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2017年1月30日 (月)

江戸の長州藩

Toukyo_midtown

航空写真 東京ミッドタウン(江戸時代は長州藩中屋敷と下屋敷跡)
 
「東京の中心に残された
10ヘクタールもの土地をどう活かすか。
 
私たちは、 東京ミッドタウンという都市のあり方を通して、 地域に、日本に、ひいては世界に貢献したいと考えました。
新しいビジョンを持つ人、新しい価値を生み出す人々が集うところ。
世界中のあらゆる才能、センス、文化が集まり、刺激しあいながら「新しい何か」をつくりだしていくところ。
私たちはそんな「場」の力をもたらす、広大な緑の空間を創りました。
以下略。」
航空写真および文とも、「東京ミッドタウン 街づくりへの想い」より抜粋。
http://www.tokyo-midtown.com/jp/about/omoi/
 
拙著ブログ「公衆風呂の発見者 黄檗宗の僧 向嶽寺」(2016年12月 6日 (火))において、かつて、こう書きました。
 
「ひょうたんの括れに橋」
(私は意味もなく三位一体をこの場所で感じました)
http://harukateinen.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-7b57.html
 
ひょうたん池と三位一体を論ずる記事は見当たりません。
私が現場に立ったとき、「ふとそう感じた」というだけのことです。
 
ザビエルが最初の布教を始めたのは長州藩の山口でした。
いまも山口市にザビエル教会があります。
 
長崎平戸にもザビエル教会がありますが、いずれもザビエル教会としては日本で最初の頃の創建でしょう。
 
その長州藩と縁故の深い江戸屋敷が六本木に二つあります。
長州藩下屋敷と長府藩下屋敷です。
上屋敷(かみやしき)には大名が住み、中屋敷や下屋敷に家臣団が住んでいたようです。
 
先ずは「長州藩邸(長州藩下屋敷)跡」より抜粋します。
http://japanserve.com/spt-edo-032-choshu.html
 
「東京都港区赤坂9丁目
現在、東京ミッドタウン(六本木)のビル群がそびえ立つ長州藩下屋敷跡。屋敷の面積は3万3,300坪に及んだ。
 
敷地には檜(ひのき)の大木が建ち並んでいたことから「檜屋敷」とも呼ばれていた。
現在、当時の庭園の一部が檜町公園となっている(長州藩中屋敷も同じ敷地内にあった)。
 
この下屋敷麻布藩邸は、政治的には桜田藩邸(上屋敷)の補助的な機能を果たし、また上京中の藩主の別邸、藩士たちの寄宿所にもなった。」(抜粋終わり)
 
藩主の毛利氏は桜田藩邸に住んでいたのです。
 
山口県の長州藩にて、吉田松陰は11歳のとき、毛利藩主に兵法の講義をしていますので、藩主にとっては松陰はかわいい天才少年なのでした。
例えば、
「1840年、11歳の時には藩主・毛利敬親(もうり たかちか)へ「武教全書」という戦法を講義すると、「松本村に天才あり」と吉田大二郎(吉田松陰)の名は萩城下に知れ渡った。」(「3分でわかる吉田松陰の偉大さ - 幕末維新」より抜粋)http://www.jpreki.com/yoshida-syouin/
 
それを罪人として斬首したのは大老井伊直弼(いいなおすけ)でした。
井伊直弼は雪の日に、江戸城の桜田門外(さくらだもんんがい)で殺害されています。
 
なぜ桜田門の外(そと)なのか、ずっと私にとってそれは不明でした。
しかし、門内に入ってからでは警備が強化されるので井伊を殺害しにくいのと、門外であるからこそ、毛利藩主の眼前で殺害するというドラマチックな惨劇となったのでしょう。
 
だから、桜田門外だったのか・・・と。
私なりの得心です。
 
つまり、少なくとも徳川家康が幕府支配を始めるころ、江戸の長州藩屋敷にはザビエルが育てた藩士が多数いた可能性があると考えて間違いないでしょう。
 
いまロードショーに入っている映画「沈黙」(原作 遠藤周作)のように、江戸幕府による厳しい切支丹禁制によりそれは徐々に減少し、やがて潜伏化していった可能性は高いと思われます。
 
