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2017年4月

2017年4月30日 (日)

巣が消えていました!

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今朝出かけるときに撮影すると、巣が跡形もなく消えていました。

・・・!?

思い起こせば、「ヒナを発見した」と私は以前のブログ記事に書きました。

http://harukateinen.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-f7d6.html
「2017年4月15日昼すぎのこと、マンションの庭先に鳩の巣を見つけました。」

このときの写真(左側)と上の写真(右側)を並べて比べてみましょう。

鳩のヒナは巣立ちましたが、今度は西洋しゃくなげの若い花々が芽吹いていることに気づきました。自然の営みは、かくも忙しくて美しいものです。

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一昨日でしたか、母鳥が巣に戻っているかのような写真を掲載したことがありましたが、あれが母鳥であった可能性があります。

マンションの管理人か、巣の近くの住民が、子供が巣立ったことを確認し、次の卵を産む前に巣を壊した可能性があります。

聞けば、数日前には巣を発見して子供らと母親らが巣のヒナの前でかなりの時間はしゃいだりおしゃべりしたりしていたようです。

そういう環境になっていくことを嫌った住民か管理人の手によって、無事に巣立ったのだからと巣を撤去したものと私は推理します。

鳥自身が巣を捨てる場合は、壊して去らないで放置するものと私は思います。

良い方に考えましょう。

兄弟ヒナは母鳥と同じ柄の羽が生えてきていました。

巣の中で翼を伸ばすしぐさ、これは飛翔の準備作業だと記憶していますが、そういう今にも巣立ちそうな気配を私は感じていたのでした。

したがって、今朝このシーンを発見したとき、私は即座に「奴らは飛翔したな!」と直感しました。

鳩を飼った経験から来る本能的な反応でした。

しかし、誰が巣を壊したのだろうか、というような人間的な思考は、それから数秒経過してから生じましたので、実はそれは鳩にとってはどうでもいいことなのです。

空を飛ぶ自由さえ手に入れれば、天敵を避ける限りは幸せな人生が待っているからです。

人間の考えることなどは、たいして役にも立たないことばかりです。

巣の破壊よりも大切なこと、それは若鳥の初めての飛翔なのです!

2017年4月29日 (土)

巣の中に、一羽?それとも二羽???

今朝巣の傍を通過したとき、巣には1羽しか見当たらなかったように見えました。

兄弟ヒナは巣立ったのでしょうか?

それとも、母鳥が次の卵を抱く準備に入ったのでしょうか?

会社へと駅へ急ぐ途中のことですので、詳細に調べるわけにもいかずそのまま通過しました。

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しかし、通りがかりに立ち止まって一枚だけ撮影しました。これがその画像です。

左に頭を向けて、母鳥そっくりの羽の柄です。しかも躯体は親鳥に似ているくらいに目立ちます。

一羽が蛇かトンビに食われてしまい、巣には巣立ち前の兄弟一羽だけになった可能性もあります。

あるいは無事に巣立って、兄弟のどちらかがたまに実家に遊びに帰ってきたのかも知れません。羽柄が親子兄弟ともに同じなので大きさが近づいてくると大変識別が難しい。

私が中学生のころ田舎の実家で鳩を飼ったときは、オスは血統証明付きの南洋鳩という白地に黒い羽の大きめの鳩で、メスは彼が山へいったときに連れて帰ってきた山鳩でこの巣の母鳥に似ていました。
生まれた子は柄もいろいろなので見分けができていたのです。

しかし、ここは両親ともに同じ柄のように思われます。上の写真を拡大して巣の中を見てみましょう。

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2倍に拡大すると2羽が重なっているようにも見えてきました。
兄弟ともに頭は左にあり、くちばしがほぼ重なっています。

弟がほとんど兄さんの体の影に隠れているような塩梅です。

奥のくちばしの位置が、それを延長したときに手前の鳩の目の位置とずれを生じるので、2羽の映像ではないかと気づいた次第です。

鮮明度が低いので何とも言えないところです。

明日見て巣に2羽いたら、ずっと2羽でいたことになるでしょう。

明日が待ち遠しいですね。

2017年4月27日 (木)

騎馬民族の傷癒し湯

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このすそ野に湯があると誰が教えたのだろうか。信玄に。

真田昌幸かその親父であろうと私は推理しています。

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チャレンジ!

