« 2016年11月 | トップページ | 2017年1月 »

2016年12月

2016年12月31日 (土)

大晦日の放射能 川崎市や茨城、栃木、福島、宮城、それに山口県萩市

安定しているようですが、来年も安定するように祈ります。
ここでは、1マイクログレイ=1マイクロシーベルトとして換算しています。
あるいは1nGy/h=1000×1μSv/h として換算しています。

Photo_2

縦軸の数値の単位はμGyなので、その1000倍がnGyに相当します。今日は38nGy/hです。

図1 川崎市 麻生区

20161231_5

図2 茨城県 だいたい30~50nGy/hです。ひたちなか市で67nGy/hです。

20161231_6

図3 栃木県 日光が高いので掲載しました。84nGy/hで安定しているようです。高度が高いから濃度も高いのでしょうか。

20161231_7

図4 福島県 南相馬が高いので掲載しました。はらまちフラワーらんど618nGy/h,大畑集落480nGy/hがかなり気になりました。
雨の日は水に放射能が濃縮され、濃くなって地上へと降ってきますので、雨の日はなるべく屋内で遊びましょう。

20161231_8

図5 宮城県 丸森町の80nGy/hが気になりました。ここも高度が高いのでしょうか。
 

Photo_4

図6 山口県萩市総合庁舎で70nGy/h。日本海に面した海沿いですが、海洋からの放射能持ち込みでしょうか。萩市は吉田松陰や高杉晋作が生まれ育った町で、長州毛利藩の萩城所在地です。
 
高杉晋作が夜間に小舟で大きな幕府軍艦のどてっぱらに大砲を打ち込んで負かしたというのは周防大島町ですが、農林総合技術センター柑きつ振興センターは海辺の斜面でしょうか58nGy/hでした。こちらは北の日本海に面した萩市とは反対側の南の瀬戸内海側です。
 
のちの外務卿、井上聞多(もんた)(馨)が湯田温泉でめった斬りされて瀕死の重傷を負ったのは山口市ですが、その県環境保健センター大歳庁舎は、内陸部で海よりは小高い丘の上にあります。92nGy/hと県内ではもっとも高い数値です。50針縫ってもらって生還した話は最下段に抜粋しておきます。興味のある方はご覧ください。
 
山口県は、福島からの距離よりも、北朝鮮の方が近い町です。
北朝鮮から「何か」漏れていませんでしょうか?
 
皆さん、それぞれにご注意ください。
 
なお、データは各県のモニタリングポストをgoogle検索して引用しました。
および、「東日本大震災関連情報 放射線モニタリング測定結果等  原子力規制委員会」より引用しました。こちらが全国各地を知りたい場合は使いやすいかも知れません。
http://radioactivity.nsr.go.jp/map/ja/
 
「[PDF]資料:被ばく線量と放射線が人体に与える影響」
http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwij2dyOj57RAhXGvLwKHWKvBdMQFggbMAA&url=http%3A%2F%2Fcnmt.umin.jp%2Fpublic%2Fearthquake%2Fbio_effect.pdf&usg=AFQjCNFdV_oZdAYQGl9zIGTJoB4IR9n1pA
が、わかりやすいように思いました。
 
例えば下記のような注釈があり参考になりました。
 
「例えば、
X線やγ(ガンマ)線の場合は1Gy=1Svですが、α(アルファ)線と呼ばれる放射線の場合は1Gy=20Svです。
とりあえず、この後のスライドでのGyをSvと置き換えて考えて差し支えありません。
その考え方は、より安全側の考え方ということになります。」
-----------------------------------------------------------
明治革命メモ
 
「第一次長州征伐では武備恭順を主張したために9月25日に俗論党(椋梨藤太を参照)に襲われ(袖解橋の変)、瀕死の重傷を負った。
 
ただ、芸妓の中西君尾から貰った鏡を懐にしまっていた為、急所を守ることが出来、美濃の浪人で医師の所郁太郎の手術を受けて一命を取り留めた。
 
この時あまりの重傷に聞多は兄・光遠に介錯を頼んだが、母親が血だらけの聞多をかき抱き兄に対して介錯を思いとどまらせた。
この時のエピソードは後に第五期国定国語教科書に「母の力」と題して紹介されている。
 
また、寝込んでいた時に伊藤(利助、博文)が見舞いに訪れ、危険だから早く離れろと忠告しても伊藤がなかなか承諾しなかったエピソードも後に伊藤が語っている[2]。」(「井上馨」-wikipedia)
 
井上を救った長州の医師の話です。昔私が中山道を歩いているとき、ふとこの人の銅像に街道で出会いました。
美濃国赤坂の醸造家・矢橋亦一の子として岐阜県で生まれていたのでした。
 
「元治元年(1864年)、長州藩領の吉敷郡に開業し、同年9月には刺客に襲われて瀕死の重傷を負った井上聞多(後の井上馨)の治療にあたり、井上の一命を救うのに成功している[1][2][3]。
 
この時、郁太郎は手術道具を持っていなかったが、たまたま数日前から屋敷に出入りしていた畳職人の畳針を借りて傷口の縫合を行い、これによって井上は一命を取り留めた。
 
郁太郎が井上の屋敷に着いた時には、すでに長野昌英、日野宗春という2人の医者がいたが、重傷で手を付けられず、郁太郎が両医師の補助を受けつつ約50針に及ぶ縫合を行った[3]。」(所郁太郎-wikipedia)
 
畳針で50針ですって・・・。先日、静脈注射用の針で採血されて痛かったのですが、畳針なんて・・・。
 
よいお年をお迎えください。

放射線基礎知識・・・なかなか理解できていないのですが。単位について。

「■Bq(ベクレル)
  放射性物質の量がどれくらいあるかを表します。
放射性物質が放射線を出す能力をいい、1ベクレルは1秒間に1回の壊変をいいます。
(kBq、MBq、GBq)
■Gy(グレイ)
  吸収されたエネルギーで放射線の量を表します。
吸収線量の単位で、放射線および物質の種類に関係なく、照射物質の単位質量当たり、放射線から与えられたエネルギー量をいい、1グレイは1kg当たり1J(ジュール)与えることを表します。
(μGy、mGy、cGy、Gy)
■Sv(シーベルト)
  人体にどの程度影響を与えるかで放射線の量を表します。
等価線量の単位で、放射線の種類やエネルギーにより人体組織にたいする影響が異なることを考慮した、放射線防護に用いられる線量です。
実効線量の単位としても使われ、各組織・臓器の線量(等価線量)に基づき算定する線量で、個人線量管理ではその人が受ける総合的な影響の度合いを表します。
(μSv、mSv、Sv)」
(「医療の中の放射線基礎知識」より抜粋)
http://www.khp.kitasato-u.ac.jp/hoshasen/iryo/
 
測定例と単位の換算について

Photo_3

※放射線量は1時間値   
※単位:μGy/h(マイクログレイ/時間)   
※緊急時は、1マイクログレイ=1マイクロシーベルトとして換算します。   
※測定データは毎正時に自動更新されます。   
※公害研究所のモニタリングポストは、2013年1月16日に殿町の環境総合研究所に移設しました。   

   
グレイとシーベルト単位について   
http://www.exbur.com/jisin/page007.html   
   
100 nGy/h (ナノグレー/時)で10時間滞在すると何ミリシーベルト被曝するか   
---------------------------   
100 nGy = 100 × 0.8 nSv/h = 80 nSv/h   
(100nGy=100nSvとする場合はそのままの数値でよい)   
(「川崎市 環境放射線量モニタリングシステム」より抜粋しました。)
http://www.atmp-kawasaki.jp/

心臓カテーテル治療を考える人は知っておく必要があるのでは?

[PDF]放射線と被ばく - 日本心臓核医学会
www.jsnc.org/sites/default/files/paper/49-1/jsnc-49-08.pdf
医療用の放射能による副作用と思われる写真が掲載されていました。
大変驚きました。
最近は気軽にカテーテル治療が行われていると医者からはよく聞きますが、このような事例については耳に入ってきません。
チェルノブイリ事故のあとで心臓病が増加したことをNHKBSの特集で見ましたが、対策として先進国ではカテーテル治療が増えて来るだろうと予測できます。
正負の両方の情報をきちんと患者に説明して納得した上で(これをインフォームドコンセントという)治療方針を決定するようになってもらいたいと思います。
いいことばかり教えられれば、患者は安易な判断でそれを選択していまいますので、治療方針決定までの正しい情報提供には医師の責任が伴うはずです。

2016年12月29日 (木)

赤穂浪士終焉の地について

お預かり先
 
江戸城内で老中稲葉正通は細川綱利に対して大石内蔵助ら赤穂浪士16名の預かりを命じました。
 
「細川 綱利(ほそかわ つなとし)は、第3代肥後熊本藩主。熊本藩細川家4代。第2代藩主細川光尚(光利)の長男。
吉田司家を肥後に招き、当時衰退していた相撲道を後援したことや、赤穂事件後に大石良雄らのお預かりを担当したことで知られる。
中略。
 
赤穂浪士お預かり
元禄15年(1702年)12月15日早朝、吉良義央を討ちとって吉良邸を出た赤穂46士(注:47人目の寺坂信行は討ち入り後に隊から外れた)は、大目付仙石久尚に自首しにいった吉田兼亮・富森正因の2名と別れて、ほかは主君浅野長矩の眠る高輪泉岳寺へ向かった。仙石は吉田と富森の話を聞いてすぐに登城し、幕閣に報告、幕府で対応が協議された。
 
一方、細川綱利はこの日、例日のために江戸城に登城していた。この際に老中稲葉正通より、大石良雄はじめ赤穂浪士17人のお預かりを命じられた。さっそく綱利は家臣の藤崎作右衛門を伝令として細川家上屋敷へ戻らせた。この伝令を受けた細川家家老三宅藤兵衛は、はじめ泉岳寺で受け取りと思い込み、泉岳寺に近い白金の中屋敷に家臣たちを移し、受け取りの準備を始めた。しかしその後、46士は大目付仙石久尚の屋敷にいるという報告が入ったので、急遽仙石邸に向かった。三宅率いる受け取りの軍勢の総数は847人。彼等は、午後10時過ぎ頃に仙石邸に到着し、17人の浪士を1人ずつ身体検査してから駕籠に乗せて、午前2時過ぎ頃に細川家の白金下屋敷に到着した。浪士達の中にけが人がおり、傷にさわらないようゆっくり輸送したため時間がかかったと『堀内伝右衛門覚書』にある(山吉盛侍に斬られた近松行重のことであろう)。
 
この間、綱利は義士たちを一目みたいと、到着を待ちわびて寝ずに待っていた。17士の到着後、すぐに綱利自らが出てきて大石良雄と対面した。さらに綱利は、すぐに義士達に二汁五菜の料理、菓子、茶などを出すように命じる。預かり人の部屋とは思えぬ庭に面した部屋を義士達に与え、風呂は1人1人湯を入れ替え、後日には老中の許可を得て酒やたばこも振舞った。さらに毎日の料理もすべてが御馳走であり、大石らから贅沢すぎるので、普通の食事にしてほしいと嘆願されたほどであった。
 
綱利は義士達にすっかり感銘しており、幕府に助命を嘆願し、またもしも助命があれば預かっている者全員をそのまま細川家で召抱えたい旨の希望まで出している。また12月18日と12月24日の2度にわたって、自ら愛宕山に赴いて義士達の助命祈願までしており、この祈願が叶うようにと綱利はお預かりの間は精進料理しかとらなかったという、凄まじい義士への熱狂ぶりであった。
 
しかし綱利の願いもむなしく、年改まって元禄16年(1703年)2月、赤穂浪士たちを切腹させるようにという幕府の命令書が届く。この切腹に当たっても綱利は「軽き者の介錯では義士達に対して無礼である」として、大石良雄は重臣の安場一平に介錯をさせ、それ以外の者たちも小姓組から介錯人を選んだ。義士達は切腹後、泉岳寺に埋葬された。細川綱利は金30両の葬儀料と金50両の布施を泉岳寺に送っている。幕府より義士達の血で染まった庭を清めるための使者が訪れた際も「彼らは細川家の守り神である」として断り、家臣達にも庭を終世そのままで残すように命じて、客人が見えた際には屋敷の名所として紹介したともいわれている。
 
このような細川家の義士たちに対する厚遇は、江戸の庶民から称賛を受けたようで「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」と狂歌からも窺われる。これは細川家と水野家が義士を厚遇したことを称賛し、毛利家と松平家が待遇が良くなかったことを批判したものである。もっとも毛利家や松平家も、江戸の庶民の評価に閉口したのか、細川家にならって義士たちの待遇を改めたとも伝えられる。
明治に入ってからも細川邸跡は、大石良雄外十六人忠烈の跡としてそのまま保存され、現在は港区と泉岳寺と中央義士会が共同で管理している。」(細川綱利-wikipediaより抜粋)
 

Oishi_yoshio_and_the_16_partisans wikipediaより引用

大石良雄外十六人忠烈の跡 (都営高輪アパート内)⇒外16名だから大石を入れて17名となる。

「大石良雄等自刃ノ跡 (道標)
大石良雄外十六人忠烈の跡(おおいし よしお ほか じゅうろくにん ちゅうれつの あと)は東京都港区高輪にある旧跡で、かつては肥後熊本藩江戸下屋敷がここにあった。
 
概要[編集]
元禄16年2月4日(1703年3月20日)、熊本藩細川家の下屋敷において赤穂浪士の大石良雄(大石内蔵助)ほか16人が切腹した。三田の伊予松山藩屋敷跡(現:イタリア大使館)には大石主税良金ら十士切腹の地がある。大石父子の切腹は、ほぼ同時刻であったといわれている。
 
浪士たちは、江戸高輪の泉岳寺(曹洞宗)に葬られている。12月13・14日には義士祭が催されている。この碑は平成10年(1998年)に東京都港区教育委員会によって設置された。
 
自刃した義士[編集]
1.大石内蔵助(良雄)
2.吉田忠左衛門(兼亮)
3.原惣右衛門(元辰)
4.片岡源五右衛門(高房)
5.間瀬久大夫(正明)
6.小野寺十内(秀和)
7.間喜兵衛(光延)
8.礒貝十郎左衛門(正久)
9.堀部弥兵衛(金丸)
10.近松勘六(行重)
11.富森助右衛門(正因)
12.潮田又之丞(高教)
13.早水藤左衛門(満尭)
14.赤埴源蔵(重賢)
15.奥田孫太夫(重盛)
16.矢田五郎右衛門(助武)
17.大石瀬左衛門(信清)」(大石良雄外十六人忠烈の跡-wikipediaより)
 
片岡も磯貝も、細川家屋敷で最高の待遇を受けてから切腹したようです。
他の30名についてさらに示します。
 
9名が水野屋敷で預かりとなっています。
 
「水野 忠之(みずの ただゆき)は、江戸時代中期の譜代大名で、江戸幕府老中。三河岡崎藩第4代藩主(5万石、後6万石)。忠元系水野家5代。
中略。
 
元禄14年(1701年)3月14日に播磨赤穂藩主浅野長矩が高家吉良義央に刃傷沙汰に及んだときには、赤穂藩の鉄砲洲屋敷へ赴いて騒動の取り静めにあたっている。
また翌年12月15日、赤穂浪士が吉良義央の首を挙げて幕府に出頭した後には、そのうち間光興・奥田行高・矢頭教兼・村松高直・間瀬正辰・茅野常成・横川宗利・三村包常・神崎則休9名のお預かりを命じられ、彼らを三田中屋敷へ預かった。
 
大石良雄を預かった肥後熊本藩主細川綱利に倣って、忠之も浪士たちを賞賛し、よくもてなした。
しかし、綱利が細川邸に入った後の浪士たちの元へすぐさま自ら赴いて大石内蔵助たちと会見したのに対して、忠之は幕府を憚ってか、21日になってようやく浪士たちと会見している。
 
また江戸の庶民からも称賛されたようで、「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が残っている。これは細川家と水野家が浪士たちを厚遇し、毛利家と久松松平家が冷遇したことを表したものである。その後、2月4日に幕命に従って九士を切腹させた。
以下略。」(水野忠之-wikipediaより抜粋)
 
あとは庶民の評判が悪かった松山藩中屋敷10名(現イタリア大使館)と毛利甲斐守邸10名(六本木ヒルズ)です。
 
17人+9人+10人+10=46人しかいません???。
 
寺坂吉右衛門1名は、大石内蔵助から泉岳寺へ行く途中で「生き残って戦闘詳細を浅野本家(広島)へ報告し、その後も生き延びて伝えよ」との命令を受けて脱走しています。
 
 
評判の悪かった松山藩中屋敷10名についてです。
 
「松山藩中屋敷跡(東京都港区)

1024pxthe_embassy_of_italy_in_tokyo

松山藩の江戸藩邸のうち、三田の中屋敷跡には現在イタリア大使館が建っている。
中略。
 
元禄15年12月15日(1703年1月31日)に発生した赤穂事件に関して、定直は赤穂浪士47名のうち大石(主税)良金・堀部武庸・木村貞行・中村正辰・菅谷政利・千馬光忠・不破正種・大高忠雄・貝賀友信・岡野包秀の10名の預かりを命じられた。
この頃、病床にあった定直は江戸城への登城ができず家臣を通じてこの命令を受けた。
元禄16年1月5日(1703年2月20日)になって浪士達と会見。
会見の遅れへの謝罪と仇討ちへの称賛を送り、「もっと大歓迎をしたいところだが、幕府からのお預かり人であるためできない。しかし諸事不自由はさせない。用事があれば遠慮なく家臣に申し付けてくれてかまわない」と述べている。
 
但し、松平家の浪士達への待遇は大石良雄らを預かった細川綱利に比べ劣ったようで、江戸の武士や庶民からは「細川の 水の(水野忠之)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の 沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」(当時の狂歌)と批判された。」(松平定直-wikipediaより抜粋)
 
イタリア大使館の楓の橙色はとても印象的です。
私から見ますと、楓の赤は「信仰の色」でもあります。
 
吉田松陰神社の松陰墓の側に立派な楓がありました・・・。
 
最後は、これも評判の悪かった毛利甲斐守邸10名についてです。
ここで乃木大将が生まれたことは気づきませんでした。
 
乃木は明治天皇の崩御に際し夫婦で殉死し、直前に昭和天皇に山鹿素行の著書(中朝事実だったかどうか)を手渡して読むようにと伝えたそうです。
 
1024pxmoriteien_0123 wikipediaより引用。
毛利庭園にある標柱
「毛利甲斐守邸跡(もうりかいのかみていあと)は、東京都港区六本木六丁目にある史跡。長門長府藩主(長州藩毛利氏の分家)だった毛利綱元の麻布上屋敷の跡地である。

1024pxmoriteien_0113 wikipediaより引用

毛利庭園

現在は六本木ヒルズ内の毛利庭園(もうりていえん)となっており、ひょうたん池の傍に跡地である旨を示す標柱が建てられている。
 
慶安3年(1650年)に、初代長府藩主毛利秀元(秀元は文禄4年(1595年)に甲斐守となっていた)が上屋敷として設けた。
 
毛利綱元が長府藩主であった元禄15年(1702年)、赤穂事件が起こり、吉良義央邸に討ち入った赤穂浪士の岡嶋八十右衛門ら10人がお預けになり、幕府の沙汰を待った。元禄16年(1703年)2月4日同屋敷で切腹した。
中略。
 
大正8年(1919年)4月、"乃木大将誕生地"として、旧跡(現東京都旧跡)に指定される。
昭和18年(1943年)3月、"毛利甲斐守邸跡"として、旧跡に指定される。
昭和27年(1952年)、ニッカウヰスキーが買収。同社東京工場となる。
昭和52年(1977年)、テレビ朝日が買収。同社敷地となる。
再開発により建設された六本木ヒルズが平成15年(2003年)4月にオープン。同ビルの日本庭園が毛利庭園と名付けられる。
 
赤穂浪士[編集]
預けられた赤穂浪士10名
1.岡島八十右衛門(常樹)
2.吉田沢右衛門(兼貞)
3.武林唯七(隆重)
4.倉橋伝助(武幸)
5.村松喜兵衛(秀直)
6.杉野十平次(次房)
7.勝田新左衛門(武尭)
8.前原伊助(宗房)
9.小野寺幸右衛門(秀富)
10.間新六(光風)」(毛利甲斐守邸跡-wikipediaより抜粋)
 
毛利庭園のひょうたん池は、最近山梨の公営日帰り温泉の側の塩の塀がある寺の境内で見たものに似ています。
 
私は山梨でそれを見たとき、自然に三位一体を想起しいていました。
 
詳しくは過去記事の下記を参照してください。
 
2016年12月 6日付け拙著記事「公衆風呂の発見者 黄檗宗の僧」
http://harukateinen.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-7b57.html
「乃木希典 - 明治天皇に殉死する際に、学習院院長として養育に当たっていた迪宮裕仁親王(昭和天皇)に『中朝事実』を献上した。
献上の折のただならぬ様子に裕仁親王は「院長先生はどこかへゆかれるのですか」と発言している。」(中朝事実-wikipedia)
 
合っていました。中朝事実でした。
 
漢文だけで書かれた書物です。
「ちゅうちょうじじつ」と読みます。
 
中は中国、朝は日本国です。日本国とは本来の中国そのものであるとの主張です。
 
漢字文化も思想も人間も中国からやってきたものであって、逆に騎馬民族の侵入を受けて文化破壊が起きている中国にはもはや漢や明の文明は残っていない。
この日本国こそ中国の本質をそのまま継承している国である。
 
私は最初の数ページだけ漢文を日本語訳して読んだだけですが、この思想はその後の日本国の満州植民地化への思想的ドライブになったのではないかなどと、ふと思っています。
 
果たして事実はどうなのか、歴史は真実を語ってくれることを祈るほかありません。
寺坂吉右衛門の途中の脱走で1名不足して46士が切腹したことがわかりました。
泉岳寺へ向かう前のこと、2名が新橋方面へと道を変えていますが、切腹の46人の中には含まれていません。
 
「大目付仙石久尚に自首しにいった吉田兼亮・富森正因の2名と別れて、ほかは主君浅野長矩の眠る高輪泉岳寺へ向かった。」(細川綱利-wikipediaより抜粋)
この2名は討ち入りに加担せずに、単なる連絡掛を担った赤穂浪士という整理ならば理解できます。
首席家老の子孫などが明治維新へとつながる初期の尊王活動をけん引していた事実を知ってしまいますと、生きて主君の願いをかなえようとした赤穂浪士がかなりの人数存在していたのではないかと、今では思っています。
この消えた2名の赤穂浪士もその後の革命戦士の中のものだったのかも知れません。
忠臣蔵を境に、革命の火種は見事に潜伏し、潜伏テロ活動へとシフトしていったのです。
吉良邸討ち入り、つまり「不法侵入、家財破壊、殺人傷害罪」をもって、現在ではその行為を「テロ」と呼ぶようになっています。
視点を変えるだけで、「テロ」は「英雄歌劇」へと変じます。
日本国での赤穂浪士事件は、ある勢力の者たちにとっては、その後のイスラム国への走り、あるいはその実証実験でもあったのかも知れません。

2016年12月28日 (水)

赤穂浪士の子孫のその後の尊王活動

赤穂浪士の子孫は一部の人がその後尊王活動に走っています。
 
山鹿素行の思想的支柱を彼等は皆共有していた可能性を感じます。
彼等の行動が、長州藩山鹿流兵法家の吉田松陰のそれによく似ていると思われます。
果たして浅野内匠頭は家臣たちに尊王討幕の遺言を預けたのでしょうか・・・。
その可能性を探っていきます。
 
これまでは浅野内匠頭の遺言が不明確なことから、刃傷事件の謎が深まるばかりでした。
 
「申の下刻(午後6時10分頃)に幕府の正検使役として大目付・庄田安利、副検使役として目付・多門重共、同・大久保忠鎮らが田村邸に到着し、出合の間において浅野に切腹と改易を宣告した。
これに対して浅野は「今日不調法なる仕方いかようにも仰せ付けられるべき儀を切腹と仰せ付けられ、有難く存知奉り候」と答えたという。
中略。
 
なお比較的資料の価値が高い『内匠頭御預かり一件』の方には長矩の側用人片岡高房と礒貝正久宛てに長矩が遺言を残したことが記されている。
 
それによれば「此の段、兼ねて知らせ申すべく候得共、今日やむことを得ず候故、知らせ申さず候、不審に存ず可く候」という遺言であったという。尻切れになっている謎めいた遺言であるが、これが原文なのか、続く文章は幕府をはばかって田村家で消したのか、真相は不明である。
 
その後、田村家から知らせを受けた浅野家家臣の片岡高房、糟谷勘左衛門(用人250石役料20石)、建部喜六(江戸留守居役250石)、田中貞四郎(近習150石)、礒貝正久(近習150石)、中村清右衛門(近習100石)らが長矩の遺体を引き取り、彼らによって高輪泉岳寺に埋葬された。」(浅野長矩-wikipedia)
 
片岡高房と礒貝正久宛てに長矩が遺言を残した」とは面会して口頭で伝えたのか、紙に書いて田村家用人が手渡したのかはここでは不明です。
 
別の下記記事には、「片岡高房が主君・長矩に最後に一目、目通りできた」とありました。
 
「延宝3年(1675年)、養父・六左衛門が死去したため、9歳にして片岡家100石の家督を相続。この年のうちから小姓として浅野長矩の側近くに仕えている。
長矩とは同い年であったこともあり、非常に気が合ったようである。
また長矩からの信任が深かったため、長矩とは男色の関係にあったともいわれた。
中略。
 
元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及んだ際には城内に供待ちをしていた。
 
長矩は陸奥国一関藩主田村建顕屋敷にお預けとなり、即日切腹と決まったが、切腹の副検死役である多門重共(幕府目付)が記した『多門筆記』によると、高房は最期に一目浅野長矩と会うことができたとされている。
 
また田村家の資料である『内匠頭お預かり一件』によると、浅野長矩は高房と礒貝正久に宛てて「孤の段、兼ねて知らせ申すべく候得共、今日やむ事を得ず候故、知らせ申さず候、不審に存ず可く候」という謎めいた遺言を田村家臣の口述筆記で残したことが記されている(ただし、文章がしり切れてしまっており不自然な内容であるため、この後に続く文は江戸幕府を憚って田村家で消された可能性が高い)。」(片岡高房-wikipedia)
 
「片岡高房と礒貝正久に宛ての遺言は「田村家家臣の口述筆記だった」とされているから、このときの二人は一緒に内匠頭に会っていない可能性が高い。
もし会えば、切腹前の主君から極秘の連絡を受けるはずでしょう。
 
しかし、片岡だけが「最後」すなわち切腹の直前に面会を許されている。
片岡だけは重要な伝言を受けた可能性があります。
 
「宣告が終わると直ちに障子が開けられ、長矩の後ろには幕府徒目付が左右に二人付き、庭先の切腹場へと移された。
庄田・多門・大久保ら幕府検使役の立会いのもと、長矩は磯田武大夫(幕府徒目付)の介錯で切腹して果てた。享年35。
 
『多門筆記』によれば、切腹の前に長矩は「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」という辞世を残したとしている。さらに多門の取り計らいにより、片岡高房が主君・長矩に最後に一目、目通りできたともしている。」(浅野長矩-wikipedia)
 
藩主の寵愛を受けていた片岡高房だけは面会できたように見受けられます。
しかし、片岡と磯貝の、その後の行動に不審があります。
 
「その後、田村家から知らせを受けた浅野家家臣の片岡高房、糟谷勘左衛門(用人250石役料20石)、建部喜六(江戸留守居役250石)、田中貞四郎(近習150石)、礒貝正久(近習150石)、中村清右衛門(近習100石)らが長矩の遺体を引き取り、彼らによって高輪泉岳寺に埋葬された。」(浅野長矩-wikipedia)
 
これは遺言状を田村家で受け取った片岡と磯貝の二人は、殿の切腹のときに御側に控えていなかったということです。
 
主君が切腹を終えてから、片岡と磯貝も遺体を引き取りに田村家へ向かったことがこの記事からわかります。
 
とくに片岡は切腹の直前に浅野内匠頭に面会した可能性があります。
極めて大事な主君の意見や意趣を汲んだ片岡がその切腹の場を離れたことになります。
 
忠臣であれば主君切腹の現場に居て御伴をすべきだったのでしょうが、それを上回るほどの主君がいたということでしょう。
 
藩主を越える主君としては、神か天皇かしか思い当りません。
急いで神か天皇へ向けて片岡が田村家を飛び出したとしたら、それは許されるかも知れません。
片岡に藩主の切腹立ち合いを脇に置くほどに「火急の用事があった」ということは確かでしょう。
 
