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2017年6月12日 (月)

新井白石とシドッチ(その1)

確か6月初旬の日経新聞記事だったと記憶している。
 
茗荷谷駅前のマンション工事現場で、イタリア・トスカーナ地方出身者のDNAを持つ白骨が発掘され、禁制下の江戸中期に日本へ潜入した宣教師シドッチの骨であることが確認されたという。
膝を抱えて土葬する日本人の白骨と異なり、両足を伸ばしてあおむけに眠る形の白骨姿勢だったと記事にあった。
 
戦国時代にこの国にザビエルが撒いた種の実りを収穫にやってこようとしたのだろうか。
シドッチは江戸に送られ、新井白石の尋問を受けている。
 
その切支丹屋敷跡を訪ねた・・・。
 
(あとで道順などを報告するが、自家用車での現場接近は大変難しいので電車で茗荷谷駅下車し徒歩で切支丹坂を目指すと坂上の右手にその石碑がある。私はバイクなので一発で幸運にもたどり着いたがバイクでもおそらく苦労するだろう。電車が賢明だとお断りしておきます。)

Photo

茗荷谷の切支丹屋敷跡碑(2017年6月10日筆者撮影)

解体新書で有名な新井白石であるが、幕府役人(寄合)引退後は渋谷区千駄ヶ谷6-1-1に隠棲して執筆活動に専念したそうだ。

Hakuseki

白石終焉地の碑(GOOGLE MAPを引用)

ここに渋谷区設置の記念案内板があるそうである。
一度行ってみようか、と思う。

カトリックの宣教師の来日はザビエルを始まりとする。
 
ザビエルが1549年8月15日に鹿児島市祇園之洲町に上陸してから160年目のカトリック宣教師のシドッチの屋久島潜入であった。
 
「ザビエル上陸記念碑」には背の高い棕櫚の木が2本だけ映る写真が掲載されている。
http://www.kagoshima-kankou.com/guide/10534/
 
私はそこを訪れたが、実際はその背の高い棕櫚の木が2列に合計40本以上並び、その間をザビエルが歩いた小道が曲がりくねって街道へとつながっていた。
 
棕櫚並木の壮観をなぜ日本人向けの観光写真では省略しているのだろうか・・・。
 
しかし、シドッチは屋久島で捕らえられ、江戸へ護送された。
鹿児島での捕縛の様子も白石は記録している。
 
日本刀を腰に差し、月代(さかやき)を剃って侍姿には化けていたが、手で水を飲むジェスチャーをして水を乞う様に発見した農民は怪しみ代官所へ届けたのである。
 
新井白石は江戸小石川町(茗荷谷の切支丹屋敷)でシドッチを尋問した。
 
wikipedia記事により、白石とシドッチの関係を見てみよう。
 
『(新井白石は、)江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。
 
一介の無役の旗本でありながら六代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房と
ともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。
 
家宣の死後も幼君の七代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折し八代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。
 
中略。
 
外交政策[編集]
朝鮮通信使の待遇の簡素化
朝鮮通信使接待は幕府の財政を圧迫するとし、朝鮮通信使の待遇を簡略化させた(この一件は順庵の同門だった対馬藩儒・雨森芳洲と対立を招いた)。
 
また、対朝鮮文書の将軍家の称号を「日本国大君」から「日本国王」とした。
 
シドッチ密航事件
ローマ教皇からの命でキリスト教の布教復活のため日本へ密航して捕らえられ、長崎を経て江戸茗荷谷キリシタン屋敷に拘禁されていたシドッチを取り調べ、本国送還が上策と建言した。
 
また、白石はこの事件により得た知識をもとに『西洋紀聞』『采覧異言』を著している。
以下略。』(新井白石-wikipediaより抜粋)
 
その西洋紀聞を、今、通勤電車で根気よく読んでいるところだ。
記憶に残る部分を抜粋する。
 
「其教法を説くに至ては、一言の道にちかき所もあらず、智慧たちまちに地を易(か)へて、二人の言を聞くに似たり。
 
ここに知りぬ、彼方の学のごときは、ただ其形と器とに精しき事を、所謂形而下なるもののみを知りて、形而上なるものは、いまだあづかり聞かず。
さらば天地のごときも、これを造れるものありといふ事、怪しむにはたらず。
かくて、問答の事共、其大略をしるす所二冊、進呈す。」
(p16~p17、東洋文庫113 「西洋紀聞」(新井白石著、宮崎道生 校註、平凡社)より抜粋。)
 
