556年)に小山田昌行(備中守)が水内郡海津城(長野市松代町)から雨飾城に番替えとなると後任として海津城代となり、この時点で「高坂」を称していたとしている。
なお、海津城築城は『甲陽軍鑑』によれば永禄3年のこととしている為、矛盾がある。
一方、高野山成慶院「武田家過去帳」では弘治4年時点で「香坂弾正」を称してることが確認される。
この他に「香坂」姓の名乗りが確認されるのは、永禄2年11月屋代政国宛判物における副状で、早くとも永禄6年6月まで「香坂」姓を称し、遅くとも永禄9年9月までには復姓している。
 
名については確実な文書上からの実名は「虎綱」であることが指摘されており、「昌信」(しょうしん)に関しては出家名であるとされる[要出典]。
 
また、仮名として弾正を名乗っていたとされ、しばしば「高坂弾正」と記載する場合もある。
永禄2年まで「弾正左衛門尉」を称し、同年以降には「弾正忠」に改めている。」(春日虎綱-wikipediaより)
 
武田家の忠臣春日氏である。
春日氏が養子に行った先が軍事的に重要な位置にある香坂氏(こうさかし)であった。
「春日氏かあ・・・」
私は妙に感心してしまった。
 
ここまで手が回っていたのであろう。思い過ごしかもしれないけれど、しかし春日局の政治的な徹底性は見事なまでである。
私の過去記事を読めば「その意味」が分かっていただけるものと思う。
 
新井白石とシドッチ(その2)
http://harukateinen.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-cc43.html

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写真16 信玄の父、信虎元居城の石和(いさわ)へ向かう

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写真17 駅案内所の自動ドアのガラス 「私の今知りたいことがある」と教えてくれる。

1200

写真18 1200円日帰り温泉入浴ができる旅館やまなみの廊下を通って大浴場へ向かう。
http://hotelyamanami.com/
 
日帰り入浴できるのは、次の水晶の湯とその露天風呂とワイン風呂です。
http://hotelyamanami.com/publics/index/53/

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写真19 石和温泉駅最寄りのワイナリー モンデ酒造

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写真20 モンデ酒造の工場見学入口(無料)

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写真21 眠るワイン

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写真22 ワイン樽

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写真23 ワイン熟成中

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写真24 買いました。国産と輸入のぶどうをブレンドして発酵、熟成したもの。

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写真25 レディー・バグとは「無実の人を救う虫」
白ワインは柔らかくて辛口と書いてありました。
 
レディ・バグはテントウムシらしい。
バグは計算機プログラムミスを「虫」と表現するときに使う英語だ。
 
「テントウムシ(天道虫)って英語でLadybird(Ladybug)とはどうして?」より抜粋します。 
http://jack8.at.webry.info/201006/article_1.html
 
「Lady Beetleでテントウムシのことらしい。さらにテントウムシはイギリスではLadybird,アメリカではLadybugと違う。
 
中略。
むかしむかし、あるヨーロッパの領主(Load)の前で、死刑にされそうな男が居た。
その男の肩にテントウムシが留まり、死刑になる前に逃がそうとフット息をかけて飛ばすと、ある男の肩に留まった。その男はテントウムシをたたきつぶした。それを見た領主はふと疑問に思い、再度調査させたところ、たたきつぶした男が真犯人だった。
これでテントウムシは無実の人を救う虫とされた。
 
この話が戦国時代に宣教師からもたらされて「天道常に善人にくみす」と言われたことから天道虫になった。また天道虫は飛ぶときに木などに登ってから飛び立つ習性があることから、さらに天道虫の甲羅は赤く、黒い斑点があることから、太陽(お天道様)と黒点を連想させ、天道虫となった。」(抜粋終わり)
 
石和温泉が私の日帰り入浴の行動範囲に入ってきた良い1日となりました。
禍転じて福となす。
 
帰宅して調べて分かったことは、湯村温泉はさほど要害から遠くはないということだった。
 
@niftyが教えてくれた。
 
湯村温泉の日帰り温泉、旅館、ホテルおすすめ
https://onsen.nifty.com/yumura-yamanashi-onsen/ 

Yumura

google検索より引用 湯村温泉と積翠寺

Yumura_higaeri

google検索より引用 日帰り湯@湯村温泉

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「甲府駅」から「石和温泉駅」まで(google mapより引用)

名古屋に住んでいたときに、春日井という地名を知っていた。

石和(いさわ)の地図を見ていて春日居という地名があった。

石和は元は武田信虎の居城があった場所である。

躑躅ヶ崎館へ引っ越す前である。

ここに春日氏は住んでいたのだろう。

戦国時代にやってきてレディ・バグの話を伝えたという宣教師は、甲府よりも以前に石和の春日居に入ったように、私には思われるのである。

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石和城と春日居、そして名古屋城と春日井(google mapより引用)
(名古屋城の二の丸跡は今は大相撲名古屋場所が開かれる体育館であるが、その地下には高麗瓦の屋根を備えた二の丸を持つ那古野(なごの)城跡があるはずだ。そこで信長は生まれて育った。)

信虎を発見し信玄を育てたのも、そして信長を発見したのも、さらには信長や勝頼を死なせたのも、春日氏であったと言えないだろうか・・・。

いろいろと濃い情報に触れたような気がする。

大変疲れた一日でもあった。

2017年7月12日 (水)

The world legacy KOHECHI (The A-104th piece. (3rd of May in 2015)

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天水田を左に見て再び森へ入って行く。

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なんとなく猪が突然横から出てくるような感じ。

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少し開けてきた。

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山口茶屋跡である。

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山口茶屋跡

「熊野めぐり」に「四十丁目茶屋あり」、「熊の案内記」に「やなぎ本より壱里上り、山口茶屋有り」と記されている茶屋跡である。


東西には、石垣が残っており、東側に屋敷林の杉の巨木が数本あり防風林と思われる。この近くには、石造地蔵菩薩立像や第二十四番中山寺十一面観世音菩薩像が道中を見守ってくれている。  十津川村教育委員会」(看板より抜粋)

惹かれた車のデザイン

Sport

都内のある展示場で見かけたスポーツカータイプのクーペ
 
若いころ、トヨタコロナ2000GTで走り廻った私の感性は、年老いてもまだわずかに生きているかのようにこの車の姿に惹きつけられました。
 
詳しいことはわからないまま、自然にガラケーのシャッターを押しました。
 
帰宅して調べてみるとBMWのクーペでした。
 
値段はとてもとてもの2千万円+29万円でした。
 
下記サイトに同じカラーリングの車が登場していました。
 
BMW i8
https://www.bmw.co.jp/ja/all-models/bmw-i/i8/2014/at-a-glance.html
 
1.5L3気筒のようです。

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