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2017年6月30日 (金)

新井白石とシドッチ(8) 最終回

私は東京・日本橋の道路元標から放射状に発する5街道をすべて足で歩いた。
 
その過程で、各地に黒川という地名があり、どうもそれが隠れ切支丹と縁があるのではないかと、思うようになっていった。
奥州街道では仙台の手前に黒川という地名があった。
仙台市にはいり、広瀬川の岸でテント泊したとき、そばに切支丹殉教碑を見つけた。
 
私の住まいの近くを尻手黒川(しってくろかわ)通りが通り、北の終点が「黒川」である。
附近をあるいたけどそれらしきものは発見できなかった。
 
ただ、ハリウッドの看板、化粧品メーカだろうが、不似合いな英語の工場看板に目が注がれたことを記憶している。周囲の住宅街と英語の看板とのバランスが取れていないという違和感を私は感じた程度だった。
 
もっとも重要なものは会津若松城であって、その旧名を黒川城というそうだ。
 
「若松城(わかまつじょう)は、福島県会津若松市追手町にあった日本の城である。
地元では鶴ヶ城(つるがじょう)と言うが、同名の城が他にあるため、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多い。
 
文献では旧称である黒川城(くろかわじょう)、または単に会津城とされることもある。
国の史跡としては、若松城跡(わかまつじょうあと)の名称で指定されている。」(若松城-wikipediaより)
 
なぜ重要かというと、切支丹大名の蒲生レオン氏郷が大名となって支配し、5年近く布教活動をしたはずの地であるから、会津は切支丹にとって重要な拠点となり得たはずなのである。
 
それが「黒川」だという。
 
私は新井白石の「西洋紀聞」の中にその名を見つけて、やはりそうだったのかと納得した次第である。
その下りを抜粋する。
 
「略。
いくほどなくして、上にもかくれさせ給ひしほどに、正徳四年甲午(1714)の冬に至て、かのむかし其教の師の正に帰せしものの奴婢なりといふ夫婦もの、此教師は黒川寿庵といひしなり。番名はフランシスコ・チウアンといひしか。
 
奴婢の名は、男は長助、女ははるといふ。
自首して、昔二人が主にて候もの世にあるし時に、ひそかに其法をさづけしかども、国の大禁にそむくべしとも存ぜず、年を経しに、此ほど彼国人の、我法のために身をかへり見ず、万里にしてここに来りとらはれ居候を見て、我等いくほどなき身を惜しみて、長く地獄に堕し
候はん事のあさましさに、彼人に受戒して、其徒と罷り成り候ひぬ。
 
これらの事申さざらむは、国恩にそむくに似て候へば、あらはし申す所也。
いかにも法にまかせて、其罪には行はるべしと申す。以下略。」(p17~、東洋文庫113 「西洋紀聞」(新井白石著、宮崎道生 校註、平凡社)より抜粋終り)
 
この抜粋について拙い筆者の現代語訳でよろしければ、最下段に掲載するので参考にしていただきたい。
 
「シドッチ神父と長助・ハル夫婦」
http://mr826.net/psi/blog/081010というサイトがある。
 
そこには、長助とはるがどのようにしてシドッチの世話を焼き、やがて洗礼を受け、それを幕府へ申し出たことが述べられている。
 
シドッチの死因については、こう書いてあった。
 
「そして同年11月27日、遂に獄死する。47歳であった。
シドッチの死因についてわれわれは何も知らない。
 
ただ、絶食や毒殺の可能性も否定できないと思う。
いずれにせよ、我々はシドッチ神父を殉教者として崇めたい。」(同上より抜粋)
 
前述の東洋文庫の「西洋紀聞」に出て来る黒川寿庵には注釈がついている。それを抜粋する。
 
「注四〇
黒川寿庵 寿庵の事蹟は、「査祅余禄」(続・群書類従第十二、所収)や「小日向志」によって、その大体が知られるが、それらに従うと、明国広東の人でイルマンとなり、(海老沢氏によればカテキスタ、すなはち伝道士)、岡本三右衛門と一緒に我が国に潜入して捕らえられ投獄されたが、岡本同様ころんだため、名を黒川三郎衛門と改めて妻をも与えられ、寛文十二年(1672)七人扶持を給せられた。
 
ところが、貞享三年(1688)末に至って、切支丹奉行中山勘解由(かげゆ)の家僕某に対して手紙を寄せ、再び信仰に復したことを告げ、刑死せんことを望むと申し出た。
やがて元禄四年(1691)七月、再び獄に下され、同十八年八月十八日に没した。
行年八十歳、無量院に葬られたという。
 
なお、「査祅余禄」によれば、天和二年(1682)二月、作事奉行青木遠江守の呼出をうけて、「天地之図」に関する質問に答えているが、この人物は航海術に通じていたようである。[海老沢氏「南蛮学統の研究」九十二ページ及び附録十三のうち「学文ノ事」の「下げ札」参照]」(p114、東洋文庫113 「西洋紀聞」(新井白石著、宮崎道生 校註、平凡社)より抜粋終り)
 