潜伏していったと仮定すれば、それらの歴史的な足跡も潜伏してしまい、後世の私たちは文字や図絵としてその事実を知ることも難しくなってしまうことでしょう。
 
・・・3万3千坪の屋敷とはどれほどのものか想像がつきません。
 
東京ドームの建築面積は46,755m2ですので、3.3 m2/坪で割りますと、約 14,168 坪となります。
 
つまり、吉田松陰や高杉晋作らが江戸で集会をした長州藩下屋敷と中屋敷の敷地は、東京ドーム2個分より少し大きいものでした。
 
私も含めて、今の日本人の気質が彼らに比べて「小さい」理由がわかったような気がします。
 

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六本木ヒルズ展望台(52階)から東京ミッドタウンを眺める。(筆者撮影)
(長府藩下屋敷から長州藩中屋敷、下屋敷を眺める)
 
さて、次は長府藩下屋敷です。
長州藩の支藩で、毛利元就の孫を発祥とする長府藩毛利家下屋敷です。
 
「江戸時代に、麻布日ケ窪町(現在の六本木六丁目)に長府毛利家(長州藩支藩の長門府中藩)の屋敷がおかれた。
 
長門府中藩(長府藩とも。現山口県下関市の一部)出身の乃木希典もこの地で生まれている。」(六本木ヒルズ-wikipedia)

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クリスマス前のハートマークと毛利庭園(ひょうたん池だ!)

今では六本木ヒルズ、テレビ朝日、毛利庭園などで人気スポットになっていますが、NHKドラマ「忠臣蔵の恋」で討ち入り成功の番組を見たあと、毛利庭園を訪ねました。
 
ここに赤穂浪士10名がお預けになり、そしてやがて切腹となりました。
 
庭園の中心は池でした。
よく見ると、ひょうたん池でした。
 
冒頭で述べました通り、山梨の塩山の塩を塗り込んでいる塩塀のある黄檗宗の向獄寺でみた三位一体を想起させてくれた池も、やはりひょうたん池でした。
 
池が括(くび)れを持っていることに気づくと、そのことがすぐに私の脳裏に浮かんできたのでした。
 
塩の寺、赤穂の塩・・・。

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ひょうたん池(毛利庭園)

2017011413380001s

池の奥まったところに案内板があります。行ってみましょう。
光が反射して見えません。傍まで近づいてみます。

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東京都指定史跡 「毛利甲斐守邸跡(もうりかいのかみていあと)」
上の画像を左クリックして拡大したあと、右クリックしてコピーして、ペイントツールなどの画像編集ソフトで2倍に拡大すれば文字が読めると思います。
 
「毛利綱元が長府藩主であった元禄15年(1702年)、赤穂事件が起こり、吉良義央邸に討ち入った赤穂浪士の岡嶋八十右衛門ら10人がお預けになり、幕府の沙汰を待った。
元禄16年(1703年)2月4日同屋敷で切腹した。」(毛利甲斐守邸跡-wikipedia)
 
「元禄十六年(一七〇三)二月四日、幕府の裁きにより十人は、使番斉藤次左衛門利常(千七百石)、目付鈴木次郎左衛門福一(五百石)の立会いのもとに、この屋敷で武士の本懐を遂げた。
この時、本藩である長州(萩)藩からも藩士が派遣されており、長府毛利家は、本来の保護を受ける立場であり、義士預りに慎重を期したことが伺える。(駒札より)
 
預けられた赤穂浪士10名
1.岡嶋八十右衛門(常樹)
2.吉田沢右衛門(兼貞)
3.武林唯七(隆重)
4.倉橋伝助(武幸)
5.村松喜兵衛(秀直)
6.杉野十平次(次房)
7.勝田新左衛門(武尭)
8.前原伊助(宗房)
9.小野寺幸右衛門(秀富)
10.間新六(光風)」
(「忠臣蔵ゆかりの地(9)毛利甲斐守邸跡」より抜粋)
 http://shizuka0329.blog98.fc2.com/blog-entry-1152.html?sp
 