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清流

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日帰り湯

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ぶな林を眺めるお気に入りの信玄隠し湯

今朝、鳩の親鳥夫婦に出会いました。

通勤のために自宅を出て道路の歩道を歩いていると、足元に山鳩が桜の実をついばんでいました。私の足音に驚いて屋根の上に飛び上がりました。
 
私が毎日この歩道を歩くのを知っていて歩道で待っていたような気がしました。
 
「ひょっとしたら、あのヒナたちがめでたく巣立って、ご挨拶に私の足元に来たのではないだろうか?」
 
「であれば、人懐っこいのは巣の奥に座っていてごそごそと動いていた弟(あるいは妹)であろう。私に興味を持ったのかもしれない。」
 
いろいろ考えながら、鳩を2羽撮影しました。
 
今日の夕方、帰宅前に巣を覗くと、まだヒナたちはいました。
 
そうすると、朝であった2羽の鳩はヒナたちの親鳥夫婦である可能性が高くなります。
 
写真を見て母鳥がどちらか考えてみましょう。

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20170425(二日前)のヒナたち

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上の拡大

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朝の出勤時に自宅傍で遭遇した2羽の鳩。左右に分かれていますが、各々を拡大して見てみましょう。

Photo 上の写真の左側拡大

これがたぶん母鳥でしょう。さきほど私の足元で餌を食べていたのですが、私が近づくと屋根の上に上がりました。私の方を見ていることが鳩を飼ったことのある私にはわかります。

「ヒナたちを見守っていただいて、大変ありがとうございました。ポッポー。」

Photo_2 上の写真の右側拡大

右端に父鳥らしき鳩がいます。2羽とも同じ柄の山鳩ですので、子供らも同じ羽の柄なのでしょう。父鳥とは私は面識がありませんので警戒しているようです。
 
「カミさんが、お世話になっている町内会のおじさんだと言うんだけれど、おいらは知らない人なので本能が警戒してしまうよ。ポッポー!」
 

2017年4月25日 (火)

歴代スカイライン展示@六本木ヒルズアリーナ

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スカイラインの好きな方へ!今六本木ヒルズで展示していますよ。(もう終わっています。4月29日時点で確認)

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確か、歴代の13台だとか・・・。私はコロナ2000GTに乗っていました。若いころですけど。

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開館前に数十名の人が並んで待っていました。

2017年4月24日 (月)

成長している京大鳩、もとい兄弟鳩

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2017年04月21日13時57分に撮影しました。

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頭を右にして兄弟(姉妹?)が2羽重なって並んでいます。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん、あのおじさん、いつも覗いていくおじさんだよね!」

「しっ!頭を動かすんじゃないよ。お母さんに言われただろ?!動くものに敵は近づいてくるってさ。いつものおじさんであっても動いてはいけないよ。」

「でも~」

巣の色と羽の色が補色なので、見つけづらいのですが、目を見出すと頭、その左手に胴体があるのに気づきます。

母鳥は聞くところによれば、近くの梢などから観察しているそうです。

餌を運ぶ母鳥がもし鷹に襲われれば、この2羽は間違いなく餓死することでしょう。

母鳥の見守り愛に守られつつ成長しているのです。

親鳥の羽毛に色合いが近づいていますので、まもなく羽ばたきの練習、そして飛翔、巣立ちとなります、

一たび巣を出ると、自然の鳥は戻ってこないのではないかと私は推測します。

しかし、母鳥はここが安全だと思う限り、再びここに巣をこしらえることでしょう。

母子3羽に幸いあれかし。

それにしてもお父さん鳩は一体どこへ行ったのでしょうか?

