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2017年6月28日 (水)

新井白石とシドッチ(その6)

鎖国に至った由来をシドッチが新井白石に語るくだりがある。
例の書籍から抜粋する。
 
「按ずるに、ポルトガル人、初に豊後国に来れる事は、天文十年(1541)七月也。
 
其後、薩摩国に来れるは、天文十二年八月也。」(p34~、東洋文庫113 「西洋紀聞」(新井白石著、宮崎道生 校註、平凡社)より抜粋した。)
 
鎖国の前に重要な事柄が出てきた。
 
私の理解では西洋人の渡来は1549年八月のザビエルを初めとしている。
これは40年ほど前に私が高校で習った日本史をもとにしているが、その後の各種情報もそれを補強してきた。
 
『ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年(天文18年)に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。』(フランシスコ・ザビエル-wikipediaより)
 
しかし、白石は、西洋人の日本初渡来は1541年7月にポルトガル人が豊後国へ渡来したことが始まりである、とシドッチから尋問した上で書いているのだ。
 
しかも薩摩国には1543年八月にポルトガル人が到着したと書いてある。ザビエル到着の6年も前に、・・・である。
 
理屈を言えばポルトガル人は貿易交渉にやってきて、布教に来たのはザビエルが初であるということになろう。
 
しかし、私は直感であるが、ポルトガル商人は宣教師を伴い佐伯の大友宗麟の館へ1541年7月に入った、・・・と思った。
 
さらに、ザビエルをゴアから呼べと命令したのは、当時、たしか薩摩へも影響力を保有していた大友宗麟ではなかったか・・・・と。
 
大分県生まれの私にとっては、とても重要なことなので、ついこの件の抜粋を書くはめになった。
 
この国がある種の危機に遭遇した時、一般日本人の誰も知らなかったような白髪の痩せた爺さんが大分県から突然出て来て総理大臣をやってのけたことの不自然さは、この理解により氷解した。
 
「自民党籍を有したことのない唯一の内閣総理大臣」(wikipwdia)なのである。
それが偶然だったのか、あるいは必然だったのか・・・。
 
鎖国の下りはこの後の項に書くことにした。
 
wikipedia記事には1543年、種子島へポルトガル商人が偶然漂着したかのように書かれている。
 
「鎖国まで
「南蛮貿易」も参照
 
天正遣欧少年使節の来訪を伝える印刷物、1586年(京都大学図書館蔵)略。
 
朱印船(狩野内膳画の南蛮屏風より)略。
 
大航海時代以後ポルトガルは積極的な海外進出とブラジル経営を中心として国力を伸長させ、16世紀初めには東南アジアへ進出し、日本近海へも活動域を広げ始めていた。
 
そして1543年、種子島へポルトガル商人が漂着(鉄砲伝来)したことが日本へのポルトガル人の最初の上陸であったとされている[1]。
 
ポルトガルは当時、アジア地域へ植民地および貿易相手国を求め進出を行っており、日本との接触ののち通商を求める商人の動きが活発化した。
また、貿易はキリスト教布教を伴って行われるものとの戦略があり[2]、貿易商人と共に多くの宣教師も日本を訪れる事となった。
 
1549年にはフランシスコ・ザビエルが日本を訪れキリスト教布教活動を行っている。
 
その後、織田信長らの庇護のもと両国間で南蛮貿易が開始され、1557年にマカオの居留権を獲得したポルトガルは同地と九州を拠点としながら貿易を展開していった[3]。
 
ポルトガルからは多くの製品、文化が日本に流入していった一方、日本からは銀などがポルトガルへ流出した。
 
同時に、九州を中心として宣教師によるキリスト教布教も行われ、キリシタン大名なども誕生し、天正遣欧少年使節の派遣なども行われた。
 
1603年には、『日葡辞書』がイエズス会によって長崎で発行された[4]。
4年以上の歳月をかけて編纂され、中世の日本語とポルトガル語を研究するうえでの貴重な資料となっている。」(日本とポルトガルの関係-wikipediaより)
 
「貿易商人と共に多くの宣教師も日本を訪れる」ことは、当初よりそうだった可能性が高い。
 
渡船費用はポルトガルのジョアン三世の援助金によって賄っており、そのうえジョアン三世はローマ法王にアジア地域への覇権確立のための軍派遣の許可を得ていたのではなかったか。
ザビエルはその延長戦上に載って日本へやってきたのである。(ザビエル書簡集を読んだ所感より)
 
よって、1541年7月に豊後国へ上陸したポルトガル人も宣教師か修道士か説教師かはわからないが、彼らのいずれかを伴っていた可能性が高いと私は思っている。
 
しかし、宗麟は洗礼を下せる資格のある宣教師の来日を乞うたのではないだろうか?
 
そしてこの国で、しかも薩摩の祇園洲の砂浜で、初めてザビエルによる洗礼を受けたのは
宗麟ではなかったのか・・・と、夢想してみました。
 
なぜならば、大友宗麟の洗礼名は、ザビエルの名である。
 
大友フランシスコ宗麟・・・。
 
(以下はあとで補足追記したものです。)
 
しかし、時代は二人に多少のずれがあったようで、そうはとんやがおろさなかったようです。
 
「ザビエルもまたこの地(大分市)に来た宣教師の一人です。
この時挨拶をしたのが、まだ青年だった大友宗麟(この時の名は義鎮ですが、混乱を避けるため宗麟で統一します)。
宗麟がキリシタンとなるのはそれから26年も経ってからですが、この出会いは生涯忘れ得ぬものだったのではないでしょうか。」(「九州のキリシタン・ロードをゆくⅡ」より抜粋)
http://tenjounoao.waterblue.ws/travel/kyusyu2.html

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