黒川寿庵はヨットマンだったのである・・・。
 
熊野古道を歩いていて、熊野権現はもともと長距離航海にたけたヨットマンであることを知った。
 
和歌山から帆船にのり、日本で唯一銀の精錬をしていた対馬へ行き、銀の器を持ち帰って朝廷へそれを奉納し褒められていた。
 
東京~小笠原父島間の900㎞を私はヨットで往復したことがある。
12泊13日の長い航海だった。
 
和歌山~対馬間も似たようなものであろうが、昔の船では生死を賭けた難行であっただろう。
 
ザビエルを日本へ運んだヨットマンは本名は伝わっていない。
フランス語で海賊という意味のアヴァン船長という名だけ伝わっている。
私はアヴァンも偉大なヨットマンであると思っている。
 
奈良時代以前の熊野権現も、江戸時代の黒川寿庵も、ともにヨットマンであったところに私は大いに興味を持ったのである。
 
シドッチはどのヨットマンと長い航海をして屋久島へやってきたのだろうか。
シドッチの日本密航専用船として建造された船だったらしい。
 
「海賊八幡船」という昔の映画のサイトにそれらしい帆船図絵が登場してくる。
http://arcadia3.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-f101.html

Wakou

倭寇の活動領域(wikipediaより引用)
 
「13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の事である。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼(かいらぎ)とも呼ばれる。
 
倭寇の活動地域
倭寇の根拠地は日本の対馬や壱岐・五島列島をはじめ、朝鮮の済州島、中国の沿海諸島部、また台湾島や海南島にも存在していた。
 
ボルネオ童話において、倭寇と思しきものが活躍する伝承もあり[30]、この周辺まで広く活動していたと思われる。また倭寇であるかは不明であるが、現在のタイにおいてもスペイン軍が「ローニン」の部隊に襲われて全滅したとの記録もある。」(倭寇-wikipediaより抜粋)
 
ローニンは浪人のことだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
参考)現代語訳
 
「略。
それほどもなくて、将軍もお亡くなりになるほどに、正徳四年甲午(1714)の冬に至って、昔キリスト教の宣教師の正式な人に帰依した人物の奴婢であるという夫婦もの、此の教師は黒川寿庵と名乗ったという。洗礼名はフランシスコ・チウアンといったとか。

奴婢の名は、男は長助、女ははると言う。
幕府の切支丹奉行に自首して、昔二人の主人が生きているときに、密かに洗礼を受けていたけれども、それが国の大禁にそむくことになるとも知らずに、長年を経てしまった。
 
此のほど彼の国の人(シドッチ)が、我法のために身の危険をもかえり見ずに、万里の波濤を越えて日本に来て、そして捕らわれの身になったことを見て、我等はたいしたこともないわが身を惜しんで、長く地獄に堕していることのあさましさに、彼の人に受戒して、其の信者となることにしたのでございます。

これらの事を隠して申上げないのであれば、それは国恩にそむくに似ていると思いましたので、その秘密を明らかにして申し上げた次第です。
 
どのようであれ法にまかせて、其の罪には(罰が)下されるべきだと言う。以下略。」(p17~、東洋文庫113 「西洋紀聞」(新井白石著、宮崎道生 校註、平凡社)を現代語訳した。)
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最後になるが、長助とはる夫婦が自首した『正徳四年甲午(1714)の冬』という時代について考えてみる。
大奥に謎を秘めた絵島という大奥御年寄がいたが、その年に事件に遭遇している。
江島とも書くようだ。
 
これも「その年の冬」である。
 
「江島生島事件(えじま いくしま じけん)は、江戸時代中期に江戸城大奥御年寄の江島(絵島)が歌舞伎役者の生島新五郎らを相手に遊興に及んだことが引き金となり、関係者1400名が処罰された綱紀粛正事件。絵島生島事件、絵島事件ともいう。
中略。
 
正徳4年1月12日(1714年2月26日)、時の徳川家第七代将軍である家継の生母月光院に仕える御年寄・江島は、主人の名代として同じ年寄の宮路と共に上野寛永寺、増上寺へ前将軍家宣の墓参りに赴いた。
 
その帰途に懇意にしていた呉服商後藤縫殿助の誘いで木挽町(現在の東京都中央区東銀座界隈。歌舞伎座周辺)の芝居小屋・山村座にて生島の芝居を見た。
 
芝居の後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開いたが、宴会に夢中になり大奥の門限に遅れてしまった。
大奥七ツ口の前で通せ通さぬの押し問答をしている内にこの事が江戸城中に知れ渡り、評定所が審理することになった。
 
当時の大奥には、7代将軍家継の生母月光院を中心とする勢力と前将軍家宣の正室天英院を中心とする勢力とがあった。月光院が家継の学問の師である新井白石や側用人の間部詮房らと親しい事から、大奥では月光院側が優勢であった。」(江島生島事件-wikipedia)
 
家継の生母月光院に仕える御年寄・江島は、新井白石と同じ勢力軍内にいたのであった。
 
私は絵島は江戸市中、例えば茗荷谷に潜伏している宣教師の元へ行ったのではないかと想像したことがかつてあった。
 
長助とはるの自首と江島に、何らかの関連性を感じているところである。
 
江島の墓は数年前にお参りしたことがある。
墓へ至る途中の真っ赤な楓の木がとても印象的だった・・・。

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