2017年4月22日 (土)

ますらおの  涙を袖にしぼりつつ

ある先生から教えていただいた事件ですが、あとでネットで検索して読みました。
 
ベトナム人民が警察官を軟禁した記事はベトナム侍たちの健在を示していて面白かった。
 
「ベトナムの首都ハノイ郊外の農村で、地元政府による土地収用の手法に反発した約1万人の村民が警備に当たっていた警官らを15日から監禁し、19日夜時点でも21人が解放されずにいる。村民は「政府と対立するつもりはない」として、土地利用の権利を訴えている。」(抜粋終わり)
 
「ベトナムの農民1万人、警官ら監禁 土地収用に反発」より。
ハノイ=鈴木暁子
2017年4月20日01時27分
http://www.asahi.com/articles/ASK4M74VLK4MUHBI02Y.html 
 
人民が警官を捕縛する様子を知り、私は明治初期の日本人民のことに思いを馳せました。
 
司法長官を捕縛した明治日本人民の行動が、私には身近な出来事に感じる理由がございます。
以下はそのことのご紹介になりますが、少年少女だった祖父母の駆け落ちからお話する必要があります。
少し長いですが、お付き合いいただければ幸いです。
 
まず「愛媛県のご先祖調べ ~家系図作成からルーツ調べ - 家族の樹」より祖父と祖母の出身に関わりのある部分を抜粋します。
http://www.kakeisi.com/survey/survey_ehime.html
 
『 周布郡には宇野氏のほか、新居郡の新居氏や桑村郡の得能氏が進出しています。
 桑村郡からは、得能氏・壬生川氏・桑原氏・黒川氏が出ています。
 
 越智郡は伊予国府あった中心地であり、越智氏発祥の地です。越智・河野氏の勢力が強い地域です。 今岡氏・拝志氏・高橋氏・桜井氏・山本氏・岡部氏・村上氏があります。
なかでも村上氏は海賊村上水軍として知られ、能島・来島・備後因島を拠点に活動し、能島
村上・来島村上・因島村上と呼ばれました。室町時代には河野水軍の配下となります。
中略。
 宇和郡には、京から公家西園寺氏が入り勢力を拡大させます。 配下の諸氏に南方氏・三善氏・熊崎氏・久枝氏・富永氏・鎌田氏・久良氏・白木氏・魚成氏・北之川氏・勝山氏・芝氏・法華津氏・土居氏がありました。 その他、南予の津島からは津島氏、が出ています。』(抜粋終わり)
 
関ケ原の戦いのあとで、家康にとって用済みになった村上水軍は陸にあげられたようです。
来島(くるしま)村上水軍は現在の大分県玖珠郡玖珠町に久留島(くるしま)藩領地をもらい受け、陸の大名になりました。
 
2代目藩主の正室が福島正則の娘(養女?)だそうで、藩主亡きあと出家し玄興院殿(げんこういんでん)を名乗り、玖珠町森に寺を造営し、そこに住まわれました。
そこは家主の名をとって、のちに曹洞宗禅寺玄興院と称されます。
当初から曹洞宗であったかどうかは存じません。密教から曹洞宗に変わったのかも知れません。
 
私は生まれて三歳まではたびたび母に負われてその寺の祖父を訪ね、祖父の膝の上で焼きおにぎりの香ばしい香りをかいだそうです。
 
東京・港区の芝の青松寺の墓地で、おそらく一番背の高い黒い色をした墓石が玄興院殿様のお墓ですが、玖珠町のお寺、玄興院にも分骨されたらしい墓があります。
伊予の「芝氏」と、港区の「芝」とに、不思議な縁をいま感じました。
 
やがて禅寺玄興院は廃寺となり無住のまま明治を迎えました。
伊予で生まれた私の祖父村上光大は少年僧侶のときに庄屋のお鶴お嬢さんと駆け落ちして海を渡り、旧久留島藩の玄興院に住まうことになりました。
破れ障子を修理し雨漏りを治し、廃寺を立て直したそうです。
 
15年ほど前に母を連れて越前の永平寺へ祖父の供養に参ったときに、「玄興院中興の祖」として5~6名のお坊さんが出て来られて母と私二人だけが座る永平寺のある部屋で祖父供養のための読経をあげていただきました。母は供養代を支払っていました。
中興の祖というのですから、それによれば玄興院は創設時から曹洞宗だった可能性が高いことでしょう。それはここではどうでもよいことでございます。
 