あのドラマ忠臣蔵の恋で、武井咲(えみ)さんの恋人役の礒貝十郎左衛門(25歳)のお預け先はここではありませんでした。
それは、都営高輪アパート内にある肥後熊本藩江戸下屋敷でした。
 
磯貝さんは、家老の大石内蔵助とともに切腹をしていますので、もっとも名誉ある最後の儀式の場を得たと言えましょう。
 
家老の大石内蔵助や磯貝など17名の武士たちの、「晴れの舞台」は以下の通りでした。
 
「切腹命令書
八ツ刻(午後二時頃)上使荒木・久永が到着し切腹を申し渡す。
内容は「浅野内匠儀、勅使御馳走之御用被仰付置、其上時節柄殿中を不憚不届之仕形ニ付御仕置被仰付、吉良上野儀無御構被差置候処、主人あたを報候と申立、内匠家来四十六人致徒党、上野宅江押込、道具抔持参、上野を討候儀始末公儀を不恐候段重々不届候、依之切腹申付者也未二月四日」
四家とも大体同じでした。
切腹 時間は一人六分
 
十七人の居間には生け花が飾られ最後の料理と風呂もたてられ、浅黄無垢の麻裃、黒羽二重の小袖などが渡された。十七人の切腹は午後四時にはじまり午後六時頃に終わる。首実検は最初の二人だけであとは省略され、1時間50分で終えており、所要時間は1人5、6分で四家とも申し合わせたように共通している。
 
細川家(17名) 数字は切腹順 括弧内介錯人
 
上の間 九名
01 大石内蔵助 45歳 (馬場一平) 06 小野寺十内 61歳 (横井儀左衛門)
02 吉田忠左衛門 64歳 (富森清太夫) 07 間喜兵衛 69歳 (栗屋平右衛門)
03 原惣右衛門 56歳 (増田定右衛門) 09 掘部弥兵衛77歳 (米良市右衛門)
04 片岡源五右衛門 37歳 (二宮新右衛門) 12 早水藤左衛門 42歳(魚住藤右衛門)
05 間瀬久太夫 63歳 (本庄喜助) *
 
下の間 八名
08 礒貝十郎左衛門 25歳 (吉富五左衛門) 14 赤埴源蔵 35歳 (中村角太夫)
10 富森助右衛門 34歳 (氏家平七) 15 奥田孫太夫 57歳 (藤沢長右衛門)
11 潮田又之丞 35歳 (一宮源四郎) 16 矢田五郎右衛門 29歳 (竹田平太夫)
13 近松勘六 34歳 (横山作之丞) 17 大石瀬左衛門 27歳 (吉田孫四郎)
 
葬送の様子
切腹後死骸は桶に入れ、一人ずつ乗り物に乗せて、籠提灯一対、小姓一人、足軽二人ずつを配し、前後を騎馬で固めて泉岳寺へ送られた。
また別に十数人を泉岳寺に遣わし待ち受けさせた。」
(元禄赤穂事件の詳細その5」より)
http://www.ab.auone-net.jp/~tadeho48/akogisi/ninjoujiken/seppuku.html
 
また、内蔵助の長男である大石主税良金ら十士が切腹したところは、現在のイタリア大使館の場所でした。これで17人+10人+10人で47人となります。
 
イタリア大使館とは、ザビエルと赤穂浪士の繋がりをうっすらと感じることができるような巡り合わせです。
ザビエルはイタリアのローマにて、十字軍としての使命を帯びて極東へ派遣されることが決まったのですから・・・。
 
「元禄16年2月4日(1703年3月20日)、熊本藩細川家の下屋敷において赤穂浪士の大石良雄(大石内蔵助)ほか16人が切腹した。
 
三田の伊予松山藩屋敷跡(現:イタリア大使館)には大石主税良金ら十士切腹の地がある。大石父子の切腹は、ほぼ同時刻であったといわれている。」(大石良雄外十六人忠烈の跡-wikipedia)
 

