« 大涌谷を初めて覗きました | トップページ | 新井白石とシドッチ(その3) バイクで辿った経路 »

2017年6月14日 (水)

新井白石とシドッチ(その2)

二人のことを考えながら、新宿甲州街道から茗荷谷の切支丹屋敷までの道程も説明したいと思う。
 
シドッチ-wikipediaより抜粋した前の記事にあったことだが、
新井白石は、「切支丹は見つけ次第拷問、転ばせること(棄教)が最良である」、という従来の幕府の規定を破り、以下のような意見上申を行ったという。
 
1.上策 本国送還 これは難しく見えるが、一番易しい。
2.中策 囚人として幽閉 これは簡単なようで実は難しい。
3.下策 処刑 これは簡単なようで実際、簡単。
 
白石はシドッチに友情のようなものを感じていたのではないだろうか。
お金もかかるし人手も要する本国送還を「一番易しい」と教えている。
役人はその手にはひっかからなかったようだ。
 
しかし、「処刑、これは簡単なようで実際、簡単」とも書いている。
中庸の考えを持つ儒学の影響を受けた武士は中間を選ぶと読んだのだろうか。
結局幕府の役人は、「一番易しい」本国送還を選ばず、また「簡単なようで簡単な処刑」も選ばなかった。
 
つまり、シドッチを茗荷谷のこの切支丹屋敷に軟禁する策を取ったのである。
 
それは遠藤周作の書いた小説「沈黙」の宣教師や日本人宣教師ペドロ岐部が受けた拷問に比べれば、厚遇中の厚遇である。

Photo_2

切支丹屋敷跡

Photo_3

切支丹坂を登り切ってすぐに右手の映像ビルを見る。映像ビルの敷地が元の切支丹屋敷だそうだ。

Photo_5

エイゾービル 映像新聞の看板

私は川崎の自宅を出てバイクで甲州街道(国道20号線)を東へ向かった。

武田信玄の遺臣たちが、いつかはこの道を辿って家康の寝首を掻こうと思い描いていた街道であろう。それを制止するために江戸幕府は八王子に千人の同心(いまの警察官)を住まわせた。そこを今でも八王子市千人町と言う。旧甲州街道に沿う。

甲州街道も、日本橋から甲府まで歩いたので、つい記事がそちらへ脱線しそうになる。

戻す。

国道20号の大原交差点を左折し、環状七号線を右回りに練馬、亀有方面へ走る。

上の根橋北信号の次の板橋中央陸橋を左側道へそれて陸橋の真下を右折すると国道254号川越街道で本郷方面へ向かう。

以前東中野に住んでいたことがあるのでここで土地勘が働いた。

川越は大奥のどなたかが貴重な家財のみならず建築材料までも持ち出して引っ越した先であり、本郷は東大や後楽園の方向であり、江戸城へと向かう道である。

つまり、江戸城と川越の往復を頻繁に行っていた街道が川越街道であることに思いが至る。東池袋2丁目を過ぎて都電荒川線を横切る。

昔ながらのチンチン電車が走っている。

右手の数駅先に西早稲田駅があるはずだ。つまり大隈重信の早稲田大学の地域にほど近い場所を走っている。

私はこのときバイクの上で風を切りながら、西早稲田付近に住む春日局の姪であるお奈(おなあ)さんのことを考えている。また西早稲田駅前一帯の名主の夏目氏(明治時代に息子は小説家になった)のことを脳裏に浮かべているが、そのことはこの項を終えたあとの補講で触れることとしたい。

話が長くなるからである・・・。

白石はお奈さんがシドッチに会えるように計らったのではないだろうか、ふとそう感じた。

時代的に二人が接近できるかどうか検証が必要ではあるが・・・。

お奈さんが会津城の切支丹大名蒲生氏郷の家臣町野氏の妻となり会津に住む間に、松阪より亡命してきた山鹿貞似夫婦(内縁のようで妻女の名は不明)を匿い居候させた。そのお奈さんの家で生まれた男子が山鹿素行であり、吉田松陰の兵学の思想的恩師である。

ザビエルも山鹿素行も、のちの時代に松陰も平戸へと向かう。平戸城の向かい数㎞先には平戸ザビエル教会が今でも眺めることができる。

私が知っているザビエル教会は、平戸と山口の2か所だけである。かいつまんでみただけでも、やはり話は長くなる。お奈さんはやがて江戸へ出て春日局の引きで大奥へ入り、家光の禅の講師をする。