片岡を通じて、藩主の「真の遺言」は以下に述べる子孫たちへと確かに伝わっていったように思われます。
 
討ち入り後に切腹した赤穂浪士の子孫で尊王活動に走ったもの何人かいます。
その過激さは吉田松陰のそれと通じます。

いずれも山鹿素行の弟子たちと言っていいほどの行動履歴です。
 
「大高又次郎(おおたか またじろう、文政4年(1821年)12月-元治元年6月5日(1864年7月8日))は、幕末の尊皇攘夷派志士で、林田藩士。
父は六八郎義郷。
赤穂浪士四十七士の一人大高忠雄の子孫。
 
幼少より甲州流軍学、西洋砲術など軍事に関わる事を専ら学び、父・六八郎より皮具足の製法の直伝を受け、「大高製の皮具足」と呼ばれて好評を得る。
 
安政5年(1858年)に脱藩。京都へ出て、梅田雲浜、頼三樹三郎、吉田松陰門下の野村和作などの志士と交流を持ち梅田雲浜宅に住み込んでいた。
安政6年には萩へ赴き吉田松陰とも出会っている。
この際、長州藩主が参勤で伏見に立ち寄った際に京の活動家貴族と対面させる計画を持ちかけた(伏見要駕策)が、藩重役の反対にあい計画は頓挫している。
 
安政の大獄により梅田が捕らえられたのを追って江戸に潜伏。
しかし梅田の処刑で、自らにも幕府の追捕が迫ったため、浅草寺で坊主に変装して江戸を脱出し、京都の長州藩邸に逃げ込む。その後古高俊太郎住居別棟に居住し、武具・兵器の調達を担当するなど尊皇攘夷活動を続けた。元治元年(1864年)6月5日、義弟・忠兵衛とともに池田屋事件に遭遇。奮戦むなしく新選組によって討たれた。享年42。明治に入ってから正五位を贈られる。
 
池田屋事件後の6月7日、大高家は新選組の家宅捜索を受ける。
夫の後を追おうと自害しようとして失敗し重体だった妻・とみ、子供6人、門弟2人らはこの時に捕らえられ、長男・幸一郎だけは捕縛を免れて鳥取へ逃げ延びる。約3ヶ月後に釈放されたが家財は既に没収されていたため林田藩に帰郷したと言う。」(大高又次郎-wikipedia)
 
富山の地元の人が2年前に気づいたという赤穂浪士の子孫で尊王の志士の話をブログ記事にしていました。

Photo_2

写真、文ともに「富山県射水市と忠臣蔵 」より抜粋します。
http://ameblo.jp/katsufumi10/theme-10046291518.html
「2014-09-07 12:31:47
テーマ:富山県の歴史

私も富山県に長く暮らしていますが、
忠臣蔵の物語が富山県と深く結び付いているとは、今まで知りませんでした。
忠臣蔵は、今さら説明するまでもない有名な物語。
江戸時代中期、赤穂藩の浪士たちが、主君の敵討ちをして切腹となった、切ないエピソード。
実は、この物語には後日談がありました。
 
赤穂藩が断絶したあと、藩の江戸詰め家老だった藤井宗茂という人物が、ひっそりと越中(現在の富山県)に移り住んでいたというのです。
藤井宗茂は、現在の射水市(旧小杉町)で所帯を持ち、地元の女性との間に子をもうけました。
 
その子が、のちに藤井右門(ふじい・うもん)と呼ばれた人物で、江戸時代中期から尊皇倒幕・大政奉還の必要性を訴えた、勤王の志士でした。
射水市には、今も、この藤井右門の墓が残されています。
 
右門は、勉学がよく出来たようで、皇学所という教育機関の教授を勤め、公卿らを指導したようです。
しかし、時はまだ、明治維新の100年以上前。
幕府の力はまだ強く、右門らは幕府に敵視され、捕らえられてしまいました。
右門は、処刑された、または、獄死した、と伝わっています。
 
しかし、そののち、右門のひ孫の藤井多門が岩倉具視と親交があったため、右門の考えていたことが後世に評価され、明治時代になってから、右門に正四位が贈られたそうです。」(抜粋終わり)
 
藤井右門の父が、生き残った赤穂藩上席家老の藤井宗茂(左門)でした。
 
「藤井 宗茂(ふじい むねしげ、? - 享保18年8月22日(1733年9月29日))は、江戸時代前期の武士。
赤穂藩浅野氏の家臣。800石。通称は又左衛門、のちに左門。
 
赤穂藩内では主席家老・大石良雄に次ぐ上席家老であり、藩主が参勤交代で江戸へ出る際には、末席家老の大野知房と交代でどちらかが御供して江戸へ向かい、どちらかが在藩していたという。
なお、松の廊下の刃傷事件があった際には、藤井が江戸にあり大野が赤穂にあった。
元禄15年(1701年)江戸家老安井彦右衛門とともに勅使饗応役の主君浅野長矩を補佐した。
3月14日の長矩による殿中刃傷後、浅野家が改易されると、3月16日に鉄砲洲上屋敷を立ち退き、上屋敷近くの築地飯田町(現在の中央区築地7丁目東部あたり)に安井彦右衛門や用人石槽勘左衛門(150石役料20石)・藩大目付早川宗助(200石役料10石)らと暮らしていた。
堀部武庸ら江戸急進派から仇討ちの義盟への参加を求められるも加わらなかった。
 
その後、知己であった越中国富山藩前田家(加賀国金沢藩前田家の分家)の家臣金森八三衛門(山林見回り奉行)を頼り、越中国射水郡小杉村に身を寄せ、藤井左門と称した。大手崎村の豪農赤井屋九郎平の娘を妻に娶り、その間に二男一女をもうけた。なお、長男は後に明和事件で処刑される藤井直明である。
 
直明の手記によると父宗茂は享保18年(1733年)8月22日、姫路城下の網干で死去したとされている。兵庫県明石市竜門寺に墓が残る。」(藤井宗茂-wikipedia)
 
その子、藤井直明の過激な活動を示す記事です。
 
「藤井 直明(ふじい なおあき、享保5年(1720年) - 明和4年8月22日(1767年9月14日))は、江戸時代中期の尊王論者。父は藤井宗茂[1]。初名は吉太郎。通称は右門(うもん)。生まれは越中国射水郡小杉宿(現・富山県射水市)。
 
生涯[編集]
1735年(享保20年)郷里を出奔して上洛し、諸大夫藤井忠義の養子となり家督を継いだ。京都で竹内式部を知り、皇学所教授となって公卿に尊王論を説いた。
1758年(宝暦8年)の宝暦事件で竹内式部が捕らえられると京都を逃れ、江戸へ出て右門と名乗り山県大弐の家に身を寄せた。
1766年(明和3年)の明和事件では山県大弐、竹内式部とともに捕らえられ、翌1767年(明和4年)『兵書雑談』の内容に不敬があったとして打首・獄門の刑に処せられた(牢死説もある)。
 
なお、直明のひ孫である藤井多門は、岩倉具視と親交を深め、直明の思想が明らかとなり、明治維新後に正四位が贈られた。
出身地の射水市では、毎年8月に住民により顕彰祭が行われている。)」(藤井直明-wikipedia)
 
藤井直明は下記の2件の事件に関与しています。
その曾孫の藤井多門は岩倉具視と親交し、明治維新に関わっていきます。
 
「宝暦事件(ほうれきじけん)は、江戸時代中期尊王論者が弾圧された最初の事件。
首謀者と目された人物の名前から竹内式部一件(たけうちしきぶいっけん)とも。
 
概要[編集]
桜町天皇から桃園天皇の時代(元文・寛保年間)、江戸幕府から朝廷運営の一切を任されていた摂関家は衰退の危機にあった。
一条家以外の各家で若年の当主が相次ぎ、満足な運営が出来ない状況に陥ったからである。
これに対して政務に関与できない他家、特に若い公家達の間で不満が高まりつつあった。
 
その頃、徳大寺家の家臣で山崎闇斎の学説を奉じる竹内敬持(竹内式部)が、大義名分の立場から桃園天皇の近習である徳大寺公城をはじめ久我敏通・正親町三条公積・烏丸光胤・坊城俊逸・今出川公言・中院通雅・西洞院時名・高野隆古らに神書・儒書を講じた。
幕府の専制と摂関家による朝廷支配に憤慨していたこれらの公家たちは侍講から天皇へ式部の学説を進講させた。
 
やがて1756年(宝暦6年)には式部による桃園天皇への直接進講が実現する。
これに対して朝幕関係の悪化を憂慮した時の関白一条道香は近衛内前・鷹司輔平・九条尚実と図って天皇近習7名(徳大寺・正親町三条・烏丸・坊城・中院・西洞院・高野)の追放を断行、ついで一条は公卿の武芸稽古を理由に1758年(宝暦8年)式部を京都所司代に告訴し、徳大寺など関係した公卿を罷免・永蟄居・謹慎に処した。
 
一方、式部は京都所司代の審理を受け翌1759年(宝暦9年)重追放に処せられた。
この事件で幼少の頃からの側近を失った桃園天皇は一条ら摂関家の振舞いに反発を抱き、天皇と摂関家の対立が激化する。この混乱が収拾されるのは桃園天皇が22歳の若さで急死する1762年(宝暦12年)以後の事である。
 
徳大寺公城らは、徳川幕府崩壊後の明治24年(1891年)に名誉回復を受け、各々の生前の最終官位から一つ上格の官位の追贈を受けた。」(宝暦事件-wikipedia)
 
下記の記事に、「宝暦事件に連座した藤井右門(直明)」とありました。
 
「明和事件(めいわじけん)は、江戸時代中期におこった幕府による尊王論者弾圧事件。
甲斐国出身の山県大弐は、江戸へ出て兵学・儒学を教え大義名分に基づく尊王思想を鼓吹し、その一方で宝暦8年(1758年)に起きた宝暦事件に連座した藤井右門(直明)は江戸に出て大弐の家に寄宿し、江戸攻略の軍法を説いた。
 
幕府は上野国小幡藩(2万石)の内紛にかこつけて両名を逮捕し、明和4年(1767年)不敬罪として大弐を死罪に、右門を磔刑に処した。
さらに、宝暦事件により重追放となった竹内敬持にも累を及ぼして遠島に処した。
また、小幡藩主の織田家(織田信長の三男織田信雄の末裔)は出羽国高畠への移封(のち天童にうつる)の上、織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃された。」(明和事件-wikipedia)
 
以上を俯瞰しますと、明治維新のシミュレーションとして日本武士の武断派がまだ活性化するかどうか実験したのが赤穂浪士討ち入り事件であるという説の信憑性を感じてくるようになりました。
 
その後の研究によって、その仮説を検証するような証拠などが発見されるかも知れません。
武断派の残存は革命を起こしたい勢力にとっては有用でしょうが、他国にとっては秀吉以来の日本人の不法侵入のリスクとなりますので、できれば根こそぎ消滅させたいところでしょう。
 
今の現代日本を眺めますと、見事に武断派が死滅している、かのような印象を私は受けます。

尊王討幕へ走った赤穂浪士の生き残りたち

山鹿素行の思想は尊王であり、吉田松陰も少なからず影響を受けています。
しかし、吉田松陰に会って尊王を説いた赤穂浪士の末裔がいたことを最近知りました。
山鹿素行の思想によって、幾人かの赤穂浪士の子孫には一つの心筋が入っていったのではないかと思われます。
以下に2例を主にwikipedia記事より抜粋します。
 
切腹の直前に大高源吾は浅野内匠頭に面会できており、遺言を聞く立場にありました。
切腹の時には大高源吾はなぜか田村家(切腹場所)にはいなかったようです。
他のメンバーが遺骸の引き取りに後ほどやってきます。
 
源吾本人は討ち入り後に切腹しますが、子が尊王活動に走っています。
浅野内匠頭は大高源吾に重要なことを口頭で伝言した可能性があり、それをどこかに知らせるべく大高源吾は内匠頭の代わりに目的地へ走ったのではないかと思われます。
目的地はどこか?それは二人しか知らないことです。
切腹の現場から席を外す忠臣はまずいないと思われますので、主君への忠臣を越える重大時、つまり天皇の権威に関わる重大情報の伝達に走ったのではないか、と思われます。
 
「申の下刻(午後6時10分頃)に幕府の正検使役として大目付・庄田安利、副検使役として目付・多門重共、同・大久保忠鎮らが田村邸に到着し、出合の間において浅野に切腹と改易を宣告した。
これに対して浅野は「今日不調法なる仕方いかようにも仰せ付けられるべき儀を切腹と仰せ付けられ、有難く存知奉り候」と答えたという。
中略。
 
なお比較的資料の価値が高い『内匠頭御預かり一件』の方には長矩の側用人片岡高房と礒貝正久宛てに長矩が遺言を残したことが記されている。
 
それによれば「此の段、兼ねて知らせ申すべく候得共、今日やむことを得ず候故、知らせ申さず候、不審に存ず可く候」という遺言であったという。
尻切れになっている謎めいた遺言であるが、これが原文なのか、続く文章は幕府をはばかって田村家で消したのか、真相は不明である。
 
その後、田村家から知らせを受けた浅野家家臣の片岡高房、糟谷勘左衛門(用人250石役料20石)、建部喜六(江戸留守居役250石)、田中貞四郎(近習150石)、礒貝正久(近習150石)、中村清右衛門(近習100石)らが長矩の遺体を引き取り、彼らによって高輪泉岳寺に埋葬された。」(浅野長矩-wikipedia)
「宣告が終わると直ちに障子が開けられ、長矩の後ろには幕府徒目付が左右に二人付き、庭先の切腹場へと移された。庄田・多門・大久保ら幕府検使役の立会いのもと、長矩は磯田武大夫(幕府徒目付)の介錯で切腹して果てた。享年35。
 
『多門筆記』によれば、切腹の前に長矩は「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」という辞世を残したとしている。さらに多門の取り計らいにより、片岡高房が主君・長矩に最後に一目、目通りできたともしている。」(大高又次郎-wikipedia)
 
この引用した大高又次郎とは、赤穂浪士四十七士の一人大高忠雄の子孫で、長州藩の山鹿流兵法学者の吉田松陰と面識をもっていました。そして池田屋事件で戦闘死。
 
「大高又次郎(おおたか またじろう、文政4年(1821年)12月-元治元年6月5日(1864年7月8日))は、幕末の尊皇攘夷派志士で、林田藩士。父は六八郎義郷。赤穂浪士四十七士の一人大高忠雄の子孫。
 
幼少より甲州流軍学、西洋砲術など軍事に関わる事を専ら学び、父・六八郎より皮具足の製法の直伝を受け、「大高製の皮具足」と呼ばれて好評を得る。
 
安政5年(1858年)に脱藩。京都へ出て、梅田雲浜、頼三樹三郎、吉田松陰門下の野村和作などの志士と交流を持ち梅田雲浜宅に住み込んでいた。
安政6年には萩へ赴き吉田松陰とも出会っている。この際、長州藩主が参勤で伏見に立ち寄った際に京の活動家貴族と対面させる計画を持ちかけた(伏見要駕策)が、藩重役の反対にあい計画は頓挫している。
 
安政の大獄により梅田が捕らえられたのを追って江戸に潜伏。
しかし梅田の処刑で、自らにも幕府の追捕が迫ったため、浅草寺で坊主に変装して江戸を脱出し、京都の長州藩邸に逃げ込む。その後古高俊太郎住居別棟に居住し、武具・兵器の調達を担当するなど尊皇攘夷活動を続けた。元治元年(1864年)6月5日、義弟・忠兵衛とともに池田屋事件に遭遇。
奮戦むなしく新選組によって討たれた。享年42。
明治に入ってから正五位を贈られる。
 
池田屋事件後の6月7日、大高家は新選組の家宅捜索を受ける。
夫の後を追おうと自害しようとして失敗し重体だった妻・とみ、子供6人、門弟2人らはこの時に捕らえられ、長男・幸一郎だけは捕縛を免れて鳥取へ逃げ延びる。
約3ヶ月後に釈放されたが家財は既に没収されていたため林田藩に帰郷したと言う。」(大高又次郎-wikipedia)
 
次は同じく尊王家、藤井右門と多門です。

Photo

(富山県射水市と忠臣蔵」より引用、拡大) 
http://ameblo.jp/katsufumi10/theme-10046291518.html

2年前の地元の人のブログ記事です。地元でも最近わかったことだそうです。
 
「2014-09-07 12:31:47
テーマ:富山県の歴史

私も富山県に長く暮らしていますが、
忠臣蔵の物語が富山県と深く結び付いているとは、今まで知りませんでした。
忠臣蔵は、今さら説明するまでもない有名な物語。
江戸時代中期、赤穂藩の浪士たちが、主君の敵討ちをして切腹となった、切ないエピソード。
 
実は、この物語には後日談がありました。
 
赤穂藩が断絶したあと、藩の江戸詰め家老だった藤井宗茂という人物が、ひっそりと越中(現在の富山県)に移り住んでいたというのです。
 
藤井宗茂は、現在の射水市(旧小杉町)で所帯を持ち、地元の女性との間に子をもうけました。
 
その子が、のちに藤井右門(ふじい・うもん)と呼ばれた人物で、江戸時代中期から尊皇倒幕・大政奉還の必要性を訴えた、勤王の志士でした。
射水市には、今も、この藤井右門の墓が残されています。
 
右門は、勉学がよく出来たようで、皇学所という教育機関の教授を勤め、公卿らを指導したようです。
 
しかし、時はまだ、明治維新の100年以上前。
幕府の力はまだ強く、右門らは幕府に敵視され、捕らえられてしまいました。
右門は、処刑された、または、獄死した、と伝わっています。
 
しかし、そののち、右門のひ孫の藤井多門が岩倉具視と親交があったため、右門の考えていたことが後世に評価され、明治時代になってから、右門に正四位が贈られたそうです。」(富山県射水市と忠臣蔵」より抜粋) 
http://ameblo.jp/katsufumi10/theme-10046291518.html
赤穂藩家老の藤井宗茂は討ち入りをせずに、静かに富山で尊王思想を磨き、子を活動家に育てていたようです。
「藤井 宗茂(ふじい むねしげ、? - 享保18年8月22日(1733年9月29日))は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。800石。
通称は又左衛門、のちに左門。
 
赤穂藩内では主席家老・大石良雄に次ぐ上席家老であり、藩主が参勤交代で江戸へ出る際には、末席家老の大野知房と交代でどちらかが御供して江戸へ向かい、どちらかが在藩していたという。
なお、松の廊下の刃傷事件があった際には、藤井が江戸にあり大野が赤穂にあった。
元禄15年(1701年)江戸家老安井彦右衛門とともに勅使饗応役の主君浅野長矩を補佐した。
3月14日の長矩による殿中刃傷後、浅野家が改易されると、3月16日に鉄砲洲上屋敷を立ち退き、上屋敷近くの築地飯田町(現在の中央区築地7丁目東部あたり)に安井彦右衛門や用人石槽勘左衛門(150石役料20石)・藩大目付早川宗助(200石役料10石)らと暮らしていた。堀部武庸ら江戸急進派から仇討ちの義盟への参加を求められるも加わらなかった。
 
その後、知己であった越中国富山藩前田家(加賀国金沢藩前田家の分家)の家臣金森八三衛門(山林見回り奉行)を頼り、越中国射水郡小杉村に身を寄せ、藤井左門と称した。
大手崎村の豪農赤井屋九郎平の娘を妻に娶り、その間に二男一女をもうけた。
なお、長男は後に明和事件で処刑される藤井直明である。
直明の手記によると父宗茂は享保18年(1733年)8月22日、姫路城下の網干で死去したとされている。兵庫県明石市竜門寺に墓が残る。」(藤井宗茂-wikipedia)
その長男です。
「藤井 直明(ふじい なおあき、享保5年(1720年) - 明和4年8月22日(1767年9月14日))は、江戸時代中期の尊王論者。
父は藤井宗茂[1]。初名は吉太郎。通称は右門(うもん)。
生まれは越中国射水郡小杉宿(現・富山県射水市)。
 
生涯[編集]
1735年(享保20年)郷里を出奔して上洛し、諸大夫藤井忠義の養子となり家督を継いだ。京都で竹内式部を知り、皇学所教授となって公卿に尊王論を説いた。
1758年(宝暦8年)の宝暦事件で竹内式部が捕らえられると京都を逃れ、江戸へ出て右門と名乗り山県大弐の家に身を寄せた。
1766年(明和3年)の明和事件では山県大弐、竹内式部とともに捕らえられ、翌1767年(明和4年)『兵書雑談』の内容に不敬があったとして打首・獄門の刑に処せられた(牢死説もある)。
 
なお、直明のひ孫である藤井多門は、岩倉具視と親交を深め、直明の思想が明らかとなり、明治維新後に正四位が贈られた。
出身地の射水市では、毎年8月に住民により顕彰祭が行われている。」(藤井直明-wikipedia)
 
藤井 直明は2度逮捕されています。
最初は宝暦事件、次に明和事件です。それぞれを抜粋します。
決してめげない強い意思を感じますが、それは吉田松陰の心身へ注ぎ込まれたものと同一のものだと私は感じました。
 
「宝暦事件(ほうれきじけん)は、江戸時代中期尊王論者が弾圧された最初の事件。
首謀者と目された人物の名前から竹内式部一件(たけうちしきぶいっけん)とも。
 
概要[編集]
桜町天皇から桃園天皇の時代(元文・寛保年間)、江戸幕府から朝廷運営の一切を任されていた摂関家は衰退の危機にあった。
一条家以外の各家で若年の当主が相次ぎ、満足な運営が出来ない状況に陥ったからである。
これに対して政務に関与できない他家、特に若い公家達の間で不満が高まりつつあった。
 
その頃、徳大寺家の家臣で山崎闇斎の学説を奉じる竹内敬持(竹内式部)が、大義名分の立場から桃園天皇の近習である徳大寺公城をはじめ久我敏通・正親町三条公積・烏丸光胤・坊城俊逸・今出川公言・中院通雅・西洞院時名・高野隆古らに神書・儒書を講じた。
幕府の専制と摂関家による朝廷支配に憤慨していたこれらの公家たちは侍講から天皇へ式部の学説を進講させた。
やがて1756年(宝暦6年)には式部による桃園天皇への直接進講が実現する。
これに対して朝幕関係の悪化を憂慮した時の関白一条道香は近衛内前・鷹司輔平・九条尚実と図って天皇近習7名(徳大寺・正親町三条・烏丸・坊城・中院・西洞院・高野)の追放を断行、ついで一条は公卿の武芸稽古を理由に1758年(宝暦8年)式部を京都所司代に告訴し、徳大寺など関係した公卿を罷免・永蟄居・謹慎に処した。
一方、式部は京都所司代の審理を受け翌1759年(宝暦9年)重追放に処せられた。
この事件で幼少の頃からの側近を失った桃園天皇は一条ら摂関家の振舞いに反発を抱き、天皇と摂関家の対立が激化する。この混乱が収拾されるのは桃園天皇が22歳の若さで急死する1762年(宝暦12年)以後の事である。
 
徳大寺公城らは、徳川幕府崩壊後の明治24年(1891年)に名誉回復を受け、各々の生前の最終官位から一つ上格の官位の追贈を受けた。」(宝暦事件-wikipedia)
 
上の記事には登場し
「明和事件(めいわじけん)は、江戸時代中期におこった幕府による尊王論者弾圧事件。
甲斐国出身の山県大弐は、江戸へ出て兵学・儒学を教え大義名分に基づく尊王思想を鼓吹し、その一方で宝暦8年(1758年)に起きた宝暦事件に連座した藤井右門(直明)は江戸に出て大弐の家に寄宿し、江戸攻略の軍法を説いた。
幕府は上野国小幡藩(2万石)の内紛にかこつけて両名を逮捕し、明和4年(1767年)不敬罪として大弐を死罪に、右門を磔刑に処した。
さらに、宝暦事件により重追放となった竹内敬持にも累を及ぼして遠島に処した。
また、小幡藩主の織田家(織田信長の三男織田信雄の末裔)は出羽国高畠への移封(のち天童にうつる)の上、織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃された。」(明和事件-wikipedia)
 

2016年12月27日 (火)

全責任を一人で負った会津藩家老、萱野権兵衛の墓(後編)

最後のサムライ(11)
2009/1/2(金) 午前 1:34

Img_0

0493(神保修理長輝の墓(白金の興禅寺にて))
 
私には、まだ梶原平馬の実態がわからない。
 
「戊辰戦争百話・会津」に籠城中の梶原平馬の行動が描かれている。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/6618/honmon2/51.html
 
『籠城三日目、平馬は若松城鉄(くろがね)門の仮御座所にあって松平容保・喜徳父子の御側に控え、筆頭家老西郷頼母に「越後口から引揚げて来る萱野・上田両家老に会い、城に入らずそのまま防戦するように伝えよ」という御意を伝え、一方で砲兵隊頭大沼城之助と遊撃寄合組隊組頭芦沢生太郎の両名に対し、西郷の後を追ってこれを討ち取るように命じた。
主戦論の平馬は恭順論を唱える頼母を亡き者にする計画であったが、大沼と芦沢の二人は命令を無視し、帰って西郷を見失ったと報告した。』
 
梶原平馬の命令を無視する家臣団の様子からは、恭順を唱えた西郷頼母の方が主戦派の梶原よりも信用を得ているようである。
 
梶原が西郷に「御意を伝え」た、とあるが、松平容保はよくある殿様の例の通り「よきに計らえ」であって、実際に容保を操っていたのは家老の梶原だったのではないだろうか。
 
梶原は何らかの理由で、官軍とどうしても戦争をする必要があったのだろう。
その梶原が明治まで生き延びていることに、どうしても納得がいかない。
いやしくも、梶原は武士であるのだ。
スネル商会の武器販売促進係ではないのだ。
いや、そうだった可能性もあるだろう。
 
スネルは必ずしも武器商売だけを狙っていたのではあるまい。
日本と日本人をどういう方向に導くか、はっきりした目標を持っていた可能性がある。
 
会津藩士とその家族数十名の規模でカリフォルニア州に移住させたことも、単なる農場経営だけの理由ではないだろう。
 
そのスネル兄弟の思想的背景と梶原平馬は一致していたのではないだろうか。
スネル兄弟の国籍は兄弟で異なる。スイスとオランダである。
日本国が英国勢力下の薩長政府になっては大変困るのではなかったか。
 
会津市民が全滅したとしてもスネルや平馬は、会津藩士を薩長連合軍と戦わせたかったのではあるまいか。
 
一説には、佐幕派の強行策は会津藩祖保科正之が作った「家訓」(カキンと読むそうだ)のせいだと言われているが、果たしてそうだろうか?
 