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イタリア大使館正門の楓(かえで)
(2015年の晩秋、小生が解約したauケータイで撮影したものです。解約してもカメラは使えます。)
 
イタリア大使館正門左手には大きな楓の木があります。
この楓の木の下を通って、左手奥の道路を向こう側へ200mほど歩きますと、慶応大学三田キャンパスに着きます。
 
大石内蔵助の嫡男主税(ちから)が切腹した三田の伊予松山藩屋敷跡とは、江戸時代の当時で言えば、おそらくイタリア大使館と慶応大学三田キャンパスを包含した広大な敷地だったことでしょう。
 
だって、長州藩下屋敷で東京ドーム2個分とちょっとくらいだったのですから・・・。
 
イタリア大使館敷地内には見事な棕櫚の木の並木が道路からも見えますが、それが伊予松山藩屋敷の江戸時代からあったかどうかはわかりません。
 
もし江戸時代に既に棕櫚の木がそびえていたとしたら、さぞかし主税も嬉しかったことでしょう。なんとなくそう感じます・・・。
 
イタリア大使館の楓で思い出したのですが、東京は世田谷の松陰神社横の墓所にある吉田松陰の墓の左手にもとても大きな楓の木があります。
 
吉田松陰の愛(まな)弟子である高杉晋作は下関の吉田へ埋葬されましたが、そこは秋には紅葉に埋もれるほどの紅葉谷(もみじだに)という名所です。
 
晋作は遺言していなかったようですが、仲間たちが妾の宇野(うの、おうのさん)を無理やり?尼になってもらって、もみじ谷に作った庵で晋作の菩提を弔わせたようです。
そして、功山寺決起の前夜、晋作が天国の松陰に向かって「国家のための革命に立ち上がる」ことを誓った漢詩が山口市湯田温泉の宿の玄関先にあった『楓の幹』に小刀で刻まれていたことが大正時代になってようやく明らかになっています。
 
その幹は今でもその旅館の玄関入って右手の資料館で展示されています。
 
その旅館の名は、湯田温泉の松田屋ホテルです。
(維新の志士ゆかりの旅館)
http://www.matsudayahotel.co.jp/
 
長州藩、ひょうたん池、赤穂浪士、楓とつながってきたようです。
 
全体をザビエルが細い糸で結んでいるかのようです。
私にはそう見えます・・・。
 
ちなみに、赤穂藩上屋敷跡はいまの聖路加看護大あたりになります。
浅野内匠頭の正室浅野阿久里(あぐり)は、そこで刃傷事件の第一報を聞いたことになります。
 
アグリカルチャー(農業)という意味の西洋風の名前を持つ正室は、広島浅野藩の支藩、今はワインやチーズの生産地である浅野三次(みよし)藩の娘でした。
正確に言えば、初代備後国三次藩主の浅野長治の三女で、栗姫、阿久里です。(瑤泉院-wikipediaより)
 
東海道(550㎞)や奥州街道(730㎞)をこの老いた2本の脛(すね)で通して歩いた私の感想によりますれば、ザビエルはおそらく中国山地の真ん中にある三次地区へも歩いてやってきただろうと思います。
 

参考までに面白い考察例として「赤穂浪士預け入れ大名邸考」を挙げておきます。 

http://deepazabu.blogspot.jp/2015/01/blog-post.html

 

この記事では、赤穂浪士を預けた大名屋敷が妙に上杉家を囲んでいることを指摘しています。地図でおのおのの距離感を示してくれています。

御預け先の配置には、幕府の上杉家断絶への仕掛けを想像させるとの指摘がありました。

http://deepazabu.blogspot.jp/2015/01/blog-post.html

上杉家家臣団は幕府の挑発に乗らずに隠忍し続け、お家存続しました。

 

一方、吉良家は上野介(義央(よしひさ))の息子(上杉家藩主、上杉綱憲(うえすぎ つなのり)は隠居後に死去、享年42歳)、その孫(吉良家養子)も病死、享年21歳)し、吉良家は断絶となりました。

 

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