若き祖父の駆け落ちの相手は鶴(つる)と申し、宇和島の山奥の庄屋の分家の庄屋、芝家の長女だったと言います。
 
本家の芝家では昭和の末期に屋根裏から木簡が複数発見され、それには藤原道兼を祖とする旨の家系がかかれていたそうで、それを雑誌「歴史街道」の記事で見たことがあります。
 
一度祖母の実家(分家の芝家)を訪ねましたが、そこは坂本龍馬の脱藩道(土佐から宇和島)に面していて、街道筋にて庄屋として地域警備の仕事も兼務していたようです。
 
鶴お嬢様(私の祖母)がまだ幼いころ、深夜に家の板戸を叩くものがいたそうです。
 
「済まぬが握り飯を所望したい」とでも言ったことでしょう。
芝家の主人は家人に握りを作らせ茶を出してこれに応対したそうです。
 
その人物が去るに際し、お礼の手紙を書きたいので紙と硯を借りたいといいました。
 
達筆のお礼状はその後、なぜか大分県玖珠郡に渡った村上光大和尚の家内である鶴ばあさんが所持していました。
私の母の母です。
 
私は学生時代に虫食いになったその手紙を私の大分市の実家で母から見せられたことがあります。
祖母の鶴ばあさんがしばらくの間私の家に居候していたから、その手紙も私の家にあったようです。
その令状を書いた人物は、江藤新平でした。
 
宇和郡の山奥の芝家を出て、翌日確か隣県土佐で捕縛され、別の場所で斬首されたのではなかったか。
 
江藤新平-Wikipediaより抜粋します。
 
「中略。
江藤は征韓党を解散して逃亡し、3月1日に鹿児島鰻温泉の福村市左衛門方に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られた。
 
続いて3月25日、高知の林有造・片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くがいずれも容れられなかった。
 
このため、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる。
 
しかしその途上、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還される。
手配写真が出回っていたために速やかに捕らえられたものだが、この写真手配制度は江藤自身が明治5年(1872年)に確立したもので、皮肉にも制定者の江藤本人が被適用者第1号となった。
 
裁判とその最期[編集]
(写真は省略)
江藤新平の墓所、佐賀市の本行寺
 
4月8日、江藤は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下であった河野敏鎌の最初から死刑ありきの暗黒裁判ともいうべき不当な裁判によって裁かれることとなった。
4月13日に河野により除族の上、梟首の刑を申し渡され[3]、その日の夕方に嘉瀬刑場において処刑された。
 
判決を受けたとき「裁判長、私は」と言って反論しようとして立ち上がろうとしたが、それを止めようとした刑吏に縄を引かれ転んだため、この姿に対して「気が動転し腰を抜かした」と悪意ある解釈を受けた[4]。
その後、江藤の首は嘉瀬川から4km離れた千人塚で梟首された。
 
辞世は、
「ますらおの  涙を袖にしぼりつつ  迷う心はただ君がため」
 
明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布に伴う大赦令公布により賊名を解かれる。大正5年(1916年)4月11日、贈正四位。
墓所は佐賀県佐賀市の本行寺。墓碑銘は書家としても知られる副島種臣が手がけた。同市の神野公園には銅像もある。」(抜粋終わり)
 
このことと、鶴ばあさんの語りなどから推測しますと・・・、
「鹿児島鰻温泉の福村市左衛門方に湯治中の西郷隆盛に会った江藤新平は、薩摩士族の旗揚げを請うが断られたあと、おそらく陸路を宮崎を経由して佐賀関から四国八幡浜へ渡船で渡り、山道の街道を登り、鶴お嬢さんの住む芝家で深夜握り飯を食い、そのまま山道を土佐へ下って、翌日つまり、3月25日、高知の林有造・片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説いたと推測されます。
 
「明治6年(1873年)には朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変で西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に10月24日に下野。
明治7年(1874年)1月10日に愛国公党を結成し1月12日に民撰議院設立建白書に署名し帰郷を決意する。」
(江藤新平-Wikipedia)
 
