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2017年6月21日 (水)

新井白石とシドッチ(その5)

シドッチが屋久島に上陸し、百姓に発見される下りを、新井白石の書いた本より抜粋する。
その情景がありありと描写されているので面白い。
 
私の拙い現代語訳も下段に示す。
 

Photo

屋久島湯泊沖に船(google mapより引用)
 
「明くれば廿九日の朝(宝永5年(1708年)8月29日)、尾野間より二里計の西にある湯泊という村の沖のかたに、きのふ見えしごとくの船見えしかど、北風つよくして南をさして向きしほどに、午の時に至ては帆影も見えずなりき。
 
此の日、彼嶋の恋泊(こひどまり)といふ村の人、藤兵衛といふ百姓也。
炭焼かむ料に、松下といふ所にゆきて木を伐るに、うしろのかたにして人の声したりけるを
かへり見るに、刀帯びたるものの、手して招く一人あり。
 
其いふ所のことばも聞わかつべからず。水をこふさまをしければ、器に水汲みてさしをく。ちかづき呑て、又まねきしかど、その人刀を帯びたれば、おそれて近づかず。
 
かれも其心をさとりぬと見えて、やがて刀を鞘ながら抜きてさし出しければ、近づくに、黄金の方(ケタ)なる一つ取出してあたふ。
 
此ものきのふ見えし船なる人の、陸に上りしにやとおもひしかば、其刀をも、金をも、とらずして礒(イソ)のかたに打出てみるに、其船も見えず。また外に人ありとも見えず。
 
我すむかたにたち帰りて近きほとりの村に人はしらかして、かくとつぐ。
 
平田といふ村のもの二人出来しをともなひて、字は五次右衛門といふ者ども、松下にゆきて見しかば、一人それをたすけ、一人は其刀をもち、一人はそれが携えし袋やうの物をもちて、恋泊のものの家にいて行て、物したためてくはす。
 
かの人、また黄金のまろき二つと方(ケタ)なる一つを取出て、あるじにあたふ。藤兵衛なり。辞してとらず。
 
その物いひ、ききわきまふべからざれども、其形は我国の人也。さかやき(月代)、ここの人のごとくして、身には、木綿の浅黄色なるを、碁盤すじのごとくに染なしたるに、四目結の紋あるに、茶色のうらつけたるを着て、刀の長さ二尺四寸余なるを、我国の飾のごとくにしたる一腰(ヒトフリ)をさしたるなり。
 
此事、嶋を守れるものの許に聞こえしかば、宮之浦といふ所に、かのもの置くべき所作り出して、うつし置て、薩摩守の許につく(告ぐ)。
 
薩州の家人等、連署して、其事を長崎の奉行所に告ぐ。」
(p23~、東洋文庫113 「西洋紀聞」(新井白石著、宮崎道生 校註、平凡社)より抜粋。)
 
長崎まで新井白石は行き、そこで一度尋問したようだ。
 
その後シドッチは江戸茗荷谷の切支丹屋敷へ移され、そこで白石の尋問を受けることになる。
 

Photo_2

屋久島恋泊の藤兵衛宅(google mapより引用)左の赤い〇は湯泊付近
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現代語訳 
 
明けて1708年8月29日、尾野間から2里西にある湯泊(ユドマリ)という村の沖合いに、昨日見えたように今日も船が見えたけれど、北風が強かったので船は南を目指して向いていたが、昼には帆影も見えなくなった。(おそらく追風を受けて帆船は南へと去ったのだろう。)
 
この日、彼の嶋の恋泊という村の人で藤兵衛という百姓が、炭を焼こうとして松下というところで木を伐っていると、うしろの方で人の声がしたので、振り返ると、刀を腰に差してはいるものの、手招きする人が一人いた。
 
その人の言うところ言葉は理解できない。水を乞うような振りをするので、器に水を汲んでその人の前にそっと置いた。
 
その人は器に近づいて来て、水を呑んだ。
そしてまた手招きをしたけれど、その人が腰に刀をさしているから恐ろしくて百姓は近づかなかった。
 
彼もその百姓の心を理解したと見えて、やがて鞘ごと刀を抜いて差し出したので、近づいてみた。すると黄金の四角いものを一つ取出して百姓に与えた。
 
この者は昨日見た船に乗っていた人が上陸してきたものに違いないと思ったので、その刀も黄金も受け取らないで礒の方へ出てみると、その船も見えなく、また彼以外に人がいるようにも見えなかった。
 
私は自分が住んでいるところへ帰って、近い隣村に人を走らせてこれこれの事があったと知らせた。
 
平田村のもの二人を伴い、字は五次右衛門といふ者たちであったが、松下に行って見たところ、一人彼の歩くのをたすけ、一人はその刀を持って、一人は彼が携えていた袋のような物を持って、恋泊のものの家に行って、食べ物を手配して彼に食わせた。
 
彼は、また丸い黄金を二つと四角い黄金一つを取出て、あるじにあたえた。その家の主は藤兵衛である。辞去してお礼を受け取らなかった。
 
その話し言葉は理解できないけれど、その外見は我国の人である。さかやき(月代)はここの人のように剃ってあり、身には、木綿の浅黄色のものを、碁盤すじのように染めたものに、四目結(よつめゆい)の紋がある上に、茶色の裏生地をつけたものを着て、刀の長さ二尺四寸余であって、我国の飾のようにした一腰(ヒトフリ)をさしている。
 
此事が嶋を守っているものの許(もと)に聞こえたので、宮之浦と言う所に、彼を置く場所を作り出して、そこに移し置いておき、薩摩守島津氏へ告げた。
 
薩州の家人等は、連署してその事を長崎の奉行所に告げた。」
(p23~、東洋文庫113 「西洋紀聞」(新井白石著、宮崎道生 校註、平凡社)を現代語訳した。)
 
島津の家臣たちの緊張した表情が目に浮かんでくるようである。

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