女中らはお奈さんの教えは切支丹の教えだと家光に訴え、慌てたお奈さんは切支丹大名だった父の弟が住職をする京都の寺へ行き、そこで出家し、名を祖心尼(そしんに)と改める。そのまま江戸に戻り、家光の禅の講師を大奥で継続するのである。

その隠居寺が西早稲田付近にあり、境内には無数の棕櫚の若葉が生えているのを見たことがある。

大塚一丁目をすぎて小石川五丁目を通過する。

江戸小石川別邸といえば徳川光圀(みつくに)、ドラマで有名な黄門様を思い出すが、大日本史編纂に従事させた明の亡命者、朱舜水(しゅ しゅんすい)は光圀の本郷の別邸に住み大日本史の編纂を手伝った。というか、ほとんど朱が書いたのではなかったか・・・。

日本の歴史を書くに、中国人を起用したのである。なんだか変!

その別邸は今は東大農学部正門の入って左手の銀杏の木の根元にある石碑でわかる。

「朱舜水先生住居之跡」という風な文字が刻んであったと記憶している。

大きな石碑なので見落とすことはない。

いま探しているのは茗荷谷の切支丹屋敷跡である。途中でいくつか緩やかな分岐に遭遇するが、国道254号を走ればよい。

3_254

あちらからこちらへとR254を進んできた

254

川越街道R254(春日通り)の標識が道路向かいみ見える。

そうそう。川越街道を南下している途中で、春日通りの交通標識が重なって出てきた。

川越街道は江戸に接近するとき、ある場所から春日通りに名を変えるのである。

将軍家光の乳母こと、実は家光の実母ではないかという説があるお福(のちに春日局)は各大名との謁見を大奥ではできない(子種を将軍一人に制限するために大奥へは男性禁制)ため、江戸城外に複数の住居を持ちそこで謁見した、と最近のNHK歴史もの番組で見た。

かつて江戸城で家康の子を身ごもったお福は、切支丹大名大友宗麟の影響下にあった佐伯城下町で子を産み、江戸へ戻って秀忠の長男とすり替え育てた、という説がある。

これもNHK佐伯局の報道で古文書を証拠として示した解説を数年前に見た。

政治的な要請を大名から聞いた春日局は江戸城に戻り、家光へ取り次いでいたのであろう。

斎藤福の父親が明智光秀の重臣斎藤利三であり、本能寺で織田信長を殺害した下手人の統領であることはあまり喧伝されてはいないように思われる。

さる高貴な女性が江戸城から川越に転居させた家財道具を一度見聞しておく必要がある。

ザビエルは布教をする相手として女性を目標として定めたようである。当時の大名の男性は男色趣味があり洗礼を授けることが不可能であったという事情もあるが、フランシスコ大友宗麟、レオン蒲生氏郷など若干の例外はある。

川越には、マリア観音や十字架を模した家財があるのではないか。

また脱線しそうになる。

ともかく江戸に近づくと国道254号は春日通りと名を重複して用いるのである。

それは江戸時代もおそらく同じであっただろう。

大名にとってはるばるやってきて春日通りに着くということは、実質的に家光謁見に相当する面会を春日局とできるのである。

末子相続の認可など、幕府に目をつむってもらいたいお願いごとは沢山あったことだろう。

やがて茗荷谷駅前を通過し、すぐに茗台中学前信号を右折し、とても狭い路地へと入る。突き当りで交通止めにあう。自家用車ではいかない方がよい。

私は突き当たるまでバイクで前に進む。

階段に突き当り、仕方なくその場に駐輪して、徒歩で階段を10段ばかり降りて周辺を撮影した。

Photo_4

庚申坂下を左右に走っているのは線路で地下鉄丸ノ内線が地上を走っているところだ。

線路下にトンネルがあり、その向こうが切支丹坂であると町内看板に書いてある。

Photo_6

庚申坂

この庚申坂下にある地下鉄丸の内線の地上線路?の下の歩道トンネルの先に切支丹坂があり、その先が屋敷跡だと思われる。

一旦川越街道に戻ってどこかで大きく右へ迂回してから裏側から庚申坂下へ接近することにしよう。(その3に続く)

 

 

 

« 大涌谷を初めて覗きました | トップページ | 新井白石とシドッチ(その3) バイクで辿った経路 »

閑話休題」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1054607/70861686

この記事へのトラックバック一覧です: 新井白石とシドッチ(その2):

« 大涌谷を初めて覗きました | トップページ | 新井白石とシドッチ(その3) バイクで辿った経路 »

最近のトラックバック

最近のコメント

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