そのすぐあとに江藤は指名手配を受けています。
 
すると、芝家のお鶴お嬢さんが2階の障子越しに階下の来客の話し声を聞いたのは明治7年(1874年)、3月25日か、その前の24日かになるものと思われます。
命がけの逃避行での高知訪問であることを合わせて考えますと、おそらくお鶴お嬢さんが江藤の声を聴いたのは明治7年(1874年)3月25日の深夜か早朝であろうと推測いたします。
 
ベトナムの人民に軟禁された警官も「ますらおの  涙を袖にしぼりつつ」孤独に耐えているのではないか・・・。
 
ニュースを見て、ふと、そう思った次第です。
 
取り急ぎ新聞記事の感想まで。
 
その江藤直筆の絶筆とも云える礼状は、虫食いが激しく修復にも耐えないことがわかり、祖母の死後に母が処分したそうです。
 
あのとき私が預かっておけば今頃は・・・。
 
習字用の和紙1~2枚書いていたので、ひょっとして単なる礼状ではなく、政府への意見書の部位がその中にあったとすれば、歴史的価値は高かったのではないかと思われます。
 
逃げた魚はいつも大きい・・・。
 
注)・・・。という表記法はザビエル書簡集のものを真似たものです。
 
ザビエルはフランスとスペインの間に挟まれていながら独立を目指すバスク人としての本音をローマカトリックに使える十字軍兵士として口にも文字にもできなかっただろう、そう私は拝察しております。
 
その声にもならない「思い」を彼は書簡の中で「・・・。」と、末尾に記すことで表現していました。私のは、その「猿真似」にほかなりません。

お年寄りをいたわりましょう!・・・は死語なのでしょうか?

今日、検査で半年ぶりにちかくのある総合病院へ行きました。

 

午前8時から地元の老人患者の外来受付でにぎわう姿は以前と同じです。

4カ月以上間があいてしまっている私は受付機械から診察カードを自動的にはじき出されてしまいました。

 

総合受付へおいで下さいとのアナウンスがありました。

やがて採血、採尿といつもの流れで内科待合室で医師に呼ばれるのを待っています。

 

10時半になりました・・・?

いつもと様子が明らかに違う。

 

患者数がおよそ半減しているのでした。

 

正午頃までいましたが、結局患者数は半年以前の賑わいを見せてくれませんでした。

 

「祭りのような賑わいの内科外来」が、閑散とした待合室へと様変わりしていました。

 

あの元気だった病気持ちの患者さんたちは、一体どこにいったのでしょうか。

 

暇だから病院へでも行くか、としていたのが、あそこは高いからやはり公園のゲートボールにしようと変えたのではないか?

 

そう感じたので調べてみました。

老人患者には住みにくい時代になったということのようです。

 

下記の東洋経済オンライン記事を読んで、外来数激減の理由がわかった次第です。

 

老人を家族に持つかもしれない若い人たちにも関係の出て来る話題ですので一度暇なときに御読みください。

 

老人患者は必読です。

 

「高齢者の「医療費負担」は来年度から重くなる

長生きが「コスト」になる時代がやってきた」

http://toyokeizai.net/articles/-/158321

 

花輪 陽子 :ファイナンシャルプランナー 

20170216

 

姥捨て山をテーマにした映画は「長山節考」でしたっけ。

違いました。

「ならやまぶしこう」でした。

 

『『楢山節考』(ならやまぶしこう)は、深沢七郎の短編小説。

 

民間伝承の棄老伝説を題材とした作品で、当代の有力作家や辛口批評家たちに衝撃を与え、絶賛された、当時42歳の深沢の処女作である[1]。

 

山深い貧しい部落の因習に従い、年老いた母を背板に乗せて真冬の楢山へ捨てにゆく物語。

 

自ら進んで「楢山まいり」の日を早める母と、優しい孝行息子との間の無言の情愛が、厳しく悲惨な行為と相まって描かれ、独特な強さのある世界を醸し出している。』(wikipediaより抜粋)

 

そこまではいかないでしょうけれど、そのサワリに首を突っ込んだ現代社会という様相です。

 

政策の無駄を省かずにいたずらに欧米の物まね政治をしてきたからこその「今」がここにあります。中国から伝来した昔の日本のよさ、「お年寄りを大切にする」暮らしを取り戻すべき時でしょう。

2017年4月21日 (金)

親鳥がいない!