以下はシドッチに関するwikipedia記事の一部抜粋である。
 
『現在のイタリアのシチリア貴族の出身。特定の修道会に所属しない教区司祭として活動していたが、東アジアに派遣された宣教師らの報告によって日本における宣教師や現地の信徒(切支丹)の殉教を知り、日本への渡航を決意した。
 
教皇クレメンス11世に願い出て宣教師となり、マニラに向けて出帆した。マニラでは4年間宣教師として奉仕し、現地の宣教師仲間やバチカンからもその功績を認められるに至った。
 
この間、江戸幕府の禁教政策により宣教師や信徒共同体への弾圧を聞き知っていたマニラ駐在の宣教師らはシドッティの日本行きに反対したが、シドッティの決意は変わらなかった。
 
1708年(宝永5年)8月、鎖国下の日本へ出発するシドッティのためだけに建造された船に乗り、日本に向けて出発した。10月、髪を月代に剃り、和服に帯刀という侍の姿に変装して屋久島に上陸した。
 
島の百姓に見つかり、言葉が通じないことで怪しまれ、ほどなく役人に捕らえられて長崎へと送られた[1]。
 
翌年、1709年(宝永6年)江戸に護送され、時の幕政の実力者で儒学者であった新井白石から直接、尋問を受けた。
 
白石はシドッティの人格と学識に感銘を受け、敬意を持って接した。
シドッティも白石の学識を理解して信頼し、2人は多くの学問的対話を行った。特にシドッティは白石に対し、従来の日本人が持っていた「宣教師が西洋諸国の日本侵略の尖兵である」という認識が誤りであるということを説明し、白石もそれを理解した。
 
切支丹、特に伴天連(バテレン、パードレ Padre =宣教師 の音訳)は見つけ次第拷問、転ばせる(キリスト教信仰を捨てさせる)ことが最良である、という従来の幕府の規定を破り、新井白石は以下のような意味の意見上申を行った。
 
1.上策 本国送還 これは難しく見えるが、一番易しい。
2.中策 囚人として幽閉 これは簡単なようで実は難しい。
3.下策 処刑 これは簡単なようで実際、簡単。
 
白石が幕府に本国送還を上策として具申したのは異例のことであった。結局、用心した幕府は中策を採用し、シドッティを茗荷谷(現・文京区小日向)にあった切支丹屋敷へ幽閉することに決定した。
 
切支丹屋敷は1646年に捕らえた切支丹を収容するために作られたものであったが、鎖国と禁教政策の結果、シドッティが収容されるまで長きにわたって誰も収容者がいなかった。
 
茗荷谷の切支丹屋敷では宣教をしてはならないという条件で、拷問を受けないことはもちろん、囚人としての扱いを受けることもなく、二十両五人扶持という破格の待遇で軟禁されていた。
 
屋敷でシドッティの監視役で世話係であったのは長助・はるという老夫婦であった。
彼らは切支丹の親を持ち、親が処刑されたため、子供のころから切支丹屋敷で生涯をすごしていた。
ある日、木の十字架をつけていることを役人により発見され、2人はシドッティに感化され、シドッティより洗礼を受けたと告白した。
 
そのためシドッティは2名とともに屋敷内の地下牢に移され、その10ヶ月後の1714年(正徳4年)10月21日に46歳で衰弱死した。」(シドッチ-wikipediaより)
 
この屋敷で拷問苦に耐え切れずに転向したジュゼッペ・キアラを題材に遠藤周作は小説「沈黙」を書いた。最近イタリア人監督の手によって映画化されて日本で上映されていた。
 
「ジュゼッペ・キアラ(Giuseppe Chiara、慶長7年(1602年) - 貞享2年7月25日(1685年8月24日))は、イタリア出身のイエズス会宣教師。
 
禁教令下の日本に潜入したが捕らえられ、拷問の責め苦に耐えかねての強制改宗により信仰を捨て、岡本三右衛門(おかもと さんえもん)という日本名を名乗って生きた。
 
遠藤周作の小説『沈黙』のモデルとなったことでも知られる。」(ジュゼッペ・キアラ-wikipediaより)
 
岡本三右衛門の名は白石のシドッチ尋問記録の中に幾度も登場してくるので、記憶にとどめておきたい。
 
次項は、屋敷周辺の景色を写真で紹介したい。

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