「保科正之が残した会津藩の家訓」を見てみよう。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~jigenji/kakin.htm
 
『藩祖保科正之が残した15条からなる家訓(かきん)。
その第1条が、「大君の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず、若し二心を懐かば、則ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず」とある。
 
大君は徳川将軍家で、列国とは他藩のことである。
すなわち「将軍家に対する忠勤は、他藩の例をもって満足してはならない。
もし二心を懐けば我が子孫ではないから、家臣は主君に従ってはならない」ということである。』(抜粋終わり)
 
要するに「将軍家に忠勤せよ」ということである。
 
NHK大河ドラマ「篤姫」にもあったように、将軍慶喜の朝廷への態度は「恭順」である。
ドラマでは、慶喜にひたすら謹慎するよう篤姫はきつく命じていた。
会津藩も「家訓」に従えば、ひたすら恭順すべきであった。
西郷頼母や切腹をさせられた神保修理(長輝)などの方が、むしろ「家訓」に素直に従っている。
 
神保修理は、1868年の戊辰戦争で容保が新政府軍と戦う決意をすると、時勢の流れから敗戦を読み取って恭順するように進言している。
しかし、将軍徳川慶喜、藩主容保ら幕府首脳が鳥羽・伏見で戦っている兵を捨てて、大阪から江戸へ脱出した責任を取らされ、江戸三田の藩邸で切腹を命じられている。
 
しかも主席家老の西郷頼母は、籠城戦の一時期に味方の梶原から殺されそうになっていた。
 
どうやら会津藩内に「何がなんでも戦争をしなければならない理由」をもっていた勢力がいたようである。
それは一般には過激な佐幕派と言われているが、実は外国勢力と通じた明白な戦争継続主義者がいたのではないだろうか。
 
戦争を継続して喜ぶ連中とは、イラク戦争でも自明のように軍閥、軍産共同体である。
戦争を辞めては、元も子もなくなるという連中である。
 
西郷頼母は松平容保の京都守護職就任を諌止していた。
さらに京都守護職の辞職を諌言して免職となった。
 
容保帰国後に復職したが恭順論を唱えてまた城を出され、会津落城後は仙台より榎本軍に投じ函館戦争に参加した。
 
西郷邸に残された西郷頼母一族は、城からの総篭り(篭城命令)に対し、女子供が入城すれば篭城戦の足手惑いになるとして入城を拒み自刃を遂げた。
頼母の母(58歳)、妻(34歳)、妹2人(26歳と23歳)、5人の娘の(合計)9人の他、一族親類の家族12人の総勢21人の集団自決となった。
(「西郷頼母」http://oniheru.fc2web.com/douzou/saigou_tanomo.htm より一部引用しました。)
 
一族の悲劇を抱え込んでしまった西郷頼母のその後はどうだったのか。
戊辰戦争ののち、日光東照宮宮司となった旧主容保のもとで禰宜として仕えたのち会津に戻り、裏長屋で静かに余生を送ったようである。

最後のサムライ(12)
2009/1/2(金) 午前 1:55
 
梶原平馬の不思議さと似たようなことが、幕末の佐久間象山の行動に感じられる。
 
尊皇攘夷思想の支柱的存在として吉田松蔭などにも強い影響を与えた人物であるが、これも南北戦争の終結を見た文久3年ころから態度が大きく変わっていく。
 
攘夷から開国を唱え出すのである。
池田屋で尊王志士の過激な行動計画があることを京都守護職に漏らしたのは佐久間だと見立て、かつて同じ尊攘派の仲間だった河上彦斎(げんさい)らに暗殺されてしまう。
 
佐久間がペリーへの幕府親書に「新アメリカ国日本」という文字を記載する提案をしたことが暗殺の理由だった。
そう佐久間が書いた親書は、ある幕府老中が勝手に破り捨てて切腹して果てたという。
 
明治5年頃から姿を消した梶原平馬は、ひょっとしたらヘンリー・スネルとともにカリフォルニアに渡っていたのかも知れない。
 
梶原は会津で行方不明になってから函館に行ったのではないかという説があるが、当事北海道と米国の往来は度々あったであろうし、一時期米国に行っていたとしてもおかしくはない。
 
幕末に日米を往復した咸臨丸は、2月9日に浦賀を出港し3月17日サンフランシスコ湾に入港している。
およそ1ヶ月で米国へいける時代であった。
 
最後のサムライ(13)
2009/1/2(金) 午後 0:08
 
白金の興禅寺を訪ねたとき、萱野の墓の二つ隣に「神保長輝」の墓があった。
そのときは誰の墓であるか、私にはわからなかった。
 
帰宅してブログを書いているうちに、「長輝」は神保修理の諱(いみな)=本名であることがわかった。
 
諱(Wikipedia)によれば、
『諱という漢字は、日本語では「いむ」と訓ぜられるように、本来は口に出すことがはばかられることを意味する動詞であるが、古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったことから、人の本名(名)のことを指すようになった。
諱に対して普段人を呼ぶときに使う名称のことを、字(あざな)といい、時代が下ると多くの人々が諱と字を持つようになった。』
 
「恭順を勧めた為に切腹させられた神保修理」というサイトに会津藩の運命を変え得る人物「修理」が会津にいたことがわかるし、またそれを殺害した者も同じ会津藩士だったこともわかる。
http://konn3563.seesaa.net/article/111055951.html
 
『神保修理は会津藩家老・神保内蔵之助の嫡男として天保五年に生まれる。
神保家は代々会津藩の家老の家柄で千二百石取りであった。
修理は容姿まことに閑雅で藩校・日新館では秀才として評判だったという。
 
慶応二年、会津藩で行われた藩政大改革で人材登用を企画し神保修理と佐川官兵衛の将来を嘱望し、修理に西洋文明を学ばせるために長崎に派遣して内外の大勢を視察させた。
聡明な修理は長崎で進んだ西洋文明や日本国内の情勢を見て挙国一致して外国に当たらなければ日本は外国の植民地にされかねないとの持論とした。
 
軍事奉行添役となった文久三年(注=米国の南北戦争の終結年)、藩主・松平容保の京都守護職就任に随行して上洛して国事に奔走して、伊藤博文や大隈重信ら西国諸藩の志士達と交流を深めた。
 
慶応三年、将軍・徳川慶喜が大政を奉還して大阪城へ退いたが、佐幕派の主戦論者は京都への出兵を叫んだ。
 
これに勝海舟と「神保修理」が真っ向から反対し、会津藩兵から臆病者と非難された。
 
錦の御旗を掲げた薩長軍に鳥羽・伏見の戦いで敗れた幕府軍が大阪城で再出兵の準備をしていたが、「神保修理」は将軍・慶喜や藩主・容保に大坂で戦うことの不利を諭し「新政府軍に絶対恭順」を主張した。
 
会津藩士は鳥羽・伏見の戦いに負けたのは西国諸藩に内通した神保修理の裏切りが原因だといって、(修理は)全藩の恨みを一身にかった。
 
藩主・容保はこのまま修理が会津へ帰れば殺気立った者たちになぶり殺しになりかねないと憂いて、和田倉の上屋敷に幽閉した。
 
また勝海舟も修理の身を案じて慶喜に相談して幕命をもって修理を呼び寄せようとした。しかし、このことが会津藩士をますます激怒させる結果となって、藩主に修理の処断を迫った。
 
また、藩士たちは修理を三田の下屋敷に監禁して慶喜には修理は病気のため療養中との報告をする。
 
修理は藩主・容保に面接させてくれるように頼むがこれを拒否され「主命と偽って切腹」を命じる。(嘘の主命を伝えた人物名をこのサイトでは明らかにしていない。)
 
修理は死に臨み「自分はもとより罪はないが、君命とあらば従うのが家臣の道」といって切腹して果てた。享年30歳。
 
修理の妻、雪子は日本テレビのドラマ「白虎隊」で森繁久弥が演じた井上丘隅(きゅうぐ、またはおかずみ)の次女で、会津戦争の時に中野竹子らとともに娘子隊として活躍した。(白虎隊では池上季実子が演じた)
しかし、官軍に捕らえられ23歳で自刃して果てた。
 
『修理さま雪は』(中村彰彦著、新潮社 1996)という本は、城下戦の混乱で西軍に捕らえられて非業の最期を遂げた神保修理の妻、雪子の物語である。
 
「女達の凄絶な会津戦争:井上丘隅の家族」に雪の姿が描かれていた。
http://shinsengumikaden.blog70.fc2.com/blog-entry-906.html
 
『井上丘隅は(白虎隊の)幼少寄合組隊中隊頭で、この日、滝沢口で戦ったが、破れて退き、甲賀町口郭門で防戦したが、これも破られ、郭門近くの自宅に戻った。
ほどなく敵が攻めて来よう。
丘隅は妻とめ子52歳、長女ちか子31歳、三女雪子23歳を一室に集め、「もはやこれまで」と自刃を伝えた。
 
(雪の夫)修理は徳川慶喜に「江戸に戻り再起すべし」と進言したことが罪に問われたが、「自分に非はない。」と強く主張し、激昂した藩兵に惨殺された」ともいわれている。(切腹説もある)
 
丘隅の家族は皆、円座して、自刃せんとした。其の時、
「雪子、お前は神保家の嫁だ。神保家に戻り、生死をともにすべし」と丘隅は言った。
雪子は戻って婦女隊に加わり戦うが、捕らえられ自害して果てる。 
夫の父、神保内蔵助もこの日、自刃しており、神保家は悲劇の一族となった。
 
嫡男修理の自刃には釈然としないものが、神保家にあったろう。
その不満も含めての一家自害であったと思われる。』(抜粋終わり)
 
最後のサムライ(14) 萱野 権兵衛(かやの ごんのひょうえ)
2009/1/2(金) 午後 2:10
 
私が最後のサムライと読んでいるのは、藩主の身代わりに切腹した萱野権兵衛のことである。
「子作りだけが主な仕事」である大名にとって、実際の政務を執るのは城代家老である。
会津藩の城代家老は西郷頼母である。
しかしこの西郷は神保修理とともに恭順派であった。
軍事奉行添役であった神保修理は、鳥羽伏見の戦いの敗戦の罪を着せられ、切腹あるいは殺害されている。
誰が修理を死に追いやったか?
藩主から切腹の命令だと嘘を修理に告げた重臣がいるが、誰かはわからない。
 
神保修理の父親・神保内蔵助は家老であったが、慶応4年8月21日に西軍によって東部国境が突破された時に、家老田中土佐とともに家老神保内蔵助は自刃している。
 
残った家老萱野権兵衛は城外に出て戦ったが、後に戦陣の将として籠城戦を指揮した。
 
籠城中、本丸の容保の側にあり政務を担当していたのは誰か?
それは家老の梶原平馬である。
 
梶原は城代家老西郷頼母を城の外に出したばかりか、恭順派の西郷の殺害を命令したが家臣に無視されている。
 
主戦論者であった梶原にとって、城代家老西郷頼母や神保内蔵助・修理親子は目障りな存在であったに違いない。
しかし、海舟と志を同じくしていた修理の思想は変わるものではなかった。
 
慶応4年(1868)2月22日修理切腹。
同じ慶応4年4月~7月(1868年6月から8月)、南東北の要地白河城をめぐり、列藩同盟軍(北部政府軍、会津藩、仙台藩、棚倉藩など)と新政府軍(薩摩藩、長州藩、大垣藩、忍藩)が戦った。
 
この戦の最中に、未亡人となった修理の妻神保雪は、梶原平馬や原田種竜らに向かって会津は西軍に恭順すべきであると夫の遺志を建言したが、容れられなかった。
このときより、雪には心中深く期するものがあったという。
 
明治元年(1868)9月22日、午前10時、若松城落城後に会津藩の戦争責任を追求する会議が開かれた。
 
「藩主松平容保は門閥の出身であるから、彼が逆謀を企てたとは思われない。従って会津藩により首謀の者を出頭させるべし」との命が下されたという。
名乗り出たのが萱野権兵衛であった。
 
「門閥の出身」とは徳川家光の異母弟で徳川将軍家子孫という意味であろう。
松平容保は本物の徳川家であるから、徳川家の恭順に対して反対の戦を企てたとは思われないという。
 
その通りである。
 
保科正之の定めた家訓にはそのように書かれており、西郷頼母も神保内蔵助・修理親子もかねがね恭順を会津藩で主張してきたのである。
 
萱野の立場はよくわからないが、藩主の定めに従うというまじめな立場であったのではないか。
 
問題は梶原平馬である。
「逆謀を企てた人物」として手を挙げるべきは梶原ではないのか。
 
梶原も藩主と同じく死を免れた理由に、その血統がある。
梶原平馬は会津藩家老、内藤介右衛門信順の次男である。
後に名門梶原家の養子となる。
 
平馬の実家内藤家は藩主の親戚筋である。
「(会津藩)人名事典」より平馬の長兄である会津藩家老内藤介右衛門信節に関する記事を抜粋する。
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/frame11/jinmei-na.htm
 
『甲斐の武田信玄麾下「武田二十四将」の1人である内藤修理亮昌豊には嗣子がなかったため、高遠城主保科弾正忠正敏の次男を養子に迎えた。
その後戦国期終焉の動乱を経て、この血統が保科正之に仕えて保科家の大老となり「会津内藤家」の祖となった。
 
したがって会津松平家と内藤家は縁戚である。
内藤介右衛門信節は、この「会津内藤家」の9代目で、天保10年生まれ。
11歳で家督を継ぎ、藩主松平容保が京都守護職に任命されると23歳で京都勤番、25歳で若年寄の重職を担い、一時病を得て辞職したものの27歳で若年寄に復職、さらに家老。
このとき実弟の梶原平馬も家老職に就いた。』(抜粋終わり)
 
梶原や内藤家が主家筋の家柄であり、血筋の温存をという思いも萱野権兵衛にあったのだろうか。
 
「会津藩では家老田中土佐・同神保内蔵助・同萱野権兵衛の三人が戦争を指導した。
しかし土佐と内蔵助はすでに切腹しており、権兵衛が謹んで裁きをうける心底である」と自ら申し出て、会津藩における一切の戦争責任を一身に引き受けた。
 
萱野家の祖は昔流浪中に保科正之によって召し出され、今日の萱野家があるという思いがあったようである。
また、内藤家出身の梶原平馬も実は保科家の血筋である。
先祖の恩返しのために、萱野が「藩主と梶原の身代わりになる」ことを申し出た可能性が高い。
梶原平馬に直接会った印象を、イギリスの外交官アーネスト・サトウは『一外交官の見た明
治維新』の中に記録している。
 
『梶原は、シャンペン、ウィスキー、シェリー、ラム、ジン、水で割ったジンなどを、またたきもせず、尻ごみもせずに飲み干し、飲みっぷりにかけては、他の人々をはるかにしのいだ。
彼は色の白い、顔立ちの格別立派な青年で、行儀作法も申し分がなかった』(抜粋終わり) 
武器を大量購入していただく上得意のお客様を悪く書くこともできなかったのではないか。
 
サトウは梶原にイギリス公使パークスを紹介し、そこからスネル(兄弟)を紹介され武器購入の外交担当として活躍していくことになる。
 
西軍もグラバー経由で英国の武器を買い、東軍もスネル経由で英国の武器を購入していたのだ。
 
国を2分して戦わせて内乱状態に追い込み、戦費借款をたてに植民地化する手法は、英仏が世界で展開してきた巧妙な植民地政策である。
 
現代の世界においても、アフリカや東南アジアで同じ方式で英仏+米国は政策介入を図り続けている。
 
維新後に、梶原平馬を函館に誘った人物に会津藩士雑賀孫六郎(重村)がいる。
 
雑賀孫六郎は、1854年(安政元年)に蝦夷北島を巡視して、1859年(安政6年)斜里に在勤している。さらに幕府海軍に入り開陽丸に乗っている。
戊辰戦争では新潟港から榎本武揚の元へ援軍要請に行き、そのまま榎本軍に入隊した。
戦後は斗南藩を経て北海道開拓使に出仕、室蘭港の築港に尽力した蝦夷開拓の専門家である。
 
雑賀孫六郎に誘われて箱館へ渡った梶原平馬は、一時期農業を志したようだ。
後、妻テイの塾を手伝い、テイが根室の花咲尋常高等小学校勤務になると緑町1丁目で文房具店を開いた。
最後は妻テイのお世話になる人生だったようだ。
梶原の半生を見ると、どうやら才覚があった人物ではないように見える。
単に藩主の御意を得て藩の金を動かせるという人物であったのだろう。
そこへスネル兄弟がうまく商いをしたのである。
「人名事典 梶原平馬」に梶原の戦争責任に対する「姿勢」が書かれていた。
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/frame11/jinmei-ka.htm
 
『慶応4年4月29日、仙台領にある関宿において仙台・米沢・二本松各藩の代表と「会津藩救解」について会談の席に着いた平馬は、新政府総督府への交渉前提として要求された「藩主の城外謹慎と、首謀者の首級差出」のうち「首謀者の首級差出」を断固拒否。
「それでは開戦は避け難い」という仙台藩士但木土佐に対して、「ならば、会津は全藩を挙げて、死をもって国を守るのみである」と応じた話は有名。
その実、平馬はその席において「今ここで私が切腹しますから、この首をお持ちくだされたい」と主張したといい、実際米沢藩重臣はそのようにしようとしたが、「首を持っていくのは新政府からの沙汰があってからでよい」ということに落ち着いたという。』
 
「空元気」はあるものの優柔不断のところがある人物だったような印象を受ける。
 
戊辰戦争後、斗南移住を経て青森県の庶務課長を2ヶ月ほど勤め、明治8年春に若松に戻った後、平馬の足跡は忽然と消える。
 
彼の墓の在処がわかったのは100年以上の年月を経た昭和63年になってから、内藤家にあった古い過去帳が発見されてからである。
会津藩最後の筆頭家老の墓は、根室市西浜町墓地の一角に浮世を憚るようにつつましく建っている。周囲にハマナスの花が咲く、空の美しい場所だという。
(参考:好川之範「梶原平馬」 『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収)
 
松平の名と脇差を藩主から受け取るほどに、スネルと梶原と松平容保を結びつける何かがあったのであろう。
私はそこに「神への信仰」があったのではないかと思っている。
 
蒲生氏郷以来、長い間会津に潜伏していたあのキリシタン信仰である。
全滅するまで戦うという崇高な遺志は、保科正之の遺した家訓からは読み取れない。
官軍もそこに疑念を持っていたようだ。
何がここまで会津を主戦論に引っ張らせたのか?
真実の答はとうとう世に出ないまま歴史の幕は落とされた。
 
真実を闇に葬った男、それが萱野権兵衛なのである。
 
最後のサムライ(15)最終回
2009/1/2(金) 午後 4:36
 
籠城中に会津藩家老になった男がいる。
 
山川浩(はじめ大蔵(おおくら)と称す)である。
父・山川尚江重固を16歳の時に亡くしたため、祖父である元家老・山川兵衛重英の影響を強く受けた。
 
18歳で物頭となり、文久3年に守護職として京の藩主容保の君側奏者番として仕えた。
当時は激烈な攘夷主義者であったそうだが、慶応2年(1866)10月、幕府の外国奉行小出大和守の随行員として欧州に派遣させられたとき、開明的な思想に転向したようである。
つまり恭順派である。
 
この山川浩の弟が山川健次郎であり、会津白虎隊に所属していた。
戊辰戦後、斗南藩として松平家が再興すると権大参事として赴任している。
1871年(明治4年)の斗南藩再興のあとに新政府よりアメリカへの国費留学生に選抜され渡米し、翌年イェール大学で物理学学位を取得し帰国している。
 
この記事を書きはじめたとき、白金の東京大学医科学研究所の敷地にシュロの木を見たが、そのとき東京大学総長となった会津藩士のことをふと思い出した。
それが「山川健次郎」であった。
 
1901年(明治34年)48歳で東京帝国大学総長となり、1911年(明治44年)には九州帝国大学の初代総長となっている。
 
山川浩と健次郎の妹に、山川二葉(ふたば)がいる。
あの主席家老梶原平馬の最初の妻で、戊辰戦争後に離婚している。
離婚の理由は不明だが、離婚後まもなく梶原は姿を消してしまった。
その後で京都で知り合ったという水野テイと結婚し北海道に暮らしているが、おテイの支援を受けながら平凡な余生を送っている。
 
しかし、山川二葉は兄たちの影響もあってか、離婚後は社会に出て活躍しているようだ。
明治10年(1877)東京女子高等師範学校に生徒取締として出仕し、永く女子教育に携わり高等官四等を受け、従五位に叙せられている。
その妹に山川捨松がいる。
捨松は、斗南藩時代の生活苦のために兄の山川浩から里子に出されたりして苦労をしているが、後に大山厳元帥の妻となっている。
兄弟姉妹の明治以降の発展の様子を見る限り、梶原平馬は山川家から見捨てられたようにも見える。
離縁したのは梶原からではなく、山川家からであったのではないだろうか。
 
会津戦争回避の案が幾たびも藩主に出されたが、西郷頼母や神保修理などの恭順派を駆逐し、頑固に主戦を唱えた梶原平馬の見識のなさを、山川兄弟姉妹は悟ったのであろう。
後編完。

全責任を一人で負った会津藩家老、萱野権兵衛の墓(前編)

春日局の姪である祖心尼が住んだ会津で祖心尼の家で居候が子を産んだ。それが山鹿素行です。
拙著過去記事より会津藩家老の墓石を訪問した記録を再掲します。
 
「最後のサムライ(1) ケータイ投稿記事」
http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000/56342595.html
2008/12/31(水) 午後 4:15
0448(東京大学インターナショナルビレッジ) 写真は以下略とします。
0451(白金台4丁目)
0450(見事なシュロの木、4本揃い!)
 
大みそかの地下鉄はガラ空きである。
飯田橋から南北線に乗換え、白金の興禅寺へいこうと思う。
そこに会津藩最後の武士が眠っているのだ。(日本国最後の武士と言っていい)
地図を見ると、その寺の南に東大医科学研究所があり、北東に聖心女学院があり、両者に挟まれたような位置関係にある。
 
幕末に会津藩城代家老であった萱野権兵衛の墓に参ろうと思っている。
年内に行こうと思いつつ、つい延び延びにしていたが、我が家の暮れの大掃除が一段落したので師走の町を歩くことにした。
 
途中、東京大学インターナショナルビレッジという寮があった。
名前からすると海外留学生の寄宿舎マンションであろうか。
 
解雇された派遣社員が住むところがないという師走に、立派なマンションに外国人が住んでいる・・・。
 
ヒットラーのことをふと思い出してしまった。
ゲルマン人(ドイツ人)がユダヤ人移住者に仕事を奪われ、腹いせにユダヤ人迫害を旗印に挙げたナチスの苦い歴史である。
 
東大の初代学長は確か会津藩士だったと記憶しているが、今は地下鉄内で携帯電話から記事を送信しているので調べることもできない。
 
南北線白金台駅から徒歩で10分程度北へ歩く。
地図を見ながら歩いてきたが、道を間違えたようだ。
もう一度地図を眺めると、「ナザレ通り」の近くまで来たようだ。
 
「ナザレ?!」
 
キリストの出身地の名前である。
はりつけ像の頭の上にINRIというサインがある。
ローマ帝国がキリストに与えた罪名である。
「ナザレのイエス、ユダヤの王(の名を語る罪)」という意味である。
 
ナザレのNにNAを当てるとINARIになる。
 
わが国最初のイナリ神社は渡来ユダヤ人秦川勝(河勝とも書く)が京都伏見に建立した伏見稲荷神社である。
そのナザレ通りが白金台にあった。
 
私はいま会津国家老の萱野権兵衛の墓を探している。
その時にナザレ通りにであったことに驚きもするが、また納得もしている。
 
会津とういう地は、豊臣時代は蒲生氏郷という強豪でもあるキリシタン大名が治めた国であり、東北地方ではキリシタンの中心的都市だった。
祖心尼も山鹿素行も会津に住んでいたのだ。
山鹿素行は会津生まれなのである。
 
一旦外苑西通りに出て少しもどると、出光ガソリンスタンドの近くにシュロの木が二本見えた。
 
ここから曲がるのだろう。そう言えばこの石油会社も「光」の文字を持っている。
「光」はユダヤ経では、神が喜ばれるものと言われている。
日本の神社の神輿に金箔や金色の金細工が多用されているのはその影響であろう。」(抜粋終わり)
 
クリスマスイブは神の子イエスの生誕を祝って、町は光輝いていた。
自分の書いた記事ですが、再度読んでみて面白かったので、以下このシリーズを前後編にして掲載します。
 
以下は前編の残りです。
 
最後のサムライ(2) 
0440(南北線白金台駅前)
0441(突き当たりに屋敷がある)
0442(洋館風屋敷にシュロの木が見える)
0443(近づいてみるとシュロの木は6本だった)
0444(中国料理白金亭)
 
写真上の左端にあるのが外苑西通りでそこを北上すると東大医科学研究所である。
地下鉄駅を地上に上がってみたこの光景に、江戸時代からあるのではないかと思われる路地があった。
そこを歩いてみた。
 
路地突き当りの洋館風屋敷に近づいて、庭を良くみると、シュロの木が6本ある。
左に折れて外苑西通りに出ると、その洋館に隣接して中国料理「白金亭」があった。
シュロの館は、その料理店主の居住館であろうか。
中国からシュロが伝わってきた可能性があるだろう。
 
ザビエルは、中国の文化を媒介にして日本国への布教を目論んでいた。
(ザビエルの)死の直前のことである。
 
(筆者後日挿入:
そのやり方が気に入らないということで彼は殺されたのではないかと私は推理している。
黄色い肌の色をした日本人と中国人と、そしてバスク人であるザビエルに共通の幸福追求のシナリオをザビエルが描いていた可能性はないとも言えない。
彼は日本に入国してから、日本人の資質の良さと勇敢さを学んだはずである。
それを利用してアジアの平和と、ひいてはバスクの独立を目論んだとしても不思議ではない。織田信長はその十字軍の先頭に立つ男だったのではなかったか・・・?
「遺伝学的特徴[編集]
バスク人のY染色体はハプログループR1bが9割の高頻度を占める[17]。ハプログループR1bは印欧語族到達以前にヨーロッパ西部に移住した集団の遺伝子と考えられている。またバスク人は表現型で最大35%、遺伝型で60%がRh-型の血液である[18]。
 
形質人類学的特徴[編集]
人類学的には、バスク人は「鼻の長い中頭、額はこめかみの部分が広く下あごに向かって狭くなる(少し長めの逆二等辺三角形)」とされる[16]。」(バスク人-wikipediaより))
 
(過去記事再開)
地下鉄を出て私の直感に従い路地に入り、いきなりのシュロの木の歓迎を受けた。
 
皆さんに断っておくが、このブログのサブテーマはシュロの木であるが、今日は私はシュロを見に白金へ来たのではない。
会津藩家老の墓に向かおうとしているのだ。
 
しかし、いきなりシュロが私を歓迎しているということだ。
 
最後のサムライ(3)
2009/1/1(木) 午後 2:27
 
0445(P=駐車場標識の下にシュロの木)
0446(塀の向こうは自然教育園)
0447(路地の角にもシュロがある)
 
外苑西通りを歩いていくと歩道にシュロの木があった。
その左手奥は自然教育園である。
塀の向こうに無数のシュロの枝が見えるが、今日はそこに寄る予定はない。
別の機会に訪ねてみよう。
 
江戸時代に水戸藩と関係ある土地ではないだろうか?
あるいは薩摩藩の可能性もあるだろう。
シュロが繁茂していることで、私はふと、そう感じただけである。
 
路地の角にもシュロの木がある。
何か信仰に関係ある場所へいざなう案内の印であろう。
最後のサムライ(4)
2009/1/1(木) 午後 2:45
 
0460(見事なシュロ)
0466(宿舎か学校のような屋敷)
0470(医科研究所裏門)
0472(ぞうさんの滑り台)
 
白金第一マンションズの坂を上っていくと、見事なシュロが沢山見えてくる。
寄宿舎か学校のような屋敷の庭に沢山生えている。
裏手に回り込んでみると、そこは東大医科研究所の裏門であった。
木戸が開いているので医科研究所の敷地に入り、先ほどのシュロの庭の持ち主を確認してみよう。
裏に回ると「ぞうさんの滑り台」が見えたので、幼稚園または保育園であることがわかった。
東大医科学研究所の敷地内にある幼稚園か保育園の校舎の庭にシュロが並んでいたのである。
 
最後のサムライ(5)
2009/1/1(木) 午後 3:02
 
0473(聖心女学院中学高校のレンガ塀の中にシュロの木がある)
0474(鮮やかな紅葉)
0475(校内にもシュロの木がある)
 
なかなか興禅寺にたどり着かないが、シュロの木には沢山出会っている。
「会津らしいなあ」と、私は感じながら住宅街を歩いている。
 
地図によれば、興禅寺は東大医科研究所と聖心女学院中学高校の敷地と接するような関係にある。
あの赤いレンガ塀は聖心女学院中学・高校である。
年末ではあるけれど、学院の校庭にまだ散っていないもみじが見える。
赤いレンガの向こうであるが、「キリストの鮮血」を思わせるほど鮮やかな紅葉が美しい。
それはいかにもカトリックらしい光景であると思う。
 
松蔭神社でも、高杉晋作の東行庵(墓所)にある紅葉谷でも、同じようなあざやかな紅葉を見たことがある。
 
「楓」の意味は十字架のキリストの鮮血、転じてキリストへの信仰を示唆している、そう私は思っている。
秋田の涙のマリアさまの「羊の庭園」を歩いてみれば、そのことが誰にも体感できるだろう。
理屈の世界ではなく、「芸術的な語りかけ」の世界である。
 