2017年4月15日 (土)付けで「マンションの庭に山鳩のヒナ誕生!」の記事を紹介しました。
http://harukateinen.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-f7d6.html
 
しかし、ここ数日親鳥の姿を見ません。
 
ひょっとしてカラスかトンビあるいはネコか狸、或いは蛇にヒナを食べられてしまい、親鳥は巣を離れてしまったのかも知れません。
 
私は中学時代に自宅で鳩を10羽くらい飼っていました。
蛇やイタチにヒナをさらわれたことも経験しています。
 
都会から遠く離れているので、天敵がいたのかもしれない。
そう心配しながら今朝鳩の巣をよく眺めてみました。
 
!!いました!
 
ヒナが二匹も。しかも体は親鳥に近いくらい大きくなっています。
 
ヒナの産毛も抜けて、親鳥と同じ薄茶色の羽が成長しつつあります。
一般の人には巣の中に鳩のヒナがいるとは見分けにくいことでしょう。
羽の色と巣の色が柄として一体化しているのです。
 
しかし、2羽の目だけはしっかりと私を凝視していました。
体はピクリとも動かしていません。
 
一体親鳥はどういう方法でヒナたちに危険回避の方策を伝授したのでしょうか?
不思議なことです。
 
私が自宅に鳩を飼っていたころは、小屋の中でヒナを育てていましたので、人がいても走り回っていました。
 
自然のヒナだとこういう風に警戒心旺盛でなければ天敵に襲われて命を無くしてしまうのでしょう。
賢いものだと感心致しました。
 
写真の上は4月15日の撮影(親鳥の胸の下にわずかにヒナの頭がのぞいていました。
下は今日の昼過ぎの撮影です。巣の中に大きなヒナが2羽並んで座っています。
親鳥の入る場所はありません。

Big  

20170421b ヒナは2羽とも頭を右にして、目だけは私を見ています。

おそらく餌を運んで食べさせてはすぐに親鳥は遠くへと飛び去るのでしょう。
成長盛りのヒナ2羽にしっかり餌を運ぶ仕事に専念していることでしょう。
飼っている鳩ではないので、食料調達の是非がヒナの生死を分けるはずです。
 
がんばれお母さん鳩!・・・ところでお父さん鳩は姿を見ませんが、シングルマザーなのでしょうか?
戸籍制度は鳩にはないことでしょうけど。

2017年4月17日 (月)

高幡不動尊参拝 4月15日午前8時頃

4月15日の早朝、ららぽーと立川へ行く途中に高幡不動尊に参詣しました。

鎌倉時代から有名な丈六不動三尊像に向かい、娘たちの幸福と私たち家族の健康と安寧を祈りました。

このサイトに丈六不動明王の写真もあります。

「高幡山明王院金剛寺(高幡不動尊) - 日野市観光協会

http://shinsenhino.com/archives/spot/temple/050322015000.php

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交通安全祈祷所傍の棕櫚の姿に思わず足を止めました。

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見事な棕櫚、祈りの場です。棕櫚の向こうに五重塔の金色の尖塔が輝きます。

どちらも祈りの象徴です。

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高幡不動尊の由来です。ご利益があります。

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五重塔を南から撮影。

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東から撮影。朝日に金色が輝きます。

2017年4月15日 (土)

マンションの庭に山鳩のヒナ誕生!

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2017年4月15日昼すぎのこと、マンションの庭先に鳩の巣を見つけました。

西洋石楠花(しゃくなげ)なのでしょうか、町中なのにしゃくなげが満開です。

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金網の目に近づいて巣の中をのぞく。

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同上拡大 巣の中には母鳥の胸の下にヒナの頭が少し見えていました。

オメデト。

製造中止でそろそろ消えつつある貴重なガラケー種 N-01Gのカメラで撮影しました。

2017年4月10日 (月)

夜桜

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我が家の傍の歩道の夜桜

あまりにきれいなのでついガラケーで夜撮影しました。

まあまあ写っていました。古木を残してくれた先人の思いに感謝いたします。

2017年4月 8日 (土)

このサイトを閉じた理由が知りたい!!!

川崎市 環境放射線量モニタリングシステム
http://www.atmp-kawasaki.jp/
http://www.city.kawasaki.jp/kurashi/category/29-1-4-10-0-0-0-0-0-0.html
 
このサイトに下記の表示はありますが、これまでのような使い勝手のよい時系列データではないのが残念です。
 
「(川崎)市内における環境放射能調査
 川崎市環境総合研究所(旧:公害研究所)では、市内の研究用原子炉施設からの影響を調べるため、昭和36年から環境放射能調査を実施しています。調査結果については、次を御参照ください。
  川崎市における環境放射能調査報告書のページ
 
 また、神奈川県では、原子力関連施設周辺に放射線測定設備(モニタリングポスト)を設置し、常時監視を行っています。
 川崎市内には5か所の測定地点があります。
  神奈川県環境放射能モニタリングシステム外部サイトへリンクします(神奈川県のページ)」
福島での地震などによる放射能の散乱と関東地域への飛散を検知できていたので残念です。不都合な事実でもあったのでしょうか。

2017年4月 6日 (木)

みはらしの丘・みたまの湯 市川三郷町(山梨)

11 かつてこの国へやってきたおそらく傭兵だったテュルク系騎馬民族(トルコ系)集団も、このようにして丘の上から農耕集団を見下ろしていたのではないか・・・、と、ふと思うほど雄大な景色でした。

上は湯船から見えるはずの光景、中央部に八ヶ岳(ガラケーカメラではよく写っていません)

湯船の中からは、右手の方には茅が岳、金峰山(奥秩父)などが見えました。

正面に八ケ岳を見ながらのパノラマ露天風呂。・・・景色では山梨一かも知れません。
下記サイトに湯船からのパノラマが掲載されています。
http://www.mitamanoyu.jp/spa
 
湯質は我が家最寄のくりひら温泉や稲城の温泉と同じような黒褐色の湯でした。
 
「くりひら湯快爽快」
http://www.yukaisoukai.com/kur/
 
私はそれを関東ローム層特有の色だと思っていますが、果たしてどうか?
ここもちゃんとした温泉ですが、神奈川県にある我が家の周囲にも沢山ある湯質と似通っています。
 
韮崎の温泉や甲府の要害温泉、山梨のほったらかし温泉、塩山のとある公衆風呂など5~6か所この地方の湯には浸かっていますが、山梨で初めて出会った黒い湯(やや薄い赤茶けた色)でした。
 
湯船には客が10名ほどいたのであいにく写真は撮影できませんでした。
 
下記サイトには周辺の山々の解説がきれいな写真とともに掲載されています。
 
みたまの湯(みたまのゆ)
http://fujisan.world.coocan.jp/nagame/archives/2011/11/post-198.html
 
「御坂山地の末端にある台地上の、大変見晴らしがいい温泉施設です」などと、みたまの湯周辺の山を詳しく解説しています。
 
「いつもの風景や出かけたときにあの山はどこだろうと思ったことはありませんか。」と始まるブログなので山に詳しい方なのでしょう。
 
この方は湯には入らずに景色だけを撮影に来たとのことです。
 
以下にこの湯に至るまでの私の撮影した関連写真を掲載します。

1 1 笛吹川沿いの笛吹ラインを走る

2 2 この坂を上る

3 3 山梨県西八代運市川三郷 ブドウ畑が広がる

5 5 駐車場は広い

6 6 南アルプス方面

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8 8 みたまの湯

85 8b 甲斐上野駅からバスで5分

9 9 いで湯の賑ひにけり

午前11時30分頃に私は退場しました。

 
靴箱へ向かおうとしたとき、高齢者ばかりの団体客がバス1台分わーっと到来するのに出くわしました。なかなか靴箱へたどり着けずに、高齢者の嵐が止むのをちょっとだけ高齢者の私も待つしかありませんでした。
 