モーセがBC13世紀に定めたルールがある。
日本国が誕生する千年以上も前のことである。
 
神を祝うのにナツメヤシ(和訳ではシュロ)の枝を用いよと定めて以来、世界中でユダヤ人はナツメヤシ(日本ではシュロ)の枝で神を祝うのである。
 
旧約聖書はナツメヤシと原語で書いているが、日本へ持ち込まれたとき棕櫚(シュロ)と和訳された。植物の北限と関係あったのかもしれない。
青森県では棕櫚を見たが、北海道では見たことがない。
北海道はアイヌの土地であり、朝鮮半島から渡来してきた人々の土地ではない。
 
この聖心女学院の校内にシュロの木があるのは、それとはちょっと意味が異なる。
 
現在、カトリックでは「枝の主日」にシュロの枝でイエスの復活を祝う。
ここのシュロは、イエス復活の祝意を示しているのだろう。
イエス復活の日を「枝の主日」といい、その枝がシュロの枝のことである。
シュロの枝をエルサレムに住む人々がいかに大切にしてきたかがわかる。
 
ユダヤ経、カトリックともにユダヤ人の慣習であるから、起源はモーセに遡るのである。
イエス・キリストはユダヤ人であり、かつ私たちと同じ肌の色をしたアジア人であることに、最近私は気づいた。
 
イラン、イラクの人々はとうの昔にそのことをよく知っている。
 
私たちの時代の日本人は、西洋の史実に対して疎い。
そうなるような教育を、意識してこの国ではやっているようである。
 
最後のサムライ(6)
2009/1/1(木) 午後 3:47
 
0478(SACRED HEART)
0495(黒い火山岩とススキに隠れている門柱)
0497(蜀江坂上にある興禅寺の石柱)
 
聖心女学院の赤レンガに沿って歩いている。
聖心女子専門学校の英語科、保育科の標識とともに「SACRED HEART」という看板が見えてきた。
「SACRED HEART」とは「聖なる心」という意味であろう。
同校のサイトから沿革を抜粋する。
http://www.sen-sacred-heart.ac.jp/index.html
 
『聖心女子専門学校は、1800年フランスに創立されたカトリック修道会「聖心会」を母体としています。
創立者「聖マグダレナ・ソフィア・バラ」は、革命の嵐吹く当時のフランス社会にあって、荒廃した人の心を救おうと、キリストの精神に基づく「全人教育」をしたいと願いました。
こうして、子供たちをキリストの聖心から託された宝として受け入れ、信仰に根ざした隣人愛に開花することを念願してはじまったのが聖心女子学院の教育です。』(抜粋終わり)
 
1801年に聖マグダレナ・ソフィア・バラがフランス、アミアンに聖心女子学院を創立したことが起源である。
1908年(明治41年)にオーストラリアより聖心会の修道女が来日し、語学校を開いたことがわが国での始まりとなる。
 
「SACRED HEART」という看板の場所から、左手を見ると路地の四つ角が見える。
そこに黒い火山岩と植栽で小さな築庭があり、草の間から門柱が見える。
近づいてみると門柱には「興禅寺」と書いてある。
 
昔は東大医科学研究所や聖心女学院と興禅寺の一帯が会津藩の敷地だったと私は思う。
寺の境内とこの門柱の間に駐車場や民家がある。
寺が土地を民間に切り売りしたのか、この四つ角には門柱だけしかない。
 
左手奥に個人住宅のような様相の「寺の屋敷」が見える。
あそこが興禅寺であろう。
 
江戸の昔は会津藩にゆかりの敷地内にあった寺であろう。
会津はキリシタン大名の蒲生氏郷改易後、全国に浪士家族が散っていっただろう。
しかし、江戸時代末期においても相変わらずキリシタン信仰は続いていたように思われる。
会津市内でキリシタン塚を訪ねたことがある。
江戸時代は当然であるが、隠れキリシタンである。
会津白虎隊をたずねたときに、私は彼らをキリシタンではなかったかと感じていた。
カトリックでは自殺を禁じていることから、そうではないようにも思われる。
 
しかし、この国ではいかなる宗教も渾然一体として融和している事実がある。
切腹を是とする武士もカトリック信者になれるという折衷案が江戸時代にあったのかどうか。
日本人らしい和洋折衷があったとすれば、白虎隊もキリシタンであった可能性も浮かんでくるような気がする。
 
「蜀江坂」という標識の少し上に興禅寺の門柱が位置していた。
このあたりは昔「蜀江山」と称されていたらしい。
 
『天慶の乱の際、この地で平将門が蜀江錦の衣の袖を落としたから、(中略)
また江戸時代、三代将軍家光が紅葉の美しさを蜀江の錦のようだと称賛したから、などである。』(「蜀江坂(しょっこうざか)」より)
http://www.tokyosaka.sakura.ne.jp/shinjuku-shokkouzaka.html
 
『蜀江の錦とは、中国の蜀(現在の四川省)から産出した錦。
蜀は漢代から蜀錦の名で知られた錦の特産地で、その伝統は近世まで続き長命でありました。
弘法大師の著作の中にも「蜀江の錦」ということばが出てきます。』
(真言密教 弘憲寺サイトより)
http://www.koukenji.com/3.html
 
また、このサイトには「蜀江の錦」を「紅葉の形容」に用いていた。
「九頭竜湖に到る山々は紅葉の真っ盛り、赤、黄、茶と見事なまでの紅葉です。
まさに蜀江の錦かと形容されるにふさわしい景色です。」と。
 
棕櫚、もみじ、錦とつながってくる。
日本の古代の錦といえば西陣織である。
あの官軍が掲げた錦の御旗も西陣織の呉服商に長州藩が発注して織らせたものである。
 
機織(はたおり)は渡来ユダヤ人秦(はた)氏の主だった職業でもあった。
羽田氏などと苗字は派生しているが、この国に「ハタ」を苗字に持つ人は多い。
 
弘法大師空海は中国から密教を本格的に日本へ伝来させた人物である。
その密教経典の中には、漢字で書かれた「旧約聖書」があった。
最澄も密教を持ち帰っていたが、それは新約聖書の漢訳版であった。
 
空海の時代から、この蜀江山付近は紅葉の鮮やかさで有名な土地だったのではないだろうか。
このブログで以前書いた「松蔭、晋作の楓の契り」は、案外空海の密教と深い関係があった可能性があるのかもしれない。
空海は佐伯真魚という名前で、佐伯氏は渡来ユダヤ人である。
よって空海はカトリックではなくユダヤ教に近いのではないだろうか。
 
そう考えると、松蔭、晋作の信仰も密教、つまり旧約聖書の信仰である可能性もあるだろう。
山口でのザビエルの布教実績を考えれば、戦国時代以降の日本人はやはりカトリックの影響を強く受けていると考えることもできよう。
 
最後のサムライ(7)
2009/1/1(木) 午後 5:10
 
0479(石柱)
0481(興禅寺)
0486(墓所への入り口の格子戸は閉まっている)
 
興禅寺の門柱の向こう側に寺がある。
一見すると一般住宅のような和風住宅がお寺である。
 
玄関先に「子供は親の言うようにはならぬ 親のしているようになる」という教訓の張り紙があるので、ここがお寺であるとわかる。
 
「親のしているようになる」というくだりを読んで、なぜかドキッとしてしまう。
なかなか上手いマインドコントロールである。
 
玄関脇に銅製の緑青を帯びた文字で「臨済宗妙心寺派 大雄山興禅寺」と書いた表札がある。
 
「京都の妙心寺」と言えば、キリシタンの南蛮寺にあった晩鐘が保存されているキリスト教にゆかりの深い寺である。
キリシタン灯篭もそこに保存されている。
 
京都妙心寺の雑華院は、祖心尼の父でキリシタン大名の牧村利貞が建立したものである。
春日の局の姪であるおなあ(後の祖心尼)が、大奥に上がって禅の講和を奥女中たちにしているとき、あの説教はキリシタンの教えであると将軍家光に讒言されて、おなあがあわてて出家剃髪したのも、京都妙心寺の雑華院であった。
 
祖心尼の弟である牧村家の嫡男牛之助を暗殺し、牧村家の所領を奪い取った伯父稲葉道通(伊勢岩手藩の第2代藩主)の墓所も雑華院である。
 
綱吉の時代に大老堀田正俊が稲葉正休に江戸城内で刺殺され、直後に稲葉正休も滅多切りされて殺された。
二人とも春日局の孫縁にあたる。
これ以降、大老職を置かなくなり、拙速な幕府側用人政治のために忠臣蔵の悲劇を生じることになる。
 
キリシタンと関係の深い「妙心寺」として私の記憶の中に深い根を下ろしている。
その寺の名前が、ここ興禅寺の表札に書かれていたことに驚いた。
 
しかし、それも会津らしい・・・。
 
玄関の左側に広い格子戸がある。
墓所への入り口のようであるが、格子戸は閉まっている。
大晦日の日にお参りする人も少ないので閉めているのであろう。
勝手に格子戸を開けて入っていいものかどうか、少し迷い、墓所周辺を歩いてみた。
墓所の裏口門が開いている場合があるからである。
しかし、ここは住宅地の真ん中であり、墓の裏側へつながる通路は見出せなかった。
 
ここまで訪ねてきて、萱野権兵衛の墓を見ずに帰るのはいかにも惜しい。
玄関前に戻って、しばらくそこに立ち止まって思案していた。
 
最後のサムライ(8)
2009/1/1(木) 午後 6:07
 
0487(萱野国老敬仰碑)

Gonbee

0488(萱野長修之墓)
 
興禅寺は延宝二年(1674)開設、開基は上杉定勝の娘、長松院で、米沢藩上杉家の菩提寺である。
まだその玄関前で、ただの墓石見物者である私は墓所へどうやって入るか迷っている。
 
私は3歳のころから曹洞宗禅寺の僧侶である祖父の庫裏に何度も遊びに行っている。
そこは木戸門などもなく完全にオープンであった。
信者であれ泥棒であれ、自由に境内に出入りできる仕組みであった。
 
都会にあるこの寺の格子戸は閉じられているけど、心の中ではオープンであるはずだ。
私は臨済宗の信者でもないけれど、お釈迦様は墓参りを規制してはいないはずだ。
そう思って無断で格子戸に手をかけてみた。
不法侵入の気持ちも若干抱きながらの行為である。
寺に用があるわけではないが、だからといって泥棒を働く意思もない。
軽い力でカラカラと心地よい格子戸の音が鳴り、簡単に開けることができた。
「御用のある方はお呼び出しください」という張り紙が勝手口に貼ってある。
 
私は「御用のない者」であるので、それは無視して墓所へと進んでいった。
墓所は一段高いところにあるので、階段を数段あがった。
入り口に一番近いところに萱野権兵衛の墓らしきものがある。
墓碑には「萱野長修(ながはる)之墓」と書いている。
萱野権兵衛の本名は長修(ながはる)である。
 
墓の横に黒い御影石に文字を刻んだ「萱野国老敬仰碑」が立っている。
 
『徳川幕府の末、天下大いに乱る。
此の時、我が会津藩主松平容保公は推されて京都守護職の大命を拝し、朝廷幕府諸藩の間に立つて報公の誠を效たす。
國老萱野長修、命を奉して藩政を執り、三軍を督し、粉骨臣節を尽す。
戦終つて後、聖天子我が藩公を寛典に処し、首謀の臣を索む。
因つて國老は、同僚田中土佐、神保内蔵助と之に当る。
然るに田中、神保は八月二十三日西軍鶴ヶ城下侵襲の日、自刃す。
國老罪を一身に負い、翌明治二年五月十八日保科邸に於いて死を賜い、芝白金興禅寺に葬らる。
國老の殉節により主家は再興し、其の臣は皆罪を免せらる。
その忠烈凛として天日を貫く。
今年 百回の忌辰に当る。
不肖その墓に詣で、入つては相、出てては将、一死国に殉せし大義を追恭して去る能はず。のち墓碑を巌修しその傍に此の碑を建立し、以つてその大義を不朽に伝えて、世道人心の作興に資す。
   昭和四十三年五月十八日
   会津会 会長 柏村 毅』(句読点はブログ記事筆者が追記したもの)
 
こう書いてある。
 
鶴ヶ城下が官軍に襲われた日に他の家老2名は切腹死していた。
明治になり天皇により会津事件の首謀者詮索が行われたが、たった一人生き延びた萱野権兵衛は、首謀者は私であると名乗り出て「保科邸に於いて死を賜い」とあるから、藩主や藩士たちの罪を一身に背負って切腹をしたのである。
 
切腹の様子は以前このブログに書いたことがある。
堂々たる最後の様子が言い伝えられている。
明治2年の切腹はわが国最後のサムライにふさわしいと思った。
 
このおかげで松平容保は助命され、後に華族に列せられる栄誉を得ている。
切腹を賜ったのが保科邸であることは会津藩士にとって大いなる名誉であっただろう。
 
家光の異母弟であった保科正之は、家綱の補佐をしていたことは「忠臣蔵の背景」記事で述べた。
後に幕府より保科は松平姓を名乗ることを許される。
しかし、養育してくれた高遠藩の保科家への恩義を忘れぬために生涯保科姓を用いた。
その子から松平を名乗り、会津藩主として幕末の松平容保まで家系は続いていった。
 
それが戊辰戦争の罪を負い会津松平家が廃絶する危機を向かえていた。
それを救ったのが萱野権兵衛であり、その切腹の晴れの舞台を提供したのが保科家であった。
 
萱野権兵衛は喜びを感じつつ腹を切ったのであろう。
 
しかし、残された家族にとっては、主の切腹の2年後に「次男の切腹」という悲劇を迎えてしまう。
 
萱野権兵衛の家族は、父亡き後は母方の姓「郡」を名乗る。
次男の「郡 長正」は、九州留学中に会津武士の屈辱をはらそうと16歳の若さで切腹して果てた。
その様子は『郡 長正 ~会津武士の子として~』
に詳しく述べられている。
 
親子そろって、最後のサムライといえるだろう。
この墓に松平容保もお参りに来たという。
当然であろう・・・。
 
最後のサムライ(9) 生き延びていた会津主戦派家老、梶原平馬
2009/1/1(木) 午後 9:22
 
「幕末会津藩士列伝」を見ると、「奥羽越列藩同盟に奔走した主戦派家老、梶原平馬」の名が見つかった。
萱野権兵衛よりも上格で、かつ「主戦派」の家老がいたのである。
http://bakumatu.727.net/aidu/aidu-jinbututop.htm
しかも驚いたことに明治以降も生き延びている・・・。
 
会津藩家老、内藤信頼(2200石)の次男という会津藩名門の生まれで、これも名門梶原家に養子に行った人物である。
「梶原平馬」というサイトには、彼が京都で活躍して家老に昇進したことが述べられていた。http://www.namara-hokkaido.net/rekitan/entry.php?id=156
 
『(梶原平馬は、)藩主松平容保が京都守護職として上洛する際に、大目付として同行しました。
そして常に容保の側近として活動していきます。
その後1866年慶応2年、若干24歳で家老に昇進しています。』
 
「会津藩最後の首席家老」(長谷川つとむ著、中公文庫1999.5.3)に梶原平馬の曾孫が書いた本がある。
 
著者はその中で、
「平馬は会津戦争の指導者・責任者であり、その後一世紀にわたる一族の冷飯食いっぱなしのもとを作った男だと思っていた。」と書いている。
 
梶原は戊辰戦争後に離縁し、新たな女と世帯を持った。
著者は離縁された側の曾孫にあたる。
 
なぜ、主戦派の主席家老が曾孫から悪口を言われるまでに長生きしているのだろうか?
私の疑問はその一点に集中してきた。
ここ興禅寺を訪問したのは、会津戦争を主導した罪で切腹した萱野権兵衛の墓に参る目的であった。ところが切腹した家老は主戦派ではなかったようだ。
籠城戦で陣頭指揮を萱野がしたのは事実であるが、それは藩主の決定がなされたあとの行動である。
 
藩主の意思決定の場にいて、主戦論を主張したのが梶原のようである。
梶原の墓は北海道根室市西浜町の市営西浜墓地にあるという。
 
「敗戦後、容保が江戸護送となった時、随行し、鳥取藩池田邸に幽閉される。
容保の子容大の家名相続を新政府に嘆願するなど、旧会津藩の名誉回復のために奔走した。
明治3年斗南に移住し、青森県庁の庶務課長を務めたこともあったが、その後の消息は不明。明治22年没。47歳。」
(「梶原平馬の墓」より)
http://kyuyuroku.blog8.fc2.com/blog-entry-15.html
 
彼の死は100年以上も誰にも知られることがなかったそうである。
昭和63年(1988年)に平馬の兄である内藤介右衛門の孫にあたる萱野恒雄氏によって、平馬の墓が根室で発見されたのである。
 
このことから梶原平馬は親戚にも北海道で生きていることを知らせていなかったことがわかる。
「生き恥」を感じていたのであろうか・・・。
 
もっとも、平馬は藩主容保の子を斗南藩主にして会津松平家を存続させたり、主席家老らしい藩再興の努力はしているので、戦後すぐに逃亡したわけではない。
 
戦後処理を行い、廃藩置県が実施されてから姿を消している。
家老としての役割の消失とともに、自身の姿も消したのであろう。
 
会津の故郷の人々から侍としての誇りを問われたならば、萱野権兵衛の最後の姿が眼に浮かび、断腸の思いがしたことであろう。
 
会津藩には格式を重んじる藩風があった。
梶原平馬が会津戦争の主犯格であるのにも関わらず、家格の低い二家老を切腹させ、それでも新政府は容認しなかったため、3人目の家老萱野権兵衛をも切腹させて、藩主と平馬自らの命乞いをしたのである。
 
梶原平馬贔屓から見れば、それには別の表現があろうが、生死の別れという意味で事実は変わらないだろう。
だからこそ梶原は会津から姿を消したのである。
梶原自身がその罪の深さを一番よく分かっていたのではないだろうか。
明治後に藩主は華族になれたようだが、梶原のその後の生活はそれほど恵まれなかったようである。
 
萱野権兵衛の妻や子は、そういう格式を事実より重んじる会津の風をよく知っていたのであろう。
我慢せざるを得なかったのだろう。
萱野の未亡人は、子供に常々「萱野権兵衛の子であることの誇りを忘れるな」と教育していたようだ。
 
それが2年後に次男の切腹を生むことになるのだから、ことごとく運の悪い一家であった。
 
萱野の死は、藩主の身代わりになるという積極的理由以外にも、主戦派の主席家老を逃すための犠牲でもあったのだろう。
 
梶原が事実に基づいて切腹していれば、貧しくとも萱野権兵衛は生きながらえることができたかもしれない。
萱野家に主がいれば、次男郡長政の切腹などが生じることはあるまい。
無責任な男の存在が、多くの人間の不幸を生んでしまっている。
畢竟、「人が生きる」ということは、そういうことなのであろうか。
 
最後のサムライ(10)
2009/1/2(金) 午前 0:57
 
大晦日に訪ねた萱野権兵衛の墓についてこの項は書いている。
帰宅して調べているうちに、萱野よりも上格である主戦派の家老が生き延びていることを知った。
 
藩主の命を救った「最後の侍」として萱野権兵衛を称える気持ちでお参りしたのだったが、今はそう簡単な背景で萱野が切腹を受け入れたのではないような気がしている。
 
ひとつの仮説として、「家老梶原平馬は切腹をできない事情があった。」と考えている。
どうしても切腹できない理由とはなんだったのだろう。
今は、その「謎」について考え始めている。
カトリック教徒であれば、自殺は許されないという線もあるだろう・・・。
 
その線を匂わせる事実があるかどうか、今のところその根拠は見当たらない。
会津藩の家老の家系であれば、蒲生氏郷以来の海外宣教師との交流は続いていた可能性があるのではないか。
 
また離婚してから再婚した相手、水野テイが教育者であったこと、旗本屋敷の多い江戸新道五番町の水野家の生まれであることなども興味深い。
 
「資料編 南北戦争後の武器や軍艦の払い下げ」には、戊辰戦争で使った武器は米国の南北戦争のものであるとの記述があった。http://sun.ap.teacup.com/souun/1226.html
 
『文久元年(1861)に始まったアメリカの南北戦争が文久3年、ゲティスバーグの決戦で北軍が勝利して終わりましたが、用がなくなった武器が日本へ流れ込んできて、戊辰戦争に「活用」されたのです。』
 
文久3年(1863年)の出来事を抜粋してみる。
 
4月21日(文久3年3月4日) - 徳川家茂が上洛(将軍の上洛は229年ぶり)
4月28日(文久3年3月11日) - 孝明天皇が賀茂神社へ行幸
4月30日 - 南北戦争: チャンセラーズヴィルの戦い(?5月6日)
5月28日(文久3年4月11日) - 孝明天皇が石清水八幡宮へ行幸
6月25日(文久3年5月10日) - 馬関戦争
7月1日 - 南北戦争: ゲティスバーグの戦い(?7月3日)
7月13日 - 南北戦争: ニューヨーク徴兵暴動
7月22日(文久3年6月7日) - 長州藩で奇兵隊編成さる(高杉晋作ら)
8月15日(文久3年7月2日) - 薩英戦争 (?8月17日 (7月4日))
9月30日(文久3年8月18日) - 八月十八日の政変
11月19日 - 米合衆国リンカーン大統領がゲティスバーグで演説(人民の人民による人民のための政治)
 
そして翌年元治元年6月5日(1864年7月8日)に「池田屋事件」が起きている。
 
英仏による長州や薩摩との戦は、米国の南北戦争の終末期に発生しているのである。
米国の南北戦争へ向けて英仏が大量の武器を売って儲けただろうことは明らかである。
次の戦争場所として、英仏が「日本列島」を狙った可能性がある。
 
フランスは幕府軍事顧問を、英国は薩長連合軍側に武器供与をしている。
そしてあとでわかるが英国は会津にも武器を売っていた。
会津で多くの血を流させた武器は、双方とも米国の南北戦争の余剰武器を英国から買ったものである。
 
「資料編 南北戦争後の武器や軍艦の払い下げ」というサイトに東北地方の武器商人であるスネル兄弟の行動が紹介されている。
http://sun.ap.teacup.com/souun/1226.html
 
『平松武兵衛の印象を米沢藩士甘粕継成が文書で残しております。
「時にスネル、深く米会(米沢、会津)の義挙を悦び、専ら尽力する心得にて髪をきり、日本製の袴、羽織を着し姓名を改めて平松武兵衛と称する。
そもそも平松年頃三十歳前後、眉目清麗、会老侯(松平容保)より賜りし小脇差を帯し来る。実に一箇の美男子なり」。
彼は会津に屋敷を買い、日本人女性を妻にしたのです。
そして、越後方面軍の軍事顧問に就任しております。
そしてもう一つ、戊辰戦争の終わり以来、姿を消していたエドワードかヘンリー(スネル兄弟)が明治2年4月、アメリカの新聞に登場するのです。
彼はサンフランシスコの北東、アメリカン・リバーに近いエルドラド郡コロマ村で農場建設に励む日本人移民の指導者として紹介されています。
この日本人移民は会津藩士たちだと言われております。』(抜粋終わり)
 
この記事にあるようにスネルは松平容保から小刀を賜っているが、同時に「松平姓」を名乗ることも許されている。
藩主より名前を賜ることは異例のことである。
しかし、ヘンリー・スネルは文字を反対にして「平松」と名乗ったという。
藩主容保と武器商人の間柄の濃さを物語っている。
しかもスネル商会と実際の武器取引をしていたのは、家老の梶原平馬であったのだ。
 
『慶応二年、家老職に進み国事に奔走していたが、慶応四年正月の鳥羽伏見の敗戦により容保らが会津に帰国した後は江戸に残留し、鈴木多門らと共に横浜に赴き、エドワード・スネルから小銃八百挺、ならびに武器弾薬を買い付けて新潟港に回航した。』
(「第五十一話:家老梶原平馬」より)
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/6618/honmon2/51.html
 
このスネルは長岡藩の河井継之介にも回転式機関銃を売却しており、官軍は長岡城攻めではその新式武器にてこずっている。
司馬遼太郎の歴史小説「峠」にそのことが引用されている。
南北戦争の機関銃がスネルの手により新潟港において長岡藩へ売却されたのであろう。
梶原平馬のプライベートについてみてみると、山川兵衛の娘二葉を娶ったが、後に離縁している。
 
戊辰戦争の後は、藩主の護送に同行して江戸へ行き、幽閉されていたが、藩主助命の活動をしてきた。
明治3年(1870年)に江戸から会津へ帰国し、滝沢村に住んでいる。
そして会津藩士の斗南移住の準備に当たっている。
明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県(はいはんちけん)を見届けてから梶原が姿を消した可能性がある。
すなわち「廃藩」は家老の役目の終了を意味する。
明治5年(平馬30歳)1月8 日に青森県庁庶務課長を辞職している。
そして、その後の足取りが不明となっている。
 
離婚してから行方不明となったのか、行方不明となったので離婚したのか。
そして100年の後に、北海道根室で水野テイと結婚して暮らし、根室で死んでいたことが親類の手で判明した。
 
水野テイは1849年11月18日に江戸新五番町で父水野謙吉・母ウタ子の三女として生まれている。
水野家の素性はよくわからない。
 
現在の東京の一番町は、江戸時代の新道五番町(略して新五番町)と二番町、濠端一番町を含んでいたそうだから、水野テイが生まれたところは大名屋敷か旗本屋敷である。
旗本屋敷が多かったそうだから、「旗本の娘」という可能性もあるだろう。
 
梶原平馬は江戸屋敷住まいもしていたし、藩主の京都守護職時代には京都暮しもあった。
江戸か京都で水野テイと知り合った可能性が高い。
 
水野テイは明治8年に東京麹街女学校の教員となり、後にあるように平馬と一旦は函館(箱館)へ行ったようである。
 
『そんな中、平馬さんのもとに会津藩探索方だった大庭恭平と榎本艦隊で活躍した雑賀孫六郎がやってきます。
彼らは、平馬とテイに北海道行きを勧誘しました。
平馬はテイと共に箱館に行くことにします。
そして、その後彼らは根室へ行くことになりました。
テイは花咲尋常小学校で教師をし、平馬は文房具屋を営んだと伝わっています。』
(「梶原平馬」より)
http://www.namara-hokkaido.net/rekitan/entry.php?id=156

忠臣蔵当時の江戸城内部の様子

拙著「忠臣蔵の時代背景(13)(14)」より抜粋し再掲します。 吉良家のその後を追っています。
http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000/56314327.html
2008/12/29(月) 午前 0:12
 
「忠臣蔵の時代背景(13)吉良の首
2009/1/2(金) 午後 11:10
 
7743s(曹洞宗萬昌院功運寺) 以下写真は略します。
7744s(本堂横に蘇鉄)
7745s(境内にシュロの木があった)
7747s(吉良家墓所、一番右側が義央の墓石)
7749s(命日が元禄15年12月15日となっている)
 
忠臣蔵の謎は深い。
とうてい短い時間で解き明かすことはできないだろう。
しかし、その時代背景と事件との関係を洗っていくことで、まったく予想していない勢力関係が浮かび上がってくる可能性があるだろう。
 
どこかに痕跡が残っているはずである。
 
(この項の)最後にあたり吉良上野介の首がめでたく胴体に戻っていることに触れておきたい。
 
吉良の金銭授受は現在の社会では収賄となるが、室町以来の幕府礼儀作法の指導料として受領したものであり、当時は公然とした慣習であった。
指導料を少なく見積もった浅野家家老の失敗が、吉良のいじめを誘発したものである。
 
吉良家の3代は、義央(よしひさ)が行った収賄や大名いじめの罪より遥かに大きすぎる罪を負わされてしまった。
 
彼らこそ忠臣蔵の真相を一番知りたいと思っているだろう。
 
吉良義央『ウィキペディア(Wikipedia)』より吉良家のその後を抜粋する。
 
『吉良家家臣たちは、幕命によりこのあと上杉家が管理するが、上杉綱憲は勇戦が認められた7名のみを召抱え、戦わなかった家臣はすべて追い払っている。
(中略)
 
吉良義央の首は赤穂浪士たちによって泉岳寺の浅野長矩の墓前に捧げられたあと、箱に詰めて同寺に預けられた。
寺では僧二人にこれを持たせて吉良家へ送り返し、吉良家家老左右田孫兵衛と斎藤宮内がこれを受け取った。
 
二人の連署の署名がある吉良の首の領収書を泉岳寺が残している。
 
先の刃傷時に吉良の治療にあたった栗崎道有が首と胴体を縫い合わせてつなぎ合わせたあと、吉良家菩提寺の万昌寺に葬られた。戒名「霊性寺殿実山相公大居士」、享年六二。
 
この当時の万昌寺は現在で言う都内の市ヶ谷にあったが大正期に入ってから「万昌院」と名を改めつつ中野に移転して吉良墓も移動する運びになり、現在では歴史史跡に指定されている。』
 
写真は現在の萬昌院功運寺境内(中野区上高田1丁目)と吉良義央の墓所である。
吉良家の墓所に墓石が複数立っているが、どれが義央の墓かという案内は出ていなかった。
墓石の命日を読んでみると、「元禄15年12月15日」と書いた墓碑が一番右端にあった。
ここに義央の胴体と首が縫い合わされて静かに眠っているのだ。
 
しかし、義央の孫で吉良家嫡男となった吉良義周の遺体は、21歳で幽閉中の病死後、引き取り手がなかったそうで、諏訪の寺に家臣二人とともに眠っているという。
 
高家「吉良家」はここに断絶したのである。
 
忠臣蔵の時代背景(14)春日局の大奥政治の終わり
写真(春日局(斎藤 福)Wikipediaより引用)
 
家綱の死に際し、綱吉を次期将軍に推したのは堀田正俊である。
綱吉の側用人柳沢吉保の裁量により赤穂事件は拡大していった。
 
堀田正俊は徳川家光の乳母・春日局の養子となった人物である。
堀田正俊の正室は春日局の息子、稲葉正則の娘である。
つまり春日局の直系の孫娘を堀田は正室としていた。
 
春日局は斉藤利三の娘として丹波国に生まれた。
明智光秀の家臣斎藤利三は光秀の所領丹波国に領地を与えられていた。
斎藤利三は主君の光秀に従い、ともに本能寺の変で織田信長を討った。
 
光秀が羽柴秀吉に山崎の合戦で敗戦し、利三は坂本城下の近江堅田で捕らえられて処刑され、他の兄弟は落ち武者となって各地を流浪していた。
 
明智光秀も「光」の文字を名に持っている。
 
福は「女」であることから追われることはなく、母方の親戚に当たる三条西公国に養育された。
そこで公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身につけた後、伯父稲葉重通の養女となる。
そして、稲葉一鉄の縁者で小早川秀秋の家臣である稲葉正成の後妻となった。
その後大奥に入ることになった春日局は稲葉正成と離縁する。
妻のおかげで出世したと陰口を叩かれたくないという配慮であろうか。
予定通りというか、離婚後の稲葉正成は美濃国内に1万石の領地を与えられ大名に列した(十七条藩)後、家康の孫にあたる松平忠昌の家老となっている。
 
大奥入りした春日局は、自身の三条西公条の玄孫という縁を利用し、育ての親となった三条西公国の息子、三条西実条と猷妹の縁組をし、公卿三条西家の娘として御所に昇殿するための資格まで手にしている。
後水尾天皇や中宮和子に拝謁し、また従三位の位と「春日局」の称号を賜ったという。
 
大奥の総取締に任ぜられて、奥向きの公務を取り仕切るようになり、将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握っていた。
 
春日局は寛永20年(1643年)9月に64歳で死去している。
当時の大奥の取締補佐役は春日局の義理の姪おなあ(お奈)であるが、おなあはキリシタン大名牧村利貞の娘であることは既に述べた。
 
春日局が亡くなった同じ年に、父牧村利貞の建立した京都妙心寺雑華院で出家して祖心尼と名乗った。
春日局の亡き後は、大奥を祖心尼が支配していた。
慶安3年(1650年)に家光が病気になり、諸儀礼を家綱に代行させ、翌年4月に江戸城内で死去(享年48)すると、祖心尼は大奥を去り、余生を済松寺で過ごしたという。
家光の死に際しては、堀田正盛や阿部重次らが殉死している。
堀田正俊は、殉死した堀田正盛の三男である。
父の殉死の栄誉を受けて、子は大老にまで昇進したのである。
 
『その堀田正俊は貞享元年(1684年)8月28日、従兄弟で若年寄の稲葉正休(青野藩主)に、江戸城内で刺殺されている。享年51。
 
幕府の記録によれば発狂のためとされているが、事件はさまざまな憶測を呼び、大坂の淀川の治水事業に関する意見対立や、正休もその場で殺害されていることから、将軍・綱吉の関与も囁かれた。』(堀田正俊『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
 
堀田と稲葉正休は従兄弟同士であった。
正休の祖父は大奥総取締の春日局の夫、稲葉正成(まさなり)である。
正休の父は旗本稲葉正吉であるが、1656年(明暦2年)、稲葉正吉は男色のことで家臣に殺されている。
正吉の長男が正休である。
 
つまり正休は春日局の直系の孫である。
正休自身は将軍の近習として仕えた後に、若年寄(1682年)となり青野藩1万2000石を領していた。
1684年に江戸城中で大老堀田正俊を刺殺したが、正休自身も同席していた老中大久保忠朝らにメッタ斬りにされて殺され、稲葉家は改易処分となった。
 
1701年(元禄14)浅野内匠頭(たくみのかみ)による刀傷事件より17年前の江戸城内殺傷事件であるが、加害者が取り押さえられることなく同僚たちにメッタ斬りされた事例は他にない。
その不手際を水戸光圀は咎めたらしいが、音沙汰なしに終わっている。
 
現場で殺害された稲葉の懐には、「累代の御高恩に応え、筑前守(堀田正俊)を討ち果たす」という遺書が発見されたという。
 
「累代の御高恩」とは徳川将軍家により受けたご恩という意味であろう。
よって堀田刺殺の指示が将軍綱吉から出された可能性があると考えられている。
 
まさかその場で同僚が滅多斬りするという後始末まで稲葉は聞かされていなかったのだろう。
これで長年大奥を支配してきた春日局の親戚による政治に終止符が打たれることになった。
1日で春日局の孫(稲葉正休)と孫娘の夫(堀田正俊)を殺害できたことになる。
また、春日局派の「同士相打ち」のようにも見える。
 
春日局を朝廷派と見るならば、大奥政治への朝廷の権力介入を嫌った綱吉・吉保が仕組んだ同士討ちであった可能性もあろう。
 
「堀田正俊刺殺事件」記事の中に、「忠臣蔵」にも登場するあの平戸藩主松浦鎮信(まつら しげのぶ)が堀田と会話したことが出ていた。
http://y-hyouma.hp.infoseek.co.jp/history/hottadeath.html
 
『堀田の友人松浦鎮信が堀田に「寛容にされぬと身が危うい」と忠告したところ、「自分は君国のためばかり思い我が身をかえりみる暇がない」と、涙を流して答えた。
 
松浦も
「貴殿のような人を社稷しゃしょくの臣(国家の重要な臣下)というのだろう」と感嘆したという。』
戦国大名・初代平戸藩主も松浦鎮信(まつら しげのぶ)というが、この時代の松浦鎮信は第4代平戸藩主のことである。
ここで松浦の読みは、邪馬台国時代の末羅(マツラ)国の読みと同じであることを覚えておこう。
 
綱吉の政治は、大老堀田の生前は良かったが、堀田亡き後は悪政となったといわれている。
堀田の横死後、綱吉は大老を置かず、御側用人や御側衆が権力を振るうようになる。
そして老中は諮問機関とかわらないものになってしまった。
後に庶民の恨みを買う「生類憐み令」は、この様な状況の中で発布される。
 
そしてこの政治体制の中で「松の廊下事件」が発生することになる。
迅速かつ拙速な幕府の裁定は、この新体制下で行われたのである。
 
松浦公は平戸藩主である。
ザビエルが西日本布教の拠点とした平戸島に城がある。
幕末の吉田松蔭は、山鹿素行の末裔から山鹿流兵法を習ったが、それは平戸藩内においてであった。
 
山鹿素行の末裔は、赤穂藩お取りつぶしのあと、平戸藩家老の職を得て、そこで山鹿流を教えていたのである。
 
大石内蔵助が赤穂藩にいた頃は、まだ赤穂で山鹿素行自身が兵法を教授していた。
大石も幾度かは素行の講義を受けているようである。
しかし、大石は熱烈な山鹿素行派ではない。
 
歌舞伎では、大石役の人物が山鹿流陣太鼓などという芝居道具を持たされてドンドンと叩いているが、あれは脚色である。
大石ではなく、47人の浪士の中に熱烈な(山鹿素行の)支持者が多数含まれていたようである。
 
平戸藩4代藩主松浦鎮信と堀田正俊が同じ志(思想)を持っていたとすれば、松浦鎮信が将軍綱吉への復習を堀田に代わって果たした可能性が見えてくる。
 
両国橋東詰で大石内蔵助が30分程度の休息を取った理由は、上杉家の援軍との死闘を河川敷で行うためと、隅田川向こうにある平戸藩上屋敷から松浦鎮信が吉良の首検分にやってくるのを待つためであると思われる。
 
私も平戸藩上屋敷から両国橋まで歩いてみたが、急ぎ足で10分程でたどり着く近さである。
歩いてみたことで、大石がそこで松浦鎮信の到着を待っていたと私は確信することができた。
その両国橋東詰の浪士たちの休息場所と思われる場所には、山鹿素行の墓の傍に聳え立っていたシュロの木と同じシュロの枝が、今でも川風になびいていたのである。
 
そしてシュロはINARI(稲荷)神社の境内にあった。」(抜粋終わり)
 
こうやって大奥に権力推移を眺めていますと、この国の歴史は、「織田信長を殺害した斎藤利三や明智光秀」の後裔たちに、随分と温かいものになっていることに気づきます。
 
萬昌院功運寺境内(中野区上高田1丁目)には数回訪問したことがありました。
 
6年前まで上高田にある勤務先の社宅に家族で住んでいたからです。
近くの酒屋まで泡盛の一升瓶を買いにいくついでに、何度か寺を散策しました。
 
勿論、吉良義央(よしひさ)の墓前で縫い合わされた胴体と首に合掌致しました。
林芙美子の墓があることで町内では有名です。
 

赤穂の塩、そしてシリア、イラク・・・。

拙著過去記事から抜粋します。いま読み直してみますと、そこに「シリアと赤穂の接点」を感じました。イラクといい、シリアといい、破壊の連続の歴史です。
 
「忠臣蔵の時代背景(12) 」より抜粋します。
2009/1/2(金) 午後 10:47に掲載
 
「『人形浄瑠璃、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』では、赤穂浪士事件を直接描けず、舞台を室町時代に変えてこの事件を描いているが、巷間に流布した塩冶高貞(えんや たかさだ)とその妻顔世御前(かおよごぜん )、そして高師直(こう の もろなお)にまつわる物語を芝居の発端として取り入れている。
 
そして、浅野内匠頭は、塩冶判官の名で登場することになっている。』
(塩冶高貞『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
赤穂は当時有名な塩田生産量を誇っており、赤穂の塩は大奥や朝廷へも献上されていた。
浅野内匠頭切腹の知らせを大奥に持ち込んだのは、赤穂の塩を大奥へ運んだ赤穂藩士であると、何かで読んだことがある。
 
中東のアッシリア人の古代アッシリア語で塩は「シオ」と音を発するそうである。
また水は「ミズ」と発するという。
 
ジョセフ親子は、イラク北部の港アッコー(またはアッカ)を出発した人々が赤穂に上陸した可能性を指摘している。(隠された十字架国日本:ジョセフ親子著より)
 
「アッシリア人」(ウィキペディア(Wikipedia))によれば、アッシリア人はキリスト教徒であるという。
 
『アッシリア人とは中東の少数民族で、キリスト教を信仰し、現代アラム語を話し、アラブ人と似ているが異なる文化を持つ人々。
 
現在はイラク、シリアに100~200万人前後いるとされ、他にイラン、トルコなどにも住む。
 
古代のアッシリアとの関係は明らかでないが、アッシリア以来の文化を受け継いでいるとの自負に基づき、アッシリア人と自称している。
 
近代以降、現在のイラン、イラクなども含めて、トルコ人やアラブ人等による迫害・虐殺にさらされ、ヨーロッパやアメリカへ移住した人々も多い。』
 
赤穂藩に伝わる塩田技術がどこから渡来してきたものか、それを明かしていくことが忠臣蔵の重要な背景を教えてくれるのではないだろうか。
 
中国雲南省の山中には岩塩が溶解した湧き水を使って赤い塩を作る少数民族がいるといわれている。
シルクロードの歴史は、意外なほどに日本の歴史と密接に関係しているのであろう。」(抜粋終わり)
 
そこでGOOGLE検索して調べてみました。
その製塩法の秘伝は何であり、それは一体どこから伝わってきたのでしょうか。
 
「「赤穂の天塩」の歴史

Akounosio

赤穂の伝統的な塩づくりの継承
 
天塩は、塩づくりの歴史的中心地・赤穂で独自の技術である「洗浄粉砕」と「溶解再結晶」の2工程併用を生かし「にがりを含んだあら塩」を再現しています。
 
江戸時代から、播州赤穂の東浜塩田(ひがしはまえんでん)では「差塩(さしじお)」という"にがり"を多く含ませた塩づくりの手法(差塩製法※)を秘伝としており、当時から「赤穂の塩」として全国に名を馳せていました。
天塩は、この赤穂の「にがりを含んだ塩」づくりを基本姿勢とし、日本食文化が築いてきた伝統の味わいを守り続けています。
※差塩製法・・・濃い海水を煮詰めて塩を取り出す過程で、あえて"にがり"を含ませる(差す)製法。」
また、現在の製品の製造方法は以下のようです。
 
「安全で良質な海の「天日塩」を使用

Akounosio2

オーストラリア・シャークベイ
 
より安全でおいしい塩を届けるために、「赤穂の天塩」は塩の原料である海水にもこだわっています。
昔ながらの塩づくり製法である塩田製法は、もはや日本近海で行うことが困難であるため、私たちは早くから世界各国に目を向け、より安全で良質な海を探していました。
 
そこで辿りついたのが、世界自然遺産にも登録されている、オーストラリア・シャークベイの、清浄さと豊穣さを兼ね備えた海水だったのです。
 
「赤穂の天塩」は、このシャークベイの海水を使用している塩田でつくられた、天日塩(てんぴえん)を原料としています。」
(写真、文ともに『「赤穂の天塩」のこだわり』より引用しました。)
http://www.amashio.co.jp/about/kodawari/history/
 
過去も現在も、そしておそらく未来も、赤穂の塩造りを担う人々の視野は世界に広がっているのでしょう。
 
「顔世御前(かおみせごぜん) - 歌舞伎美人」というサイトには、下段注(▲印)を有する浮世絵が掲載されていました。
http://www.kabuki-bito.jp/special/kabuki_column/todaysword/post_128.html
 
▲湯上りの顔世御前の姿を垣根から覗く高師直の姿を描いている。
 
内匠頭の妻「阿久里」と吉良の関連性を示唆するような風合いを感じますが、関係ないかも知れません。
 
以前から阿久里の名前は英語の農業、アグリカルチャーに似ていると感じていました。
 
浅野三次(みよし)藩で生まれた阿久里ですが、広島県北部の三次市は山梨市に似て、山奥にありワイン生産が盛んな町です。
 
私も2~3度訪ねたことがあり、欧風の文化を自然に感じるところです。
 
しかし、前記のようなゲスの勘繰りを入れながら内匠頭の遺言を読むと、意味不明だったそれが少しはすっきりするようです。
 
過去記事から該当部を抜粋します。
 
「 浅野内匠頭は刃傷沙汰の後で、意味深な遺言を残しているそうだ。
 
「かねてから知らせておくべきだったが、その余裕がなかった。
今日の件はやむをえずにやったことである。さぞかし不審に思うことであろう」」(抜粋終わり)
 
「その余裕がなかった。」を時間的余裕がなかったと最初は理解していました。
 
しかし、上のような勘繰りを入れますと、「精神的余裕がなかった」という理解が成り立ってきます。
 
「家臣に言おうにも言えない」、という内匠頭の苦しみがにじみあがってくるようです。
 
「さぞかし不審に思うことであろう」というようなことが、刃傷事件の原因である、と内匠頭は家老大石内蔵助へと伝言したのです。
 
『忠臣ならば、主君の恨みを晴らすべき』と、大石は受け取ったのではないでしょうか。
 
果たして歌舞伎が暗示するように、妻・阿久里に関する吉良の不審だったのか、あるいは内匠頭の精神的、思想的支柱を破壊するかのような出来事が他にあったのか、まだわかりません。
 
これだけは永遠の謎のまま終わることになるのでしょう。
 
「嘘を書くことが多い」という不名誉な噂を持つ多門が、事情を聴取して書き残しています。
 
「幕府目付多門重共が書いた『多門筆記』(多門は虚言癖があると言われており、その筆記の取扱いには注意を要する)によると、多門が目付として長矩の取り調べを行った。
 
その際に長矩は
 
「上へ対し奉りいささかの御怨みこれ無く候へども、私の遺恨これあり、一己の宿意を以って前後忘却仕り討ち果たすべく候て刃傷に及び候。
 
此の上如何様のお咎め仰せつけられ候共、御返答申し上ぐべき筋これ無く、さりながら上野介を打ち損じ候儀、如何にも残念に存じ候。」(浅野長矩-wikipediaより)
 
とだけ述べ、吉良に個人的遺恨があって刃傷に及んだことは述べたが、刃傷に至る詳しい動機や経緯は明かさなかったという。
 
あとは「上野介はいかがに相成り候や」と、吉良がどうなったかだけを気にしている様子だったという。
 
これに対して多門は長矩を思いやって「老年のこと、殊に面体の疵所に付き、養生も心もとなく」と答えると、長矩に喜びの表情が浮かんだとも書いている。」浅野長矩-wikipedia
 

事情聴取した多門が「事実」を書き残した可能性があるので、虚言癖があるとして消そうとした可能性もあります。

 

浅野内匠頭の正室は三次(みよし)藩主浅野長治の娘・阿久里(瑤泉院)で、側室の記載はありません。

 

信仰により一夫一婦制を守っていたとすれば、側室を多数抱えていた他の大名が吉良に対してできることを内匠頭ができなかった、という解釈も成り立ちます。

 

江戸城大奥がおおいに乱れていた時代のことですので、幕臣の間にも同様の道義が荒れた時代があった可能性もうかがえます。

 
松の廊下の刃傷事件の発生は、元禄14年3月14日(1701年4月21日)の巳の下刻(午前11時40分頃)のこと。
 
そして、
「申の下刻(午後6時10分頃)に幕府の正検使役として大目付・庄田安利、副検使役として目付・多門重共、同・大久保忠鎮らが田村邸に到着し、出合の間において浅野に切腹と改易を宣告した。
 
これに対して浅野は「今日不調法なる仕方いかようにも仰せ付けられるべき儀を切腹と仰せ付けられ、有難く存知奉り候」と答えたという。」(浅野長矩-wikipediaより)
 
当時の武士は切腹は名誉ある死であり、斬首は罪人の処刑で不名誉と考えていましたので、切腹を幕府に命令されて、とてもうれしいと返答したのでした。
 
ちなみに、吉田松陰は斬首刑でした。
 
幕府が即日処刑したために、内匠頭の口から出て来た言葉があまりに少なすぎることが謎を深めた原因です。
 
おそらく幕府としては、「ある出来事」に関して、内匠頭の口を早急に封じる必要があったのでしょう。幕府内部では当時公然であったことで、世間には知られていなかったこと・・・。
 
実はそこが謎そのものなのでしょうけれど・・・。
 
刃傷の理由としてはいろいろ挙げられてはいます。
 
「長矩が刃傷に及んだ理由ははっきりとしておらず、長矩自身も多門重共の取調べに「遺恨あり」としか答えておらず、遺恨の内容も語らなかったので様々な説がある。 これに限らず、刃傷事件の原因のほとんどは真相不明である。
 
対立の理由
院使御馳走人の伊予吉田藩主・伊達宗春より進物が少なかった(諸書)具体的には不明。
勅使御馳走の予算を浅野家が出し惜しみした(諸書)具体的には不明。
長矩夫人の阿久里に吉良が横恋慕した(『仮名手本忠臣蔵』の影響で広まった)。
吉良が皇位継承問題に介入したため、尊皇家・山鹿素行の門下である長矩が怒った(『元禄快挙別禄』)。
長矩の美少年な児小姓を吉良が望んだが、長矩が断った(『誠忠武鑑』)。
浅野家秘蔵の茶器を吉良が望んだが、長矩が断った(『聴雨窓雑纂』)。
ある茶会で披露された書画について吉良は「一休宗純の真筆」と鑑定したが、長矩が「贋作だ」と述べた(赤穂精義参考内侍所)。
悪名高い吉良に長矩が天誅を下そうと思った(『赤城盟伝』)。」(浅野長矩-wikipediaより)
 
私は、「吉良が皇位継承問題に介入したため、尊皇家・山鹿素行の門下である長矩が怒った(『元禄快挙別禄』)。」を原因として考えています。
 
根っこのところでは尊王精神において、浅野内匠頭は吉田松陰とも通じています。
 
浅野内匠頭の生まれた屋敷は江戸鉄砲洲(現東京都中央区明石町)の浅野家上屋敷ですが、そこはいま聖路加国際大学がある場所です・・・。
 

「きよ」の今後

忠臣蔵の恋の主役「きよ」の今後を考えています。

Kiyo

「忠臣蔵の恋~四十八人目の忠臣~ 武井咲さん 『運命の行き着く先を見守ってください』」より引用。
http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/100000/257682.html
 
拙著ブログの過去記事にそのヒントらしきものを発見したので、以下に紹介します。
将軍家宣(元甲府宰相)と側室喜世のことは以前のこのブログ記事で述べました。
 
「きよ」と「喜世」が「音(おん)」で通じました。
家宣の側室お喜世の方(後の月光院)に仕えた絵島。
 
まさか・・・「きよ」の元へ絵島(本名はみよ)が登場してくるのか、と思いました。
 
さて、家宣と喜世、その御そば付であった絵島。
彼等に思想的共通項があったと仮定します。(私の推理は切支丹です)
 
すると、正室の「こころ」はどうなるだろうか。
 
そういう視点でもう一度拙著過去記事(yahoo blog)を抜粋して眺めました。
そこには将軍家宣の正室と思われる人物による将軍暗殺依頼の事実が吐露されていました。
 
「元禄14年(1701年)の浅野長矩の刃傷事件に対する幕府の裁断には、将軍側用人の柳沢吉保の意向が関係していた事実が指摘されており、元禄赤穂事件を題材とした忠臣蔵ドラマなどでは事件の黒幕・悪役として描かれる場合が多い。
 
「柳沢吉保」(ウィキペディア(Wikipedia))によれば、吉保の時代に将軍の寝所の監視方式が厳格になったという。
 
『俗説によれば、側室の染子はかつて綱吉の愛妾であり、綱吉から吉保に下された拝領妻であるという。
一説に(吉保の子)吉里は綱吉の隠し子であるとも言われる。
 
また、一説に吉保は甲府に百万石の領地を綱吉から賜らんと企てて、吉保の側室になってからも綱吉の寝所に召されることの多かった染子を通じてこれを願い出た。
綱吉はこれを快諾するも、まもなく綱吉は病死し、このことは沙汰止みとなった。
 
しかし、このようなことがまた起こることを憂慮した幕閣は、これ以降、将軍が大奥に泊まる際には、同衾する女性とは別に大奥の女性を2名、将軍の寝所に泊まらせ、彼女等に寝ずの番をさせ、その夜に何が起こったのかを尽く報告させることとした。この事は、江戸幕府が滅亡するまで続けられた。』(wikipediaより)
 
将軍に間違いが起きないように、大奥の女性が将軍の布団を監視する仕組みとなったようである。それほど柳沢吉保の時代に大奥の安全が脅かされたということであろうか。
 
 
日本の針治療杉山流を確立した人物として杉山和一という針医按摩がいた。
藤堂藩士である。
元禄7年の柳澤騒動のとき、6代将軍徳川家宣(いえのぶ)のお伽(とぎ)であった。
 
以下、明治百話(上)(篠田鉱造著、岩波文庫)より抜粋する。
『御殿(大奥)へあがると、奥方から、針で御生害申し上げろという難題、厭(いや)と申されん羽目ともなって、一旦はお引き受けを申し上げて、帰宅の途上、駕籠の中で切腹をいたした。
こうなくてはならないから、ますますその名声を高めた仁(ひと)でした。
こうした心得もなくてはなりません。
針で人を殺すなんて恐ろしいことです。
まして将軍家を御生害申し上げたら、杉山流の名折れで、後世へその名が残らず、針医には誰もかかる人がなくなっています。
元祖は元祖だけあって、立派な由緒を残してくれました。
実に有難いことと、この御元祖様を祀って居ります。
ハイ、こんなことで・・・・・。』(抜粋終わり)
 
これは明治の初年の杉山流の按摩針医が報知新聞記者に語ったものである。
御生害(ごしょうがい)とは将軍を殺害することである。
 
針医の使う針には治療によっては五寸釘ほどの大きな針もあったようだ。
また神経を刺激する技術に長けている針医であるから、発作を誘発するような細い針の打ち方があったのかもしれない。
 
徳川家宣(いえのぶ)は家綱、綱吉の次の将軍で、在職は1709年6月8日~1712年11月12日である。
明治維新は1868年であるから、およそ150年前の出来事を明治の按摩が語ったものである。
 
ここで暗殺を按摩に命じた奥方が登場するが、徳川家宣の正室だとすれば近衛基熙(このえ もとひろ)の娘・熙子になる。
 
「近衛基熙は、江戸時代前・中期の公卿で、主に東山天皇(113代)と中御門天皇(114代)治世の朝廷においてその中枢となり、江戸幕府との関係改善に尽力した。
五摂家筆頭の近衛家当主である。」(近衛基熙『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
 
もし徳川家宣の側室が「奥方」であったとすれば、勝田著邑の娘・お喜世の方(月光院)、
太田宗順の娘・お古牟の方(法心院)、園池季豊の娘・お須免の方(蓮浄院)、小尾直易の娘・斎宮(本光院)の4人の誰かになるが、大奥で「奥方」といえば正室である可能性が高い。
 
また将軍の首を変える権力を当時の近衛家は持っていたと考えても間違いない。
こうして将軍の命は、見えぬ力でコントロールされていたのであろう。
 
朝廷と将軍家、それに大奥の関係を見ておかなければ、なぜ赤穂に春日局の姪である祖心尼が育てた山鹿素行が流されたのか、そして流される先がなぜ赤穂藩なのか、わからないだろう。」(「忠臣蔵の時代背景」より抜粋再掲)
 
「世界大百科事典内の柳沢騒動」によれば、
「【護国女太平記】より
…15巻または20巻。いわゆる柳沢騒動の実録体小説中,もっとも成長をとげたもの。
5代将軍徳川綱吉が柳沢吉保の子吉里をわが子と信じて,6代将軍にしようとしたのを,正室鷹司氏信子が夫綱吉を殺害,未然に防いで自害したのが書名の由来である。」とあり、
 
綱吉の殺害主犯は正室鷹司氏信子でした。
しかし、針医が殺害を委嘱された相手は、綱吉の後の将軍徳川家宣の「奥方」でした。
 
徳川家宣の正室は、近衛基熙(このえ もとひろ)の娘・熙子です。
 
暗殺の逆襲なのでしょう。
公家の中に二項対立があったことが推測されます。
あるいは、公家と幕府の2項対立です。
 
二項対立とは、中東や欧州で際限なく繰り返されているキリスト教とイスラム教との戦いや、米国内での白人対黒人のような2つの勢力による殺し合いのようなものです。
 
9.11事件のあとでブッシュ大統領(息子のブッシュ)が「テロとの戦い」と言いはじめ、それがその後の世界を復讐の連鎖へと導きました。
 
結果、戦争の勃発により爆弾の親玉たち、ノーベル財団などが金もうけしたことになります。
 
日本政府もテロとの戦いに金を出すとカイロで宣言し、その直後に日本人2名の首が切り落とされています。
 
釈尊は、そういう対立から悟りは生まれないと、2500年前に私たちに教えてくれています。

「諮られた」内蔵助

Chushingura

「忠臣蔵十一段目夜討之図」 歌川国芳画。
忠臣蔵 - Wikipediaより引用
 
この絵と題名にある「夜討」の文字を見ると、これは「テロ」であると今では感じます。
家の中では法律を守って穏やかに暮らしている人々が寝入っています。
何かやりきれないものを感じるのは、現在のテロとの類似性があるからかも知れません。
 
この絵を描いた浮世絵画家の歌川国芳(くによし)の特徴は以下の通りです。
 
「江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人であり、画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデア、確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力を持つ作品を多数生み出した。」
 
「国芳は天保8年(1837年)12月までには向島に移り住んでいる。ところが国芳45歳の時、運命は一変する。老中・水野忠邦による天保の改革。質素倹約、風紀粛清の号令の元、浮世絵も役者絵や美人画が禁止になるなど大打撃を受ける。江戸幕府の理不尽な弾圧を
黙って見ていられない江戸っ子国芳は、浮世絵で精一杯の皮肉をぶつけた。」
 
いずれも歌川国芳-wikipediaより抜粋。
 
この画家の特徴が上の絵図にもよく表れているように思われます。
 
例えば、討ち入りは決して英雄的行為ではなく、「無法者たちによる夜討殺人である」つまりは「テロ」であることことを「確実なデッサン力」を用いて表現し、四十七士を英雄化しようとする世論に対して「精一杯の皮肉をぶつけた」、かのように私には見えます。
 
以下は2008年の拙著ブログの再掲です。
 
「将軍のお膝元である江戸市中で起きた討入り事件である。
 
赤穂浪士47人は未明に徒党を組んで「高家の屋敷」を夜襲し、大量殺戮事件を起こした。
 
これは幕府の威信にかかわる大事件であり、幕府は驚愕したはずである。
それなのに午前4時~5時頃には上杉家に助っ人禁止の指示を手回し良くしていることは極めて不審である。
 
赤穂浪士は幕府(いや朝廷かもしれない)の仕掛けたわなにかかったかのような側面がある。
討入り後、大石内蔵助は上杉家の援軍が駆けつけてくると予想していた節がある。
 
吉良邸を出ると大石は両国橋東詰に浪士たちを休息させている。
一説にはここで平戸藩松浦公が吉良の首を検分していたという。
 
その場所らしきところに私は最近(2008年当時)行ってみたが、稲荷神社がありシュロの木
が生えていた。
 
そしてその稲荷神社は、誰も近づけないほどの背の高いフェンスで囲まれており、入り口には南京錠ががっちりと掛けられていた。
 
大石は援軍上杉家の家臣たちと、両国橋で斬りあいをするつもりであったのだろう。
30分ほど待っても追手は来なかった。
 
(私もある夏にそこを訪ねたとき、その場所で水を飲みながら10分ほど休憩をしつつ、当時の大石の心境を思いやったものでした。)
 
・・・?
大石はあっけにとられたのではないだろうか。
大石は吉良邸での戦闘で、あまりに上杉家から送り込まれていた武士たちの動きが鈍いことに気づいていただろう。
 
早朝で眠気が覚めていなかった可能性もあるし、赤穂浪士が槍を半分に切って短くしていたことなどの武装の有利さを説くものもいる。
 
ともかくもかなりの人数が吉良邸に泊まりこんでいたのであるが、主君の敵を討ちに来たのであり、目標は吉良上野介一人である。
 
手向かうものがあれば斬ると叫ぶと、吉良邸の多くの武士たちは静かに部屋に控えていたようである。
 
一部に斬り合いがあったのは事実であるが、47士の数名が殺されるだけの武力は邸内に備えていたのである。
 
それが70歳を超える老人浪士でさえも無傷で吉良邸を出ることができたのである。
 
大石は両国橋で点呼したときに全員生還したことに安堵すると同時に、どこかに「諮られた」と感じたのではないか、と私は思っている。
 
結果的に47人の浪士は一人の死亡者も出さずに、歩いて泉岳寺まで行進する栄誉を得たのである。」(拙著過去記事再掲)

2016年12月25日 (日)

忠臣蔵の赤十字マーク

メリークリスマスのための忠臣蔵だった・・・!?12月25日の10日前の15日早朝に討ち入りをしています。
 
生誕記念日の丁度10日前の実行というところに大事な点があるように思われます。
 
歴史上は12月14日討ち入りとなっていますが、既に夜は明け、今の時計感覚で言えば翌15日早朝の狼藉となります。
 
武井さんのファンでもありますので、「忠臣蔵の恋」はほぼ毎回見ています。
番組概要は以下の通りです。
 
「「忠臣蔵の恋」いよいよ討ち入り直前!」より紹介します。
http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/index.cgi?area=001&type=0&date=2016-12-
24&tz=&f=top
 
「NHKチャンネル[総合]
2016年12月24日(土) 午後4:45~午後4:55(10分)
 
番組内容
赤穂浪士を愛した女性を描く「忠臣蔵の恋」。
クリスマスイヴには吉良邸討ち入りの時を迎える。
 
きよ(武井咲)は浅野家の家臣十郎左衛門(福士誠治)と恋に落ちるが、殿の吉良への刃傷事件でお家は断絶、家臣らはあだ討ちを誓う。
本懐遂げれば切腹は必至。
 
やがてくる別れを知りながら、きよも討ち入り成功のために動く。
吉良側へ潜入したり危険に身をおきその日を迎える。
討ち入りまでを10分で。その先にはきよに新たな使命が。
見逃したくない!」(抜粋終わり)
 
私も見逃したくなかったので、録画してゆっくり見ました。
 
泉岳寺まで浪士を見送ったあと、これからどうすればよいのかと叔父の背中におんぶされて現代風に泣きじゃくる武井さんの演技に、つい涙を流した次第です。
 
これで大女優になりましたね。
 
「Q赤穂浪士47名による吉良邸討ち入りの寸前で抜けた毛利小平太は結局、どうなったん...komasaram2010さん 2011/3/516:31:19」より、
討ち入り直前に脱盟した48人目の浪士のその後が気になります。
 
いわゆる敵前逃亡者のその後です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1356874438
 
「ベストアンサーに選ばれた回答
jasonkodai2199さん
2011/3/517:38:45
 
毛利小平太の脱盟後の消息は不明です。
兄・毛利右源太が奔走した仕官先に仕えたとか、公家に仕えたともいわれますが、いずれも確かな記録は残されていないとのことです。
 
大石内蔵助の菩提寺・正福寺には討ち入り直前の手紙が残っており、小山田庄左衛門ら脱盟者を書き連ね、残った同士48名で討ち入りを果たすとなっています。ただ毛利小平太が土壇場で脱盟したことで47名での決行になりますが。
 
「私儀、俄かによんどころなき存じ寄りこれあり候につき、このたび申し合わせ候ご人数あい退き申し候、左様お心得下さるべく候」
 
(急に事情ができましたので、今回の申し合わせの人数から外していただきたいと存じます。そのように理解して下さるようお願いします。12月11日に認める)
 
小平太はこの脱盟を告げる手紙を直接内蔵助に渡さなかったといわれ、内蔵助がこの事実を知ったのが12月14日の討ち入り当日であり、吉良邸の内情を知る小平太の脱盟にかなりのショックを受けたと思われます。
 
脱盟の理由として、好きな女ができたとか、暇乞いに行った時に兄に不用意に討ち入りことを漏らし、兄に咎められ訴えるぞと脅されたため、他の同志に迷惑をかけないため泣く泣く身を引いたのではないかといわれています。
参考文献
別冊歴史読本「元禄忠臣蔵」、コミック「その時歴史が動いた、忠臣蔵編」」(抜粋終わり)
 
ドラマでは毛利小平太は公儀隠密に討ち入りの決行日を知られそうになり、隠密の口を封じるために討ち入りの前日に隠密と刺し違えて死ぬという役廻りになっていました。
 
毛利小平太に代わって48人目の忠臣になったのは、ドラマの主役のきよ(武井咲)ですが、討ち入り決行の日程連絡を神社の御神木のような巨木前で行います。
 
かねてより、『赤い十字マーク』を幹に刻んだら、その夜に決行するという約束となっていました。
 
いわゆる病院の赤十字のマークではなく、やや細めの赤い線で、縦線を長く、横線を少し短くした赤十字マークでした。
 

Photo

これは岐阜県御嵩町の山奥で発見されたキリシタンたちのものの中にあった十字ですが、NHKドラマで登場した赤い十字の色は、濃い目の赤で(イエスの血に似ていて)、この写真の右端のものの象形がよく似ていたように思います右側の十字の下には、もっと小さい十字が二つ認められます。三位一体を表しているのでしょう。
。(「「日本景教研究会」発会のご案内 」より引用しました。)
http://www.bmp.jp/lab/03.html
 
私は以前赤穂浪士関係の書籍を読み漁ったことがありました。
 
そして今から8年前の2008年の別の拙著ブログ(Yahoo blog)に、その1~その15までの長い記事を掲載したことがありました。
当時は随分を暇を持て余していたようで、街道歩きやブログ記事作成を精力的に行っていました。
 
その忠臣蔵に関する15編の拙著記事の表題は「忠臣蔵の時代背景(1)~(15)」でした。
 
たとえば、
「忠臣蔵の時代背景(1)」
http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000/56314327.html
2008/12/29(月) 午前 0:12 中山道を歩こうブログ
などです。
 
この一連の記事を読んでいて、書いた自分も忘れている文に出会いました。
「芝居では炭小屋で吉良は発見されるが、実際は台所で見つけられ浪士たちに滅多切りにされているという。
検死によると、吉良には28ヶ所の傷があったそうだ。」(一部抜粋)
 
・・・そうなんだという思いがしましたが、記事の出典は確かではありません。
 
武士たちが徒党を組んで恨みを晴らすシーンには、その方が似合うかも知れません。
 
その中で、四十七士の中に親子や兄弟の参加が意外に多い事に気づき、思想的共通集団による夜討強盗殺人事件であったのではないか、という疑いを抱くようになっていました。
 
書籍「隠された十字架の国、日本」(ジョセフ親子著)によれば、中東のアッカ、またはアッコーの港を出た失われた12部族の一部が上陸した地が赤穂(アッコー)だったという説も私に強い影響を与えていたようです。
 
日本人の心底に横たわる忠臣の魂。
それが衰退したかのように見える元禄時代の武士たちに、それを思い起こさせ、武士の主は天皇であって、忠臣とは天皇に奉じるものとの暗黙の圧力を侍たちへと与えた。
それが後の徳川討幕、明治維新革命へとつながったという説もあった、と記憶しています。
 
侍の事前シミュレーション実験により、革命勢力たるパワーの有無をチェックしたのが忠臣蔵ではなかったか、・・・と。
 
一方、その100年以上も前の大阪夏・冬の陣は、山岡荘八著「徳川家康」を読んだ印象では、プロテスタント派の徳川対カトリック派の豊臣の戦争だったという読後感想をもっていました。
それは30巻前後の大作を全部読んだ印象ですが、山岡氏も小説の中でそう言い切っていたと記憶しています。
 
そう考えると後代の江戸元禄時代の武士たちの間に、まだ燃え尽きていなかったカトリック派武士の炎が西日本には残っていたのではないか、赤穂浪士の中心集団は隠れ切支丹ではなかったのか、などと拙著ブログに書き綴った記憶があります。
 
そういう私でしたので、ドラマで毛利小平太が今日12月14日に討ち入り決行との赤十字サインを神社の樹木の幹に刻み、「きよ」へ知らせシーンを見たとき、鳥肌が立ってきたのは当然でもありました。
 
「やはり・・・。そうであったか。」
 
ドラマ「忠臣蔵の恋」の原作者か演出家のいずれかが、それをオープンする時期に至ったと判断をしたものと思いました。
 
あとで調べてみますと、旧赤穂領域に秦川勝(伏見稲荷創健者の渡来ユダヤ人)の本物の墓があることを知りました。
 
「日本景教研究会」発会のご案内 」というサイトでそれを知ったのですが、そのサイトには漢字で書かれた三位一体説のお経が最初に登場してきます。
http://www.bmp.jp/lab/03.html
 
「我三一分身景尊称訶・・・
 
意味:私たちの三一(三位一体神)の分身(御子)、景教の尊い彌施訶(メシア)は真の姿を隠し、人として世に出られた。」(一部抜粋終わり)
 
これは密教や仏教のお経文として日本へも伝来していることでしょう。
 
起源45年頃にインドへキリスト教の布教に来た聖トマが広めた教えが、やがて天山山脈を越えて唐の都長安へ至り、東方キリスト教会となり、やがて仏教と習合し景教となったものでしょう。
 
西洋のキリスト教はそれを異端とし、認めませんでしたが、空海以降真言密教の中に脈々と受け継がれている、かのように私には思われます。
 
新約聖書の漢訳分を持ち帰るのに失敗した最澄でしたが、やがて彼も新約聖書の教えを
習得したように思われますので、天台密教にも東方キリスト教の教えは含まれているかと思われます。
 
NHK番組のドラマから流れ出た赤穂浪士毛利小平太が幹に刻んだ赤い十字架のマークは、思いがけずに8年前の拙著ブログの存在を思い起こさせてくれたのでした。
 
「さて、赤穂歴史研究会坂越支部が1983年4月に発行した『ふるさとの歴史』(NO5)には、坂越と大避神社について興味深いことがいくつか報告されている。
 
まず、赤穂西中学校校長司波幸作氏の「坂越の碑とその特徴」によると、「千種川流域には大避神社、または大酒神社と称する社が二十数社にわたって存在する。
 
坂越を起点として作用郡にまで至るが、その大部分は旧赤穂郡であることから見て、秦氏とのかかわりの深さがうかがえる。
中略。
 
したがって秦河勝は実在の人物であり、『日本書紀』に記された河勝の業績は大体事実と見ることができる。
 
すなわち、秦河勝は聖徳太子の側近として広隆寺を建て、そこに彼の宗教性を表現した。
しかし太子の死後蘇我氏が権力を握るに及んで政界から身を引いて坂越に逃れ、この町作りに貢献して息をひきとったという史実が確認できると私は判断する。」(前掲の「日本景教研究会」発会のご案内 」より抜粋しました。)
 
・・・赤穂と秦河勝がつながるとは思いもよらなかったことでした。
 
山鹿素行が江戸幕府直臣の採用試験に落第したあと、赤穂藩へ向かった訳も少しわかるような気がしてきました。
 
原点回帰です。
 
もう一度、この国家のネジを赤穂から巻き直そうと・・・。
 
今の時代もそろそろ日本武士のタガが緩んで外れてきているように見えますが。
 
株を買いあさって株価値上げに邁進していたり・・・、カジノにもご執心のご様子。
 
吉良の首を取った浪士たちは両国橋の南詰め(千葉側)で30分ほど傷の手入れと休息をした模様です。
 
私はかつて吉良邸から泉岳寺までを自分の足で歩いてみました。
 
両国橋の東詰にいくと石碑も何もないのですが、ただ2本の棕櫚の木が私には見えました。
その方へ歩いていくと、金網で囲まれ、鍵を掛けられた領域の中に、稲荷神社がありました。
この地で、松浦藩主は吉良の首を実地見分したものと私は推理しています。
 
なぜその場所が稲荷だったのか、当時は不思議な気がしていましたが、今はなるほどと得心が行きました。
 
一般の日本人が参拝できないような錠鍵付き金網囲いの稲荷神社はとても不思議ではありました。
 
紀元前13世紀に預言者モーセはナツメヤシの葉で神を祝えと命じ、日本へやってきたザビエルはそれを「棕櫚」と和訳しました。(実際は薩摩藩士で、マラッカかゴアで受洗したヤジロウの和訳)
 
47士が棕櫚のふもとで休息をとったことは間違いないことだと当時も思いましたが、今もそう思っています。

Photo_2

ザビエルを乗せたポルトガル船が出入国した鹿児島・坊津港の棕櫚(左隅)
古来より中国からお坊さんを乗せて運んできた港です。キールのある舟艇の深い船のよりつける水深の深い港にまず到着です。ここから底の浅い和船に乗り換えて、ザビエル一行は薩摩藩主公の屋敷へと向かいます。

Photo_3

ザビエル上陸地点の棕櫚の並木(薩摩藩主屋敷の南2㎞の砂浜から北へと続く)
今はテトラポットで埋められていますので、砂浜を歩くという夢はかないませんでした。
 
歌舞伎の忠臣蔵です。
 
「国立劇場作者シリーズ、今月は新歌舞伎の人、真山青果。
 
10部作の『元禄忠臣蔵』から『江戸城の刃傷』『御浜御殿綱豊卿』『大石最後の一日』。
事の始まり、ことが起こる前、甲府宰相綱豊がどんな気分でいたか、事がなった後の浪士たちの最後の日々の三場面です。
これだけで正午に始まって4時半。
中略。
 
『御浜御殿』では能衣装がすごく綺麗なのですが、 今回は江島役の魁春の打掛が最高でした。 上はクリーム色っぽくて裾にかけて青い海に帆船がバーーーン!と描いてあるんです。
それも白い帆に赤い十字のサンタクルスの南蛮船。
花魁みたいに広げて見せてほしかったです。」( 国立劇場 『元禄忠臣蔵』より抜粋) 
http://ameblo.jp/severus109/entry-11100922456.html
 
絵島(この記事では江島と書かれていますが)と赤い十字の関係性が認められるようです。

Src_45954290

「日本地図に1541と書かれていますが・・・
 ※日本では、ポルトガル船が種子島に漂着したのは1543年で鉄砲の伝来としても知られています。
実は1541年にポルトガル船が豊後(今の大分県)に漂着しており「ポルトガルが日本を発見したのは1541年」ということなのだそう。
 
帆船の帆に描かれた十字架は「キリスト騎士団」のエンブレムでエンリケ航海王子がその団長を務めていたことから、エンリケ王子を意味しています。
この「キリスト騎士団」が探検事業の大きな財源だったそうです。」(写真、文ともに「2016 ポルトガルの旅(1)《リスボン・ベレン地区》大航海時代に思いを馳せて」より引用、抜粋しました。)http://4travel.jp/travelogue/11175957
 
ザビエル来日の8年も前に、豊後の大友宗麟のところへ十字架の船が来ていたのでした。
 
そして、忠臣蔵ドラマは甲府宰相(徳川)綱豊と関係があることが示唆されています。
 
これからドラマ忠臣蔵の恋の主役の「きよ」は、大奥へ上がっていくそうです。
 
第3代将軍・徳川家光の孫に当たる綱豊(つなとよ)は、やがて江戸幕府第6代将軍徳川 家宣(とくがわ いえのぶ)(在職:1709年 - 1712年)となり江戸城へ入ります。

そこで将軍となった「綱豊」と「きよ」はどういう関係を築くのでしょうか。
 
綱豊こと家宣の側室に喜世がいます。
浅草生まれの「きよ」は喜世なのでしょうか・・・?
 
「月光院(げっこういん)は、江戸幕府6代将軍徳川家宣の側室で、7代将軍徳川家継の生母。
本名は勝田輝子(かつたてるこ)で、家宣が死去してから月光院と呼ばれる。
 
側室としての名は喜世(きよ)が知られる。」
(月光院-wikipediaより)
 
そして・・・あの絵島も喜世のお側付きとして綱豊とともに甲府藩上屋敷より江戸城大奥へ参ります。絵島・生島事件が起こります。
 
「正徳4年(1714年)、月光院の右腕とも言える大奥御年寄絵島が家宣墓参り代参の帰りに歌舞伎役者生島新五郎を宴会に招いて大奥門限に遅れた江島生島事件が発生した。
 
享保元年(1716年)、家継は風邪をこじらせて死去した。月光院が風邪を引いていた家継を無理に能楽鑑賞をさせたためとも言われる。
 
その後の8代将軍には、家宣の遺言ということもあり、紀州徳川家から徳川吉宗が迎えられた。吉宗が延享2年(1745年)に引退の動きを見せると、9代将軍に田安宗武を推すなど、晩年にも影響力を行使しようとしたともいわれる。
 
宝暦元年(1751年)に吉宗の死を見届けた翌年、宝暦2年(1752年)に68歳で没する。法名は月光院理誉清玉智天大禅定尼。」(月光院-wikipediaより)
 
これからが、忠臣蔵の本番になるのです。忠臣「きよ」の本当の狙いは何か、そこに浅野内匠頭の刃傷事件の真の原因が隠されているのでしょう。
私の推理ですが、ザビエルは雲の上からすべてを知っていて見ている、そのような気がします。

2016年12月24日 (土)

申し訳程度の・・・

Nec_0096s

NEC_0096 申し訳程度の今朝の富士山

新しいdocomoガラケーで撮影しました。(月1080円也、機器代金は別途)

続きを読む "申し訳程度の・・・" »

2016年12月23日 (金)

川崎市麻生区の放射能

蓋をはぐったときの変動以外は落ち着いています。
 
「蓋」とは、福島の第1原発1号機の原子炉建屋カバーを外したことを指しますが、詳しくは下記など過去記事を参照してください。
http://harukateinen.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/2016-94c1.html

Photo

古きよきものと新しいものと・・・

Nec_0069

NEC_0069 見事な三猿像と悪魔を踏みつける金剛力士像(高石神社そばの路傍にて撮影)

Nec_0069_2

NEC_0069(enlarged) The stone statue with Three Monkies Principle in Old Japan.
Probably being a stone statue before the Edo Period is considered.
 
画面の上をクリックすることで拡大して見れます。
赤い丸の中に左から「言わざる、聞かざる、見ざる」が並ぶ。黄色い〇の中には悪魔が横たわり金剛像の両足で踏みつぶされている。悪魔は頭を左に手を挙げているように見える。

800pxoak_ridge_wise_monkeys

Oak_Ridge_Wise_Monkeys
原爆開発のためにウラン濃縮作業を行っていた女性従業員たちに、この看板によって研究所で見たことを外部に漏らさないようにと指導をしていました。大量破壊兵器の開発に従事していることを彼女たちは知らないままに高給のために働いていました。事実を知ったのは戦後のずっとのちのことでした。
 
「アメリカ・オークリッジ国立研究所 
後にオークリッジ国立研究所となった施設は、1943年にマンハッタン計画の一部として建設された。
研究施設とその近くの町であるオークリッジは、一年弱でアメリカ陸軍工兵司令部によって建設された。オークリッジには、約2年間 75,000 人が住み、その存在は秘密にされていた。
オークリッジ国立研究所は、世界で初めて原子炉が作られた場所です。」
 
「『見ざる言わざる聞かざる』、実は日本発祥ではない」より写真、文ともに抜粋。 https://matome.naver.jp/odai/2141919610335719301/2141930948631534003
 
大英博物館に自由に出入りしていた明治の日本人が、三猿の起源について、おそらく世界へ向けても説明していたことでしょう。
 
「南方熊楠によれば青面金剛と猿の関係はインドに起源があり、青面金剛はインドのラーマーヤナ説話の主人公・ラーマの本体たるヴィシュヌ神の転化であり、三猿はラーマに仕えたハヌマーンの変形という[2][3]。
 
また庚申の「申=さる」である、庚申信仰で人の悪事を監視して天帝に報告する三匹の「三尸(さんし)虫」を封じるため、悪事を見聞きせず、話さない三匹の猿を出したなどの説もある。
 
江戸中期に出版された『和漢三才図会』の「庚申」の項を見ると三猿の挿絵が添えられている[4]。」(三猿-wikipediaより)
 
なお、「三尸(さんし)とは、道教に由来するとされる人間の体内にいると考えられていた虫。」(wikipedia)だそうです。
 
ついでに人物をご紹介します。昭和天皇に植物や微生物について御進講をしたこともある人です。

Minakata_kumagusu

南方熊楠-wikipediaより 日本人離れした風貌は、幕末の佐久間象山の写真と重なるものを私は感じますが・・・。
 
「1891年(明治24年) - フロリダ州ジャクソンヴィル市に移り、生物を調査。
中国人、江聖聡の食品店で住み込みで働く。
新発見の緑藻を科学雑誌『ネイチャー』に発表、ワシントンD.C.の国立博物館から譲渡してほしい旨の連絡がはいる。
 
中略。
1893年(明治26年) - 科学雑誌『ネイチャー』に初めて論文「極東の星座」を寄稿。オーガスタス・ウォラストン・フランクス(英語版)と知り合い大英博物館に出入りするようになる。
考古学、人類学、宗教学などの蔵書を読みふける日々が続く。
 
1895年(明治28年) - フレデリック・ヴィクター・ディキンズと知り合う。大英博物館で東洋図書目録編纂係としての職を得る。
1896年(明治29年)2月27日 - 母・すみが亡くなる。
1897年(明治30年) - ロンドンに亡命中の孫逸仙(孫文)と知り合い、親交を始める(孫文32歳、熊楠31歳)。
1898年(明治31年) - 大英博物館で日本人への人種差別を受け暴力事件を起こす。
 
中略。
ロンドン大学事務総長の職にあったフレデリック・ヴィクター・ディキンズ[25]は『竹取物語』を英訳した草稿に目を通してもらおうと熊楠に大学へ来るように、と呼び出す。
熊楠はページをめくるごとにディキンズの不適切な翻訳部分を指摘し、推敲するよう命じる。
 
日本に精通して翻訳に自信を持っていたディキンズは、30歳年下の若造の不躾な振る舞いに「目上の者に対して敬意も払えない日本の野蛮人め」と激昂、熊楠もディキンズのこの高慢な態度に腹を立て、「権威に媚び、明らかな間違いを不問にしてまで阿諛追従する者など日本にはいない」と怒鳴り返す。
 
その場はケンカ別れに終わるが、しばらくして熊楠の言い分に得心したディキンズは、それから終生熊楠を友人として扱った。
 
大英博物館の図書館で閲覧者に人種差別発言を受けた熊楠は大勢の前で頭突きを喰らわせ3か月の入館禁止となった。
 
1年後に再度同じ者を殴打したため博物館から追放されたが、学才を惜しむ有力イギリス人たちから嘆願書が出され復職した。」(南方熊楠-wikipediaより)
 
「阿諛追従(あゆついしょう)とは。意味や解説。気に入られようとして、おもねりへつらうこと。」(四字熟語一覧 - goo辞書より)
 
失われた20年の間の単なる人減らしリストラ旋風の影響を受けて、今ではそれがサラリーマンの標準的資質にまでなってしまったような感がありますが・・・。
生活は明治の方が苦しかったでしょうけど、人間の品格は明治のほうが豊かだったようです。
 
 
「1929年(熊楠62歳)、昭和天皇が田辺湾沖合いの神島(かしま)に訪問した際、熊楠は粘菌や海中生物についての御前講義を行ない、最後に粘菌標本を天皇に献上した。
 
戦前の天皇は神であったから、献上物は桐の箱など最高級のものに納められるのが常識だったが、なんと熊楠はキャラメルの空箱に入れて献上した。
 
「アッ」現場にいた者は全員が固まったが、この場はそのまま無事に収まった。
 
側近は「かねてから熊楠は奇人・変人と聞いていたので覚悟はしていた」とのこと。
 
後年、熊楠が他界した時、昭和天皇は「あのキャラメル箱のインパクトは忘れられない」と語ったという。
 
※1962年、昭和天皇は33年ぶりに和歌山を訪れ、神島を見てこう詠んだ「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」」
「人間に限界なし!あの人の人生を知ろう~南方 熊楠」より抜粋。
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic32.html
 
 
鹿島は神島(かしま)と同音だったのですね。
いま時分、随分と日本人はおとなしくなってしまったものです・・・。

Nec_0056s

NEC_0056  高石神社から南面の丘を眺める

Nec_0070s

NEC_0070 丘上のマンション群

Nec_0071

NEC_0071 六本木の人気スポット

Nec_0072s

NEC_0072 同上 もうすぐクリスマス♪
意外なことを学びました・・・。
イエス。キリストの生誕日はわからないとのことでした。
 
低線量の放射能の内部被ばくの危険性を「わからない」とするのが正しいのと同じで、「わからないこと」を「わからない」とする態度は大切だと思いました。
 
それを研究する態度も大切だと思います。
 
「クリスマスは何故12月25日か?あるいは贈与習慣としての日本のクリスマス」より抜粋します。
http://kousyou.cc/archives/4910
 
「歴史的にみれば、クリスマスがイエス・キリストの誕生日であるとする根拠は全くない。
オスカー・クルマン著「クリスマスの起源」によると、12月25日をイエス・キリストの誕生日と定めたのは4世紀のことだという。
 
3世紀頃まで、イエスの誕生は春と考えられていた。
イエス誕生時の様子を記した新約聖書「ルカによる福音書」2章8節の『その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。』(日本聖書協会「新共同訳聖書」新約P103)という記述から、当時のパレスチナで羊飼いが野宿をできるのが3月から11月にかけてであること、また天地創造が春から始まることに対応して3月28日、4月2日、4月29日、5月20日などがイエスの誕生日と推定されていた。
 
ただし、当時のキリスト教徒にとってイエスの誕生日がいつなのかは大きな問題ではなかったという。
『初代教会にとっては、キリストの死と復活が、キリストの受肉よりもはるかに大きな関心事であった』(P15)からだ。
 
クルマンが『かすかな、間接的な、クリスマスの起源』と呼ぶのが二世紀、アレクサンドリアのグノーシス主義の一派バシレイデス派で、彼らは神なるキリストがイエスの受洗によって現われたと考え、イエスの受洗を記念する祝祭「顕現祭(エピファニア)」を1月6日(または10日)に執り行った。
 
当時、アレクサンドリアではアイオーン神の誕生の祝祭が1月6日に行われており、またこの日は西アジアでは冬至でもあったから、異教徒の祝祭とキリストの顕現を重ねることで布教を行ったものと考えられている。
 
アイオーン(時間・時代の神格化・高次の霊)はグノーシス主義の重要な観念の一つでもある。後に1月6日の顕現祭は東方教会に広がるが、これが画期だったのはイエス・キリストの顕現を祝うという行為の始まりであることだった。」(抜粋終わり)

京王高尾山温泉 極楽湯 訪問記

とても清潔な日帰り温泉専門店でした。

Pap_0006s

PAP_0006 高尾山氷川神社にお参り。温泉の隣になるので参らないわけには行きません。

Pap_0007s_2

PAP_0007 高尾山口駅の裏が氷川神社と極楽湯

Pap_0009s

PAP_0009 氷川神社の由来「縁結び、五穀豊穣の御神徳あり・・・と」

Pap_0005s

PAP_0005 駅の北側にある正面の館が高尾山温泉極楽湯です。

Pap_0004s

PAP_0004 京王電鉄の経営です。(壁の右上にKEIOのマーク)
どうりで普通の日帰り温泉旅館とは異なり、女性スタッフの気遣いが細やかで素晴らしかったです。

Pap_0003s

PAP_0003 京王高尾山温泉 極楽湯と書いてあります。撮影しませんでしたが、入口暖簾をくぐって左手の壁に人の大きさくらいのでかい天狗のお面がかけてありました。高尾山は修験道の山だったという意味かも知れません。
それほどでかいお面でしたが、入館時は見落とししていました。退館時に気づきました。
湯船の様子など詳しくは下記サイトをご覧ください。
 
「京王高尾山温泉」
http://www.takaosan-onsen.jp/bath/index.html
 
以下では、今日の体験感想を述べます。
 
上記サイトによれば、
 
「アルカリ性単純温泉
泉色 微弱白色・澄明
源泉温度 26.2°C
効能 筋肉痛・関節痛・五十肩・関節のこわばり・うちみ・冷え症・疲労回復・健康増進」とあります。
 
天然温泉 露天岩風呂(ぬる湯・あつ湯)の湯質はアルカリ性で、二の腕を擦ると若干ぬるぬるします。
 
タイルがつるつる滑りやすくなっているのも、アルカリ成分によるものとのこと、コケナイようにご注意ください。
 
首都圏日帰り温泉第1位は埼玉県北部にあり、行ってみましたがいまいち感がありました。
その第2位に上がっていたのが、この極楽湯です。
 
天然温泉 露天岩風呂の「ぬる湯」は39.4℃でなかなかゆったり浸かれていい湯でした。
1時間半ほどそこに居たと思いますので、最近ではめったに出会えないゆっくり湯治のできる湯船でした。
 
先日、山梨での私的に見た日本一のコストパフォーマンス温泉(公衆温泉)(過去記事参照)のぬるぬる感には負けます。その半分程度ですが、十分なアルカリ性を感じました。
 
大人通常料金は1,000円(税込)ですので、コストがそこそこかかりますので、コストパフォーマンスでいうと日本一にはなれません。
 
しかし、入場券10枚綴り8,000円(税込)を買いますと、一回800円の入浴になり、日本一の座へかなり接近してきます。
 
もしここの入浴料が500円ならば、間違いなく私的には日本一の日帰り温泉になります。
天然温泉 露天岩風呂(あつ湯)は一段高いところにあり、そこから高尾山方面の林を眺めていて、山鳥を数羽発見し、その鳴き声を聞いたのは高い得点となっています。
首都圏日帰り温泉1位を訪ねてがっかりしたので、2位の高尾山温泉へ来るのに半年を経過してしまいました。
 
面倒くさがらずに来てみてよかったです。
日本2位になる可能性さえ感じた日帰り温泉でした。
 
上記サイトで紹介があるようにそのほかにもいろいろな湯船を用意していますが、私はあまり興味がありませんが、腰湯(座り湯)だけは特筆すべきものでした。
 
寝湯は好物なのですが、座り湯は初めての体験で気に入りました。寝湯には負けますが、ある瞬間にこれはいいと感じました。
 
向かって一番右端に座っていますと、朝日が上がってきて上半身をぽかぽかと温めてくれます。
背中や腰、尻、手などは流れる湯水で温まります。
 
しばらくしていると、「フラッ」と寝入りそうになりました。
 
寝湯で寝ていて眠るのは自然ですが、座り湯でつい眠りそうになったことに感動しました。
 
今は太陽がなければ上半身表面は寒いので、なかなかそういう状態にはなれませんが、太陽が照射した一瞬にそういうことを体験できました。
 
よって、春先に座り湯に座れば、座ったまな眠れそうです。
また行こうと思いました。
 
帰りにカウンターの女性スタッフが頭に濡れタオルを乗せて帰ろうとする私を見て、「ビニール袋を差し上げましょうか?」と聞いてくれました。
 
私からビニール袋を下さいと言った経験は別の温泉でありましたが、温泉館の人からそう申し出をされたのは初めてでしたので、顧客応対がしっかりしているなあと感心しました。
 
顧客あっての京王電鉄、さすがに社員教育が線路の隅々まで行き届いているようです。
 
いい湯に入ったなあ、という実感を抱いて帰路に向かいました。
 
ちなみに温泉客用の無料バイク置き場は125cc以下の場所へ誘導されますので、大型バイクの人はさらにその奥の左手、p5の看板の左隣の台形のスペースのバイク置き場へ移動する必要があります。オレンジ色の看板に「温泉客用バイク駐輪場」という風な看板が出ています。

2016年12月22日 (木)

昌子源はゼロ点完封を逃がした!

レアルをゼロ点で完封勝ちしていれば、昌子源は勝利の源であり、世界中のヒーローになれたはずです。負けても日本のメディアからは褒められていますが、甘やかさないほうが彼のためです。
勝っていれば、昌子源は今の程度の人気に終わっていないはずです。
私は歯が折れた時点から少しファンになり、アトレティコ・ナシオナルで大ファンになりました。
 
12月18日の欧州王者のレアル・マドリー(スペイン)対と鹿島アントラーズの決勝戦の報道は熱くなっていましたので、既に皆さんご承知のことと存じます。
 
私は『勝てる試合だった』と思っていますが、後半半ばから鹿島の選手たちは息切れしていたようです。
2~3回決勝点を入れて90分で世界一になれるシーンがありました。
終了直前の遠藤の右端からのシュートは流し込めばよかったのですが、力が入りすぎたのでしょう。疲労した足首はその衝撃に耐えられなかったようで、ぐにゃりと曲がってゴールマウスから外れました。
キーパーは取れない位置にいたので、パスをするつもりで隅を狙えば入ったのに・・・と中継を見ながら思っていました。
録画で解析してみないと事実はわかりませんが、そのとき私はそう思いました。
数十秒後に90分経過し前後半終了だったので、3:2で鹿島の優勝となったはずです。
 
後日暇を見て、どのシーンがどうだったのかを、私なりに調べてまた報告いたします。
 
まず潮目を変えたのは鹿島のキーパーでした。
前半10分頃のキーパー曾我淵のファインセーブからレアル・マドリードの様子が少しだけ変わりました。
『コースぎりぎりを狙わないと止められる。』と。
 
そう思い込んだようで、数々のシュートを枠から微妙に外しはじめました。
 
そのすぐあとで昌子源がフォワードをガチンと止めたことも相まって、『守備陣が堅い』との印象を相手にもってもらったことが緊張感のある試合に持ち込んだ成功要因でしょう。
 
『あれ、この程度だった、レアル?』
 
そう思ったのか、柴崎が思い切って攻めたら2本とも入りました。
 
彼のシュートの技も優れていますが、前半10分過ぎに日本の守備陣が作り上げたレアルの抱いた『怖れ感覚』が柴崎への守備の甘さにもつながったと思います。
 
前日のテレビで、都並さんが、『ザキ+ザキで優勝だ!』と叫んでいましたが、確かに一人のザキ(シバザキ)が活躍した試合になりました。
 
もう一人のザキ、金崎は得点こそありませんでしたが、体幹の強さと素早さで相手のFWに決して負けていなかった様子ははっきりと見えました。やや疲労があったのでしょうか。
 
やはり金崎は従前同様に後半15分から投入し1点を取らせる戦法が似合っていたのではないでしょうか。この決勝だけ、先発をさせたのは、監督のあせりなのかも知れません。
 
ザキザキともにスペインリーグへの移籍話があるはずです。
 
あと、曽我淵と昌子源もスペインかイギリスへ行くでしょう。
 
鹿島は2軍の養成を急いで1軍の穴を早く埋めないと、来年のこの決勝の舞台に立てないかも知れません。
 
取り急ぎ、小生の勝手な感想の報告まで。草々
あれをゴールマウスに決めれるかどうか、が世界と戦えるかどうかに分かれます。
Jリーグレベルを脱出していたように見える鹿島でしたが、体力気力面ではやはりJリーグのちょっと上レベルでしかなかったようです。
 

2016年12月19日 (月)

ストロンチウムの学習(19)レントゲン検査の遺伝子への影響

あるクリニックの健康診断時の注意事項の中に、下記の文言を見つけました。
 
「妊娠中の方、妊娠している可能性がある方は、レントゲン検査を受けないで下さい。」
(健康診断【当日】の注意点より)
・・・。
放射能レベルが健康に問題ないという報道をする場合、よく東京ーニューヨーク間の航空機利用による宇宙放射線被ばく何回分とか、胸部レントゲン検査何回分程度だから、直ちに影響を人体に与えるものではない、というアナウンスを2011年3月11日以降何度も耳にしました。
 
これまで学んだ通り、それは外部被ばくによる身体への影響がないとの意味合いでした。
 
しかし、ストロンチウムやウランなどの原発から発散される放射能物質による晩発性障害は、低放射線濃度ほど「遅れて」発生するという特徴がありますので、食物や運用水や空気吸引などにより微量の放射性物質を体内に取り入れて蓄積した場合、その後年における影響の有無は「わからない」という態度が今の科学のレベルでは正しいのではないかと私は思います。
 
「わからないもの」ならば、それらを体内に取り込まないように注意して生活する。
これが正しい道だろうと思います。
 
ちなみにx線は放射線ですが、放射性物質は発生しませんので、内部被ばくの心配はありません。
 
冒頭に述べた胸部エックス線による妊婦の胎児への影響の記述は、胎児の細胞分裂にエックス線が重大な影響を及ぼす懸念があることを医師や看護師が認識している証拠であります。
 
よって、レントゲン検査であってもできるだけ避ける方策を考えることが身体にとってよいことであると思います。やらなくてもよい場合はお断りするのが正しい道でしょう。
 
とくに、長時間エックス線を照射し続ける胃のX線透視や脳のX線CTなどは、避けられるのであれば避けるべきだ、と思います。
 
胃カメラ検査や脳や身体のMRI検査では、エックス線や放射能は全く出ませんので、これらを選択するようにしたいものです。
それは妊婦だけの問題でなく、一般の人々にも等しく言えることだと思います。
 
とりわけ、細胞分裂が激しい胎児の方が重大な影響を被り易いということもわかりますが、細胞分裂がほとんど少ないお年寄りだから何度放射能を浴びても問題ないということにはなりません。お年寄りでも結構活発に細胞は再生しています。
 
低濃度のエックス線の影響は、「よくわからない」と考えるのが正しい道だと思う次第です。
しかしながら、やむを得ない事情があり、先日私は胸部エックス線を浴びました。
断ることはちょっと難しい状況でした。
「言うは易く、行うは難(かた)し」

2016年12月15日 (木)

「 勝利の源、昌子源! 」(吹田スタンドの横断幕)

Atletico Nacional 0-3 Kashima Antlers suzuki yuma
「【海外の反応】「歴史的瞬間だ」鹿島アントラーズ、アジア勢初のクラブW杯決勝進出!南米王者Aナシオナルに3-0で勝利!」より抜粋します。
http://nofootynolife.blog.fc2.com/blog-entry-2329.html
クラブ・ワールドカップ

「※試合終了後の反応を追記しました
 
FIFAクラブワールドカップ2016の準決勝が14日、市立吹田サッカースタジアムで行われ、開催国代表で、初出場となるJリーグ王者の鹿島アントラーズが南米代表のアトレティコ・ナシオナル(コロンビア)と対戦し、3-0で勝利した。
 
前半33分、FIFA主催大会で初となるビデオ判定により獲得したPKをFW土居聖真が決めて先制すると、後半38分にMF遠藤康、同40分には途中出場のFW鈴木優磨が追加点。
 
日本勢としてはもちろん、アジア勢としても史上初となる決勝進出を決めた。
 
欧州王者のレアル・マドリー(スペイン)と北中米カリブ海代表のクラブ・アメリカ(メキシコ)が激突する準決勝もう1試合は明日15日に行われ、鹿島はその勝者と18日の決勝戦(横浜)で対戦する。-ゲキサカ-」(抜粋終わり)

Suzuki

写真(同上より引用)得点直後のFW鈴木優磨の雄たけび。
 
レアル・マドリードのエースストライカーロナウドの大ファンのサッカー少年だった鈴木が後半40分にようやく監督から交替せよとの許しが出て、そのファーストタッチでゴールを決めました。
 
金崎の素晴らしい右サイドからのマイナスの低いロングパスが「技あり」でしたので、7割は金崎の貢献です。
 
ゴールをしたら必ずやると公言していた「ロナウド」の真似がこの写真です。
 
似ているようでどこか和風のロナウドでした。
 
試合全体を録画で見ました。
 
第1戦で元気なく交替させられた名人MF小笠原の回復ぶりと、歯の折れた体の大きなセンターバックの昌子源(しょうじ げん)選手の動きに注目してみました。
 
前半の小笠原の動きは全盛期のそれに戻っていました。
第1戦では、国内リーグでの疲労がたまっていたのでしょう。
私はJリーグはあまり興味がないので、どれほど小笠原選手が疲れていたのかは存じません。
 
かつてオランダリーグで活躍した小笠原ですから(と、老人の私は記憶しておりますが)、アトレティコ・ナシオナルに気後れしたかのような緩慢なプレーに私もおかしいとは感じていたのですが、前半で監督は交替させ、その次の試合は出させませんでした。
休養を与えたのです。
 
休養明けの第3戦が前述のアトレティコ・ナシオナル戦でした。
後半半ばまで頑張っていましたが、最後は若手の永木にバトンを渡しました。
 
決勝戦はライブで見ようと思いますが、果たしてできるかどうか・・・。当日の予定は・・。
 
キーパーの曽我淵と歯が折れた昌子は、まさに神がかっていました。
 
少年にサッカー指導をするとき、昌子源選手は「日本が強くなるにはセンターバックが強くならなきゃあだめなんだ。」と教えて、地味な仕事でありますが、ゴールキーパーのすぐ前で守備に専念する選手の育成が日本国強化の道筋だと説いていたそうです。
 
まさにその通りの守備ぶりで、昌子選手だけで3点くらい防いで、曽我淵も3点くらい防いでいました。
 
3:6で負けていておかしくない押された試合でしたが、蓋をあけてみれば二人の活躍で3:0の圧勝でした。
 
この守備陣の輝きが続けば、レアル・、マドリードをゼロ完封も夢ではありません。
 
昌子選手の生きている歯がカルシウム100%であることを祈ります。
 
画面で昌子選手が天を見上げたときの顔をよく見たら、既に白い歯が入ってきれいになっていました。
最新技術で義歯をさっそく入れたのでしょう。
 
スタンドに翻る横断幕に「勝利の源(みなもと)、昌子源!」と書いていました。
 
「しょうりのみなもと、しょうじ げん!」
 
鹿島が優勝の可能性は13%あると推測しています。
ご健闘を祈ります!・・・というかあ、・・・絶対勝て!
 
昌子源、点を1点もやるな!

2016年12月14日 (水)

歯が折れても決勝進出だ!昌子源選手がんばれ!

Gettyimages

「接触プレーで前歯が折れていたDF昌子源「痛すぎて集中できなかった」」より引用。https://www.soccer-king.jp/news/world/cwc/20161211/526443.html

歯が折れた原因分析は、この前の拙著ブログ記事で画像を使って解説しています。

12月11日のFIFAクラブワールドカップ ジャパン 2016準々決勝で、開催国代表の鹿島アントラーズ(日本)は、アフリカサッカー連盟代表のマメロディ・サンダウンズ(南アフリカ)と戦い、2:0で勝ったが、DFの昌子源(しょうじ げん)選手は前半20分過ぎに前歯を折った。
 
 
そして今日14日の夜、風呂上がりにぼんやりNHKニュースを見ていたら、鹿島アントラーズがなんと南米王者ナシオナル・メデジンを3:0で負かして、決勝へ進むことになっていました。前日の約束通りDFの昌子選手はゼロ点で抑えきっていました。
 
おそらく決勝の相手は世界一のレアル・マドリードでしょう。
 
これも勝って優勝賞金をゲットして前歯の義歯を作りましょう。
 
歯が折れてからの昌子選手のディフェンスには輝きが出ているのではないでしょうか?
ストロンチウムの輝きでないことを祈ります。
 
誰も賠償してくれないのであれば、決勝で勝って稼いで自分で治療しましょう。
 
私はがぜん、昌子源選手が大好きになりました。
 
参考記事)
 
「鹿島がアジア勢初の決勝進出/クラブW杯準決勝詳細」より抜粋します。
[2016年12月14日21時51分]
http://www.nikkansports.com/soccer/news/1751523.html

<クラブW杯:鹿島3-0ナシオナル・メデジン>◇準決勝◇14日◇吹田S
 J1王者の鹿島(開催国枠)が南米代表のナシオナル・メデジン(コロンビア)を3発で下し、Jリーグ初、アジア勢初となるクラブW杯の決勝に進出した。
 
 鹿島は15日に行われる、Rマドリード(スペイン)とクラブ・アメリカ(メキシコ)の勝者と世界一をかけ、18日に日産スタジアムで対戦する。」(抜粋終わり)
注)相手はアトレティコ・ナシオナルだったと記憶しているんですが、この記事ではメデジンと書いています。同じチームなのかしら?
 

2016年12月13日 (火)

ストロンチウムの学習(18) 歯が折れた?!@昌子源選手

サッカーキングの記事によれば、FIFAクラブワールドカップ ジャパン2016の12月11日の準々決勝で日本人選手の前歯が真っ二つに折れたそうです。
 
私は咄嗟にカルシウム的挙動を体内でするというストロンチウムを想起し、福島事故現場と鹿島アントラーズの練習拠点のと距離を脳裏に浮かべました。
 
BS日テレのテレビ中継を見ていたときは、歯が折れたのか、骨が折れたのか、或いは歯が骨から脱落したのかなど、詳細は不明でした。
 
昌子源選手の自己申告ではかなりひどい折れ方をしていたようです。
 
24歳の大柄な青年の前歯が、ぽっきりと・・・。
 
「FIFAクラブワールドカップ ジャパン 2016準々決勝が11日に行われ、開催国代表の鹿島アントラーズ(日本)は、アフリカサッカー連盟代表のマメロディ・サンダウンズ(南アフリカ)を2-0で下し、準決勝進出を果たした。
中略。
 
 前半20分、相手選手との接触で顔を痛めた昌子(しょうじ)はピッチサイドで治療を受けると、すぐにプレーを再開した。結局はフル出場で完封勝利に貢献したが、このプレーで前歯が真っ二つに折れてしまい、特に前半は痛みに耐えるのが辛かったという。」
(「接触プレーで前歯が折れていたDF昌子源「痛すぎて集中できなかった」」より抜粋)
https://www.soccer-king.jp/news/world/cwc/20161211/526443.html
 
歯が二つに折れたという自己申告でした。
 
「永木が勝利への青写真をいよいよ具現化させようと思いを巡らせていたハーフタイム。ディフェンスリーダーのDF昌子源は、おもむろにチームメイトたちに頭を下げている。
「前半はホンマごめん。後半は絶対に集中し直して、ゼロでいくから」
 
競り合ったFWカマ・ビリアトのひじが、まともに口元に入ったのは20分すぎ。
ピッチの外に出て応急処置を受けると、前歯が真っ二つに折れて、神経がむき出しになっていることが判明した。
 
この日が24歳の誕生日だった昌子にとっては、人生で初めてとなる“手痛い”贈り物だった。
 
「これは言い訳になるかもしれんけど、この歯がいってからマジで集中力が…風とかが当たるだけで痛すぎて、マジで集中できなくて。ナオ(DF植田直通)にも『急にゲン君、黙った』と声を出さなくなったと言われたけど、前半はホンマに情けなかった」」
(「鹿島の歴史に新たなページを…常勝軍団が国際舞台で遂げる“急成長”」より抜粋)
https://gunosy.com/articles/Rjyaa
 
その試合を録画してみていましたので、我が家の解像度が不十分な画面をさらに性能の低いガラケーのカメラで撮影した静止画像で解説を試みます。
 
いずれの画像もBS日テレ放送の「FIFAクラブワールドカップジャパン2016 MATCH3 準々決勝」の録画データより私が撮影したものを引用します。

Sh3b0579s

SH3B0579S 左端の選手から黄色い〇印のFWカマ・ビリアトへ赤い矢印のように長いパスが渡ります。

Sh3b0580s

SH3B0580Sそこへカマ・ビリアトの背後から赤い〇印の白いユニフォーム姿の昌子源選手が素早く体を寄せて来て、長い左足を出してボールを蹴り出し防御をしました。

Sh3b0581s

SH3B0581S 一旦芝生に倒れたカマ・ビリアトはすぐに起き上がって、後ずさりをしながら後方で守備をしている昌子選手の方へ接近します。
一、二度ちらっと後ろを斜めに見て、先ほどぶつかった昌子選手であることを確かめながらカマ・ビリアは昌子へと距離を縮めます。
 
再び左方からパスがカマ・ビリアトへと出され、再び背後から昌子選手がディフェンス(守備)をします。私の印象では先ほどのディフェンスを受けた仕返しの意味合いもカマ・ビリアトの脳裏には浮かんでいたのではないか、昌子を狙って接近したのではないか、と私には思われました。

Sh3b0582s

SH3B0582S 二人は再び体を当て合います。

Sh3b0583s

SH3B0583S 次の瞬間、昌子選手が芝生へ倒れ、審判に歯が折れたと伝え、治療に入ります。治療と言ってもタオルを咥えて止血をしていただけのようでした。
赤い血はほとんど見えませんでした。

Sh3b0584s

SH3B0584S 巻き戻して歯が取れる瞬間を静止画で撮影してみました。動画でみるとはっきりと白い小さな歯らしき物体が、昌子選手の口から真っすぐに地面へと落ちていくのが見えました。(赤い丸の中)口の中で折れた歯を、違和感があるので昌子選手が軽く吐き出したという感じです。

Sh3b0584szoom

SH3B0584SZOOM 拡大してみましたが、歯らしき白くボケた点が不鮮明ですが見えます。

Sh3b0585s

SH3B0585S 衝突のシーンですが、カマ・ビリアト選手の左手の2の腕の外側が昌子選手の前歯に当たっているように見えます。
肘が歯に当たったのではないように見受けられます。
自分の左手の二の腕の外側を右手の指でなぞってみますと、確かに骨が鋭く出っ張っている部分が腕に沿って15㎝くらい続いています。
 
その鋭い骨の稜線と相手の歯が、運悪く丁度当たって折れたのかも知れません。
 
しかし、24歳の屈強なしかも日本屈指のディフェンダーの昌子選手の前歯が、かくももろくも折れるのをテレビ画面を通して目の当たりに見て、私はやはりストロンチウムの悪戯を想像せずにはいられませんでした。
 
ほんのわずかなストロンチウムの存在であっても、カルシウムに化けて存在しますが、強度的にはカルシウムと等価ではない点(部位)がわずかに歯や骨の内部に存在することになります。
 
素材の強度試験などをやっている人には理解できることでしょうが、クラックというのは、ほんのわずかな異物の存在によっても、それが起点となって強度が低下し割れを生じるようになるものです。
 
ストロンチウムが関与しているかどうかは、芝生に落ちた折れた歯を分析センターなどへ持参して放射性物質の存在有無をチェックしてもらえばわかるはずですが、折れた歯はその後どのようになったのでしょうか・・・。
私が傍で見ていたら、すかざず折れた歯をビニール袋へ入れて、茨城県工業技術試験場に分析検査委託料5000円を持参して分析依頼したのですが・・・。
 
おそらく、想像ですが、1週間程度で歯の破断面における核物質の存在有無は判明したことでしょう。もしストロンチウムがあれば、わずかにベータ線(放射線)を検出できるはずだと思うのですが・・・。
 
万一、ストロンチウムの存在が科学的に証明された場合は、歯の欠損に伴う損害賠償を昌子選手は国へ求めればよいのでしょうか、あるいは東京電力へ求めればよいのでしょうか。
 
それとも知らん顔をして、誰も面倒を見ないのでしょうか・・・。
 
それは正しい道、中道であるかどうか、釈尊に聞いてみたい気がします。

戦争の親玉たちへ ボブ・ディラン

「武力ではなく、説得によって世界に広まった宗教は仏教だけである。」
 
これはインド哲学ならびに比較思想研究の泰斗(たいと)である故中村元(はじめ)先生(1912年~1999年)の言葉であります。
「NHK「こころの時代」(宗教・人生)「ブッダ最後の旅に学ぶ」(丸井浩著)」の「はじめに」に書かれている言葉です。
 
もともとの放送内容は中村元博士生前時に収録されたもので、釈迦が80歳に亡くなる直前に行った故郷への200㎞に渡る「最後の街道歩き」で釈迦が語った言葉を原始仏教経典を用いてわかりやすく解説したものでした。
 
この前の記事などで明らかにしてきましたように、「釈迦」(ブッダ)の名と、その瞑想座禅する姿をユダヤ人青年ボブ・ディランは知っていました。
 
そして青年は、戦争で金もうけを企んでいる大人たちをこう批判して歌いました。
 
「戦争の親玉 ボブ・ディラン21歳  歌詞 日本語」
https://www.youtube.com/watch?v=HINnzUZzxMw
 
このサイトでは音楽メロディだけと、日本語訳歌詞をテロップで上から下へ流しています。
歌手の声は入っていませんが、静かに日本語訳を見ているだけでボブ・ディランからの圧力を感じます。
戦争の親玉たちもこの圧力を受け取ったに違いありません。
 
もう一つあります。
「戦争の親玉 ボブ・ディラン/ Masters of War by Bob Dylan プロテストソング」
http://protestsongs.michikusa.jp/english/dylan/mastersofwar.htm
 
このサイトでは21歳のように思われる若い日のボブ・ディランの声とアコースティックギター演奏が入っています。
画面は戦争の静止画像のスライドショーで、各国各地の戦争の親玉たちがあぶりだされています。
 

Hirosima

原爆ドームの静止画像(同上サイトよりガラケーで撮影)
日本の映像としては広島の原爆ドームが使われていました。
 
普通の子供たちや女性や老人たちが、普通の生活をしていた夏の日の朝8時過ぎ、朝日の照りつける中でどういう惨劇が起こったのか、その想像力を人間は維持すべきです。
 
この静止画像だけの動画には、”預言者ボブ・ディラン”の姿は登場せずに、旋律と声のみが聞こえます。
まるで「そういう気分」にさせられる動画編集でした。
 
「なぜ?戦争は絶えないの?」
http://f-emile.jp/mt/archives/2012/06/post_140.html
2012年06月21日付け「えんちょうのひとりごと」より以下に抜粋します。
 
「今の世の中、いつでも何処かで必ず戦争が起きています。
 
 戦争の原因を見ますと、国と国との利害関係であったり、宗教の対立であったり、人種間の問題が原因だったり、一国の中での意見の対立による内戦であったり、それぞれの対立の代理戦争であったり、・・・・・原因はいろいろで、
挙句の果てには平和を守るための戦争と訳の分からない理由での戦争だったり。
 
 なぜ!こんなにも訳の分からない戦争が、絶えることなく世界中のどこかで戦争が起きているのでしょうかね。
 
 やりたい人が勝手にやっていればいいのかも知れません。が、戦争には必ず犠牲者が出ます、何の罪もない子どもたちが犠牲者になって命を落としたり手足が奪われたりすることが私は絶対に許せません。私だけではありませんよね。皆さんだって絶対に許せないはずなのに、なぜ?戦争が無くならないのでしょうか?
 
 これらの戦争の影に≪軍事産業≫と云う物が関係していると思うのです。
 
 「ノーベル賞」と云う誰しもが憧れる素晴らしい賞がありますね。この賞は皆様もご存じの通り、ノーベルがダイナマイトを発明して、戦争の時に莫大な量のダイナマイトが使われて、その結果ノーベルは巨万の富を得て、その富を下に創設された賞ですね。
つまり戦争と云う多数の犠牲者のもとに得たお金が資金源です。
 
ノーベル平和賞とは摩訶不思議な賞ですね。まるで平和のための戦争を正当化するに匹敵する発想と思います。
 
 話がそれましたが、つまり、戦争は≪軍事産業≫に莫大な富をもたらすのです。
 日夜作り続ける武器弾薬を消費する場所を欠いたら会社は倒産してしまいます。
 私たちのかわいい子どもたちを戦争の犠牲者に絶対させてはいけません!!
 この地球上から戦争を無くす方法はありますよね!!!   私の独り言でした。」(抜粋終わり)
 
こに世は戦争をしているか、または戦争の準備をしているか、の二つだけしかないという言葉を耳にしたことがあります。
 
そういう考えの連中からすれば、70年間日本に戦争がなかったのは、その準備に70年を費やしていただけだ、という論理になります。
 
国民は戦争に鈍感になってはいけません。
 
うっかりすると日本人の中の戦争の親玉たちが、またうごめく可能性があります。
 
すでに日本の科学技術の軍需転活用研究は、数年前から活性化し始めました。
喉元を過ぎて熱さを忘れたかのように・・・。
 
「彼(ノーベル)が建設したダイナマイト工場は世界100箇所に及び ヨーロッパ有数の実業家として未曾有の成功をおさめました。
しかしその一方で、開発したダイナマイトは兵器に利用され 多くの人々の命を奪う結果に…。
ダイナマイトの利用を巡って戦争と平和の狭間で揺れ動いた彼は 平和への希求を“ノーベル賞創設”という遺言に託し、昇華。
 
そうした彼の気高い意志は、死後100年以上を経た今日もノーベル賞を通して学問と人間愛を奨励し、人類の進歩に貢献し続けています。
 
中略。
 
1842年秋、(スウェーデンに住む極貧の)ノーベル一家に朗報が舞い込みました。5年前に(ロシアのサンクトペテルブルグへ)出国した父イマニュエルのもとに行くことになったのです。
当時、イマニュエルの事業は大成功を収めていました。
 
ロシアがヨーロッパ列強に対抗するため、軍備増強に力を注いでいることを知った彼は、スウェーデンにいたときに発明した新型の機雷と地雷をロシア軍事省に売り込んだのです。
軍事省担当者はこの新型機雷の性能を評価し、ロシア軍の武器のひとつとして採用。
その礼金を元手に彼は、鋳物で工作機械や砲車の台・車輪を製造する工場を経営するまでになっていました。 」(「アルフレッド・ノーベル  ~ 平和への希求 ~」より抜粋)
http://www.b-family.org/public_html/omoi/016/nobeldoc.htm
 
ノーベルの私生活の中に、「ノーベル平和賞」という爆弾製造の親玉に似つかわしくないこの賞の起源を見つけました。
 
「(アルフレッド・ノーベルは)ヨーロッパと北米の各地で会社を経営していたため、各地を飛び回っていたが、1873年から1891年まで主にパリに住んでいた[3]。
孤独な性格で、一時期はうつ病になっていたこともある[2]。
 
生涯独身であり、子供はいなかった。
伝記によれば、生涯に3度恋愛したことがある。
最初の相手はロシアの娘アレクサンドラだが、彼のプロポーズを拒絶した。
 
1876年には結婚相手を見つけようと考え、女性秘書を募集する広告を5ヶ国語で出し、5ヶ国語で応募してきたベルタ・キンスキーという女性を候補とする。
しかしベルタには既にアートゥル・フォン・ズットナー(ドイツ語版)という婚約者がおり、ノーベルの元を去ってフォン・ズットナーと結婚した。この2人の関係はノーベルの一方的なものに終わったが、キンスキーが「武器をすてよ」などを著し平和主義者だったことが、のちのノーベル平和賞創設に関連していると考えられている。
そして1905年に女性初のノーベル平和賞を受賞。
中略。
 
ニトログリセリンの衝撃に対する危険性を減らす方法を模索中、ニトロの運搬中に使用していたクッション用としての珪藻土とニトロを混同させ粘土状にしたものが爆発威力を損なうことなく有効であることがわかり、1867年ダイナマイトの特許を取得した。
同年イングランドのサリーにある採石場で初の公開爆発実験を行っている。
また、ノーベルの名は危険な爆薬と結びついていたため、そのイメージを払拭する必要があった。そのためこの新爆薬を「ノーベルの安全火薬」(Nobel's Safety Powder) と名付ける案もあったが、ギリシア語で「力」を意味するダイナマイトと名付けることにした。
 
その後ノーベルはコロジオンなどに似た様々なニトロセルロース化合物とニトログリセリンの混合を試し、もう1つの硝酸塩爆薬と混合する効果的な配合にたどり着き、ダイナマイトより強力な透明でゼリー状の爆薬を生み出した。
それをゼリグナイトと名付け、1876年に特許を取得した。
 
それにさらに硝酸カリウムや他の様々な物質を加えた類似の配合を生み出していった。ゼリグナイトはダイナマイトより安定していて、掘削や採掘で爆薬を仕掛けるために空ける穴に詰めるのが容易で広く使われたため、ノーベルは健康を害したがそれと引き換えにさらなる経済的成功を得た。
その研究の副産物として、ロケットの推進剤としても使われている無煙火薬のさきがけともいうべきバリスタイト(英語版)も発明している。」(アルフレッド・ノーベル-wikipediaより抜粋)
 
最後にもう一度、中村元(はじめ)博士の言葉を嚙みしめます。
 
「武力ではなく、説得によって世界に広まった宗教は仏教だけである・・・。」
 
「Masters of War 戦争の親方ども
by BOB DYLAN (和訳・byてん)
 
Come you masters of war
You that build the big guns
You that build the death planes
You that build the big bombs
You that hide behind walls
You that hide behind desks
I just want you to know
I can see through your masks
 
なあおい 戦争の親方どもよ
大砲をつくるお前ら
殺人戦闘機をつくるお前ら
核爆弾をつくるお前ら
壁の後ろに隠れているお前ら
机の後ろに隠れているお前ら
お前さん方に俺は知ってほしいのさ
俺はお前らの仮面を見透かすことができるってことを」
 
(「ボブ・ディラン・Masters of War 戦争の親玉(和訳)」より1番だけを抜粋しました。)
http://ameblo.jp/et-eo/entry-12105295944.html

2016年12月12日 (月)

やはり釈迦を知っていた!唄いながら踊る男、ボブ・ディラン

「ユダヤの「ZION祭り」は、京都の「祇園(GION)祭り」と同じく7月17日に行なわれる。」(「日本とヘブライの共通点」より)
 
ボブ・ディランはユダヤ人の子としてアメリカのミネソタで生まれ、社会的な問題を題材に歌うフォークロック歌手として登場した。
 
まず最初に祇園について異説を抜粋する。
 
「ユダヤの「シオン(ZION)祭り」は、日本の三大祭りの1つである京都の「祇園(ぎおん)祭り」と同じ7月17日に行なわれるが、“ギオン”は“ジオン”の転訛だと指摘する研究家がいる。
また、ユダヤの「シオン祭り」はノア一家が大洪水を無事乗り越えたことを祝う祭りで、7月17日は『旧約聖書』で「ノアの大洪水」が終わった日とされているのであるが、日本の祇園祭りを最大に特徴づけている数多くの「山車(だし)」は、この“ノアの箱舟”を象徴しているのではないかと推測する研究家もいる。」(「日本とヘブライの共通点」より抜粋する。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb010.html
 
これは1997年.2月に書かれた記事である。
洪水が来る、時代は変わる、増水に石のように沈むな、泳げ、そう歌うディランの歌と雰囲気において一致するように思われる。
昨日、異色の歌を聴いた。
 
「ハリケーン  ボブ・ディラン」
Hurricane / bob dylan
http://kashiwayaku.net/bobdylan/hurricane.php
オレの歌詞和訳」より訳文を抜粋する。
 

World_of_john_hammondhurricane_2

バイオリン演奏の入ったユニークな曲”ハリケーン”
"Hurricane" from Bob Dylan's Desire, 1976. Luther Rix on congas.
Howard Wyeth
From Wikipedia, the free encyclopediaの「World_Of_John_Hammond-Hurricane」より引用。
https://en.wikipedia.org/wiki/Howard_Wyeth#/media/File:World_Of_John_Hammond-Hurricane.jpg
 
この写真はややボケていた。
 
しかし、NHKBSで見た同じシーン映像は強烈な個性が現れていた。
 

Three_member_2

(A)THREE MEMBERS、1975年シカゴでの”ハリケーン”演奏(ボブ・ディラン34歳のときの映像)ベースとアコースティックとバイオリンの組み合わせは異色。

Dyran_2

(B)DYRAN 抑揚の少ないメロディーを繰り返し冤罪事件の背景まで踏み込んで嘘の証言や白人警官の黒人蔑視の姿勢を攻撃する。34歳のおっさんディランである。

Violin_2

(C)VIOLIN 一度だけだが、序盤が終わった頃にバイオリニストは目を上げてボブ・ディランの表情をしっかりと睨みつけるようにして調子を合わせていた。

Like_buddha_2

(D)LIKE BUDDHA 画面左下の日本語訳のテロップに「釈迦のように」という言葉を見つけて私は咄嗟に衝撃を受けた。
 
写真A~D 我が家のNHKBS録画映像「BOB DYLAN ~ディランは変わる~MASTER OF CHANGE」のワンカットよりガラケーカメラで撮影し引用しました。
 

Bobn_2

これが冤罪で苦しんだボクサー”ハリケーン”こと「ルービン・カーター」の写真
https://www.youtube.com/watch?v=1FOlV1EYxmgより引用。
 
アメリカ社会の問題点を歌で告発したボブ・ディラン
 
「ルービン・カーターは冤罪だ
罪状は一級殺人だが誰が保証した?
ベローとブラッドリーだ
二人ともあからさまに嘘をついてる
そして新聞もその流れに乗った
そんな男の人生が
何人かの愚か者の手に握られているなんて
どうなんだ?
彼が罪に陥れられてるのを見て
助けられなかったけど
この土地に住んでいることを恥だと感じた
正義がゲームとなっている土地に」
 
これは歌の9番目の歌詞である。
 
次の10番が最後の歌詞となる。
 
「コートとネクタイをした犯罪者達がマティーニを飲んだり
日の出を見たり
自由にやっている
ルービンが10フィートの独房で
仏陀のように座っている間にだ

無実の男は地獄の生活に
それがハリケーンの物語
法廷が彼の名を晴らすまでこの物語は終わらない
そして彼に時間を返せ
独房に入れられているが
彼は世界チャンピオンだった」
 
「ボブ・ディラン「ハリケーン」英語歌詞&和訳字幕動画を作成してみた」より英語文と対比してみる。
http://mongahouse.blog119.fc2.com/blog-entry-490.html
 
「中略。
How can the life of such a man
Be in the palm of some fool's hand ?
彼の人生が
こんな愚かな人々に委ねられていいのか
To see him obviously framed
Couldn't help but make me feel ashamed to live in a land
Where justice is a game.
明らかにはめられた彼を見て
恥を感じずにいられない
お遊びの正義がまかりとおるこの国に
Now all the criminals in their coats and their ties
Are free to drink martinis and watch the sun rise
上流階級の罪深き者たちは
陽があたる場所で気ままにマティーニを飲む
While Rubin sits like Buddha in a ten-foot cell
An innocent man in a living hell
ルービンは仏陀のように独房に座り
無実の罪で地獄に生きる
That's the story of the Hurricane
But it won't be over till they clear his name
これがハリケーンの物語
潔白が証明されるまで続く
And give him back the time he's done
奪われた時間を取り戻せ
Put him in a prison cell but one time he could-a been
The champion of the world.
彼は今 独房の中
世界チャンピオンにもなれたのに」(抜粋終わり)
 
私がNHKBSの放送で見た特集映画のテロップでは、“そのころルービンは釈迦のように独房に座る“と出ていた。(前掲の写真D参照)
 
その釈迦の名前をディランの詩の中に見つけたとき、私の背骨に電流が走った。
 
人種、宗教、思想のるつぼであるニューヨークで浮浪少年ボブ・ディランは釈迦の思想と接点を持ったことがあるのではないかと・・・。
 
あとで英語の詩と和訳を何度も読み返したみた。
 
しかし、釈迦の単語名を用いたディランの気持ちは、狭い独房の中で瞑想するがごとくに静かに座るルービン・カーターの姿を詩的に描くのに釈迦の座禅の絵を詩に引用したに過ぎないようにも見える。
 
この歌の13年後に、ルービン・カーターの無実は証明されたそうだ。
 
ただ、NHKBSの番組の最後に流した「時代は変わる」の曲には仏教の無常観があふれかえっていた。
 
人々に対しては、
「時代は変わっているから、増水する中で石のように水に沈むのではなく泳ぎ始めた方がいい。」
 
議員たちに向かっては、
「中で安心してるとケガをするぞ
議場の外の争いは激しくなってる」
 
ベトナム戦争の反戦活動を暗示していたのだろう。
 
「遅い者が いずれ速くなり
この時代は いずれ過去になる
今の秩序は急速に消える
トップがいずれ最後尾になる
時代は変化し続けているから」
 
「トップがいずれ最後尾になる♪」のところでトランプの大統領選挙での演説のシーンを登場させていた。
 
これは我が国の平安時代に平家滅亡の物語に登場してくる「諸法無常の響きあり」と極めて似ている。
70歳を過ぎてのボブ・ディランの声は弱弱しくソフトになっていた。
 
日本人はこれを人間が丸くなったというが、彼にはそれは当たらない。
 
もっと激しく燃えて人間の詩(うた)を歌うことだろう。
爆弾製造の親玉たち(ノーベル財団)の前で、いったいディランは何を演じるのであろうか。
ニューヨークで大道芸人のようなパフォーマンスを身に着け、社会問題をフォークロックで歌うウディ・ガスリーを真似て歌い始めたディランだったが、彼の集大成はノーベル賞受賞に関連する演説か演奏になるはずだ。
 
ボブ。ディランよ、ウディ・ガスリーを忘れるな!
 
最後にボブ・ディランの「時代は変わる」の歌から想起した「平家物語の最初の一節」をご紹介してこの項を終わることにする。
 
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕わす
ぎおんしょうじゃの かねのこえ しょぎょうむじょうの ひびきあり しゃらそうじゅのはなのいろ しょうじゃひっすいの ことわりをあらわす」(下記サイトより引用)  
 
「“祇園精舎,諸行無常の響きがあり”の読み方と意味を教えて下さい。」よりベストアンサーを抜粋します。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/534908.html
 
「祇園とは
阿弥陀経における「祇樹給孤独園」は、ジェータ王子の樹園(祇樹)・アナータピンディカの園(給孤独園)という2人の名を冠した名称です。
祇園とは、2つの地名をあわせたものを略して「祇園」と呼ばれるようです。
 
精舎とは
お釈迦さまやそのお弟子の修行者たちのために造営された住居と休息と修行のための施設です。
 
諸行無常とは、
この世に常なるもの、永続するものなどは皆無であり、一切は変化の中にあるということ。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
つまり、祇園精舎の鐘がゴーンとなるのをきくと、世の中だんだん変わっていってるねぇってしみじみするよ。
みたいな感じでしょう。」(抜粋終わり)
 

Syara

写真 沙羅双樹
 
「沙羅双樹は、インドの高地に自生するフタバガキ科・コディアエウム属の落葉性高木です。
仏教では、釈迦が生まれたところにあった「無憂樹(ムユウジュ)」、釈迦が悟りを開いたところにあった「印度菩提樹(インドボダイジュ)」と並んで三大聖木の1つに数えられます。釈迦が亡くなったときに、2本の沙羅双樹が近くに植えられたことにちなんで名付けられたとされています。
 
樹高は30mほどに生長し、幹は硬く、建材として利用されます。枝には楕円形をした幅広の葉っぱをたくさん茂らせます。そして、5~7月には、枝の先端に白やクリーム色の小さな花を咲かせます。寒さに弱いことから、日本では植物園などの温室でしか見ることができません。開花するのはとてもめずらしいことで、ジャスミンのような香りがするとされています。」(写真、文共に「沙羅双樹(シャラノキ)とは?花の特徴や見頃の季節、花言葉は?」より引用)
https://horti.jp/15668
 
ディランはニューヨークのどこかで、ブッダのごとく瞑想する体験をしていたのではないか。
私はますますそう思うようになった。
この世に常なるもの、永続するものなどは皆無であり、一切は変化の中にある。
下段抜粋の釈尊の教えにはボブ・ディランがもし耳目にしたならば、「ハッ」とする文言が登場してくる。
例えばこういう下りである。かつて迫害にあった者の感覚で読めば、きっと衝撃を受けたことだろう。
 
「生きている社会が違いますから、その道を守る仕方は、時代によって違うでしょうけど、しかし人間の道という意味ではいつまでも続くものであり、また民族の差を超えて、あるいは国々の差を超えてでも人間として守るべきもの」
中村元博士のわかりやすい言葉から釈尊の考えを見てみる。
 
「草柳:  今の続きをまた読んでみたいと思うんですが、
 
『わたしには子供がいる。わたしには財産があると、愚者は悩まされる。じつに、自己は自己のものではない。どうして子供が、どうして財産が、自己のものであるか。
(ダンマパダ)』
 
中村:  これは、今から二千五百年前に説かれた教えですけれども、現代の方にも非常にピンとくるものがあるんじゃないですか。
と申しますのは、昔は家族制度というものが確立しておりましてね。ところが今日では崩れました。
そうすると、昔のように子供に頼りになるということにはならない。子どもにばかり当てにされると、子どもの方でも迷惑だと、そういうことを申してまいりましょう。
それから財産があると言うんですね。
戦後はすっかり財産相続の制度も変わりました。そこで古い意味の家柄とかというようなものは重んぜられなくなりましたですね。それから最近になりましても、じゃ、銀行預金なんか安定して、大丈夫だ、とみな理解していたわけですが、とんでもない。自分のお金なのに使えなくなるというようなことも、最近起きておりましょう。(注:番組収録当時は長銀倒産などにより銀行引き出し規制があった)
 
こうなりますと、我々何を頼りにし、何を目当てにしたらいいか、ということを考えよう、というわけでございます。
 
草柳:  ただここでは、「自分でさえ自分のものではない」というふうに言っていますね。「自己は自己のものではない」と。
 
中村:  この場合は、自分というのは、現に生きている自分。
そうすると、やはり複雑な人間関係の中に置かれていますから、だから煩悩・欲望に悩まされることもあります。損得の世界で考えなければならない問題でもありましょう。
そこで自分を抑えて理想を追求したいわけですけれども、しかしこの自分の身が思うようにならないではないか。そういう場合もあると。
じゃ、本当の自己というのは何だろう、と、そこまで追求していくわけでございます。
 
草柳:  しかし「自己さえ自己の所有物でない」という言い方というのは、これは二千五百年前のブッダがおっしゃったことですよね。
だけど、現代の我々にとっても、実に痛烈なというか、凄く透徹した人間の見方というと感じがしますね。
 
中村:  そうですね。痛烈な寸言でございますね。
 
草柳:  そうなんですね。
 
中村:  それで「何を頼りにしたらいいか」ということでありますが、世の中で頼りになるものというのは無い、というわけですね。
無常説にもその趣意が含まれておりましたが、本当に我々の目指すべきものは何であったか。
それは真の自己であると。つまり他のものをただ当てにしているんじゃダメだ。
じゃ、本当の自己というのは何か、ということでありますが、これがまた初期の仏典によく出てくるんでございます。
 
草柳:  じゃもう少し先を見てみましょう。
 
『なにものかをわがものであると執着して、動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。これを見て、「わがもの」という思いを離れて行うべきである。
(スッタニパータ) 』
 
中村:  これも人間に対する痛烈な反省でございますね。
我々は詰まらぬことに煩わされてばたばたしておりますね。
その様子は、ちょうど魚が川から離れて、水の少ないところへ行かれるとばたばたします。そのようなものじゃないか、と言うんでございますね。そう言われてみると、確かにそうだと思いますですね。
 
草柳:  ブッダが言おうとしたことというのは、先生がお話くださったように、ともかく執着を離れなさい、と。執着を離れて自由に生きなさい、ということだと思うんですけれども。
 
中村:  その「自由に」というのも、得手勝手をしていいという意味じゃないんですね。
ただ放っておきますと、人間は得手勝手をしたがる。
それだから法律だとか、あるいは世間の掟なんていうものができるわけですが、仏典の中に説かれているところですね、「自己に頼れ」というんですね。「真実の自己に頼れ」と。それは同時に、「ダルマ(法)に頼れ」と言われるんですね。
「ダルマ」と申しますのは、「人間の生きていく則、規範、規則、人間が生きるための道」そういうものが、人間には必要であると。
つまりそういうものがあるからこそ、我々は生きていくことができるんでありまして、それで我々の頼るべき究極のものは、そういう道である、と。だから「真の自己を追求するということは、人間としての真の道を追求する」ということなんですね。
 
草柳:  法を、
 
中村:  「法」です。元の言葉では「ダルマ」と申しますが、これは仏典では「法」と訳します。法律の法もそこへ入るわけですけど、それだけじゃなくて、「人間の生きるための規範」それを「法(ダルマ)」と呼んでいるわけでございます。
 
草柳:  それも人間の手によって作られたものというよりも、もっとつまり根元的なというか、基本的なというか、仮に釈尊・ブッダが、この世に現れなくても、現前としてあるものだ、というふうに捉えていいわけでございますね、おっしゃる法というのは。
 
中村:  そうでございます。ブッダが世に現れようと、現れまいと、人間の生きるべき道―規範―道は永遠に存すると言うんですね。
だから昔の人も守ったであろうが、今の我々もやはり守るべき道がある。
生きている社会が違いますから、その道を守る仕方は、時代によって違うでしょうけど、しかし人間の道という意味ではいつまでも続くものであり、また民族の差を超えて、あるいは国々の差を超えてでも人間として守るべきもの、
 
草柳:  「自由に」と言ったって、「勝手に」という意味ではない、ということだと思うんですが、
 
中村:  「自由」という言葉も、仏典に出てまいります。
自己に由るんです。
「本来の自己に由る」という意味なんです。
だから人間のこせこせした詰まらない欲望だとか、煩悩に迷わされないで、という意味でございます。
その意味の本来の自己というものを、仏教は説いている。
だから本来の自己に頼る道を「仏道」と呼ぶわけですね、あるいは「仏法」と言っても同じことです。
また「仏法」とか、「仏道」なんていう名前もなくていいわけですね。
普遍的なものですから。」(「ブッダの人と思想④一切にわがものなし」より抜粋)
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-632.htm

2016年12月11日 (日)

ローリングストーンのように♪ ディランの詩に見る釈尊の教え

Photo

ジョーン・バエズとディラン(1963年)
(ボブ・ディラン -wikipediaより引用)
 
このころのディランが一番彼らしい姿をしている。
 
ボブディランの特集をさきほどNHK-BSでやっていました。
私の青春時代に起きていたディランの周辺の出来事をおさらいしてみているような気がしました。(私はディランより9歳年下です。)
 
聞いたことはあるようで、しかしよく知らない歌がありました。
Like a Rolling Stone です。
 
視聴はここでできます。
https://www.youtube.com/watch?v=dxLMr784l0Q
 
(長い曲ですが、もともとのディランの詩は50番まであったそうです。このことは別の項で詳細に分析したいと思っています。)
 
ひょっとしたらビートルズのレコードの中で聞いたことがあって、オリジナルのディランの歌を聞いたことがなかったのかも知れません。
ディランを好んで聞いてはいなかったので意識して聞いたことはありませんでした。
 
それを聞いた、というより、その詩を見たとき、私は自然に釈迦の説く非我説を想起していました。
 
ボブ・ディランの詩にみる「釈尊の姿」でした。
・・・。大変な驚きを感じました。
 
ディランはインド北部で2500年前に活動した釈尊のことをほとんど知らないでしょう。
 
しかし、私は、彼の説いた説とディランの吠える歌に共通項を見いだせたのです。
 
こういうおかしな意見をするのは世界で私だけかも知れません。
 
かつて人に恵みを与えていた人物がいまは落ちぶれて家さえ持てない。食べるものにも困っている。それを蔑むような憐れむような歌詞ですが、どこかかつて幼いころのディラン自身への慈悲をも含むような歌でした。
ちなみに釈尊の哲学のキーポイントは「慈悲」です。
 
この歌を聞きながら、私はとても自然に、次のシーンを思い出しました。
 
「自分の、例えば与えられた地位とか、財産とか、権力、そういうものが自分だと思って得意になっている人もありましょう。けれども、それは本当の自分ではないんじゃないか。その点を考えろ、と言うんですね。」(下段サイトより抜粋)
 
インド哲学者の中村元(はじめ)さんがテレビで話したその言葉に通じるものを私はディランのその歌に感じたのです。
 
NHK総合テレビのアーカイブ放送で私が見た原始仏教の解説番組より一部を抜粋します。
 
「ブッダの人と思想③法輪を転ず」
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-631.htm
インド哲学者 中 村 元(はじめ)
き き て  草 柳  隆 三
語   り  石 澤  典 夫
 
「中村:  「非我説」と申しますが、我々が執着する外的なもの、これは本当の自分ではないし、また本当の自分に属するものでもない。
自分が所有しているわけでもないという。
そういうことをいろいろな表現をもって述べられたことがございます。
 
草柳:  非、つまり我に非(あら)ず説、
 
中村:  そうなんですね。つまり世間の人は、自分というものをなんと考えているか。
これもやはり鹿の園で説かれた教えの中に、付随的に説かれていることですが、しかし仏教説としては非常に重要な思想でございます。
 
草柳:  じゃその部分をまた経典から見てみることに致します。
 
『修行僧らよ、ありとあらゆる物質的なかたち、すなわち過去・現在・未来の、内であろうと外であろうと、粗大であろうと微細であろうと、すべての物質的なかたちは―「これはわがものではない。これはわれではない。
これはわれの我(が)(アートマン)ではない」と、このようにこれを如実に正しい叡知によって観察すべきである。 (サンユッタニカーヤ) 』
 
中村:  これも非常に抽象的な、また一般的な表現でもって説かれておりますが、具体的に個々のものについてお考え頂けば、なるほどな、と思ってご理解頂けると思うんです。例えばここに箱があるとします。(注:テレビ放送では