「御霊(みたま)に幸いあれ・・・。」の「みたま」か、とそのときは感じました。
 
外に出て写真を撮影していたときに、三珠庁舎というバス停が時刻表に書いてありましたので、正しくは「三珠」を「みたま」と読むものと思われました。
 
私は湯質にこだわりがありますので、リピートはしないだろうと思いました。
 
しかし、長い人生の中で、ふと一人で静かに考えたいというとき、この露天風呂の景色の中にいることだろうと思いました。
 
それほどに魅力のある景色を抱える黒い湯の露天でした。

2017年4月 4日 (火)

「ゴータマ」は釈迦の名

「ゴータマ」は釈迦の名でしたね。
真に我執を忘れ切ったのは、この世に釈迦一人・・・。
そうかも知れませんですね。
釈迦国の王子だった頃は普通に贅沢な生活をしていたのではないかと思われます。
しかし、王子時代の後半は我執に苦しんだのではないでしょうか。
 
釈迦-wikipediaを読み、その生誕を確認しました。抜粋します。

「釈迦の父であるガウタマ氏のシュッドーダナは、コーサラ国の属国であるシャーキャのラージャで、母は隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘マーヤーである。
2人の間に生まれた釈迦はシッダールタと名付けられた。
母のマーヤーは、出産のための里帰りの旅行中にルンビニで釈迦を生み、産褥熱でその7日後に死んだ。[8]
中略。
 
シャーキャの都カピラヴァストゥにて、釈迦はマーヤーの妹プラジャーパティーによって育てられた。
当時は姉妹婚の風習があった[9]ことから、プラジャーパティーもシュッドーダナの妻だった可能性がある。
 
釈迦はシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育った。
16歳で母方の従妹のヤショーダラーと結婚し、一子、ラーフラ をもうけた。以下略。」(抜粋終わ
り)

釈迦の叔母さんが継母になったのですが、その継母の強い要請をさんざん受けていたので、釈迦は彼女の希望を入れて尼僧教団を設立しました。
 
世界で初の、おそらく起源前4~5世紀のインドの尼さん誕生でした。
それほどまでに尊敬していた継母だったのか、あるいはあまりにしつこくうるさかったので設立を渋々認めたのか、私は知りません。
 
当初は釈迦は尼僧を認めなかったようなので、後者のように思われます。
 
認めた理由はどうであれ、信仰の男女同権を紀元前に認めた釈迦はその点でも偉いと思います。

2017年4月 2日 (日)

二八蕎麦(にはちそば)のこと

まだ私は我執にまみれております。

 

「ある蕎麦屋」で私の気に入った標語をもう一度行って確認してきました。

 

「夢中で仕事をしているときは自分を忘れる

自分を忘れているときの自分が本当の自分である。」

 

「自分を忘れる」という下りに我執にとらわれない気持ち、座禅一筋に専念する道元の姿を想起した次第です。

 

私もいまのアルバイトを一心に取り組むべきだなあ、などと思いながら二八(にはち)蕎麦をすすりました。

 

大都会の真ん中で、大盛せいろで650円でした。

これだけで昼のお腹は十分膨らみました。

 

ありがたいお店です。六本木交差点の近くの2階にあります。銀だこの手前です。

 

地味な蕎麦屋です。

 

名は、「真希 六本木1号店(シンキ ロッポンギイチゴウテン)」です。阿佐ヶ谷の店が発祥のように見えます。

都内に何か所かある庶民的な和食屋さんです。

店の名は、つい「マキ」と読みそうになりますが、「シンキ」と読ませるところも特異です。

http://www.shinki-soba.com/shop/roppongi1.html

 

墨書のうんちくは他にも5つくらいは額に入って店のあちこちに掛かっているようです。

しかし、私には上の標語しか目に入りませんでした。

 

なお、『「二八そば」語源の謎について』も学習しましたので、参考までにアドレスを記載いたします。

私が好きになった庶民の蕎麦です。

http://www.eonet.ne.jp/~sobakiri/11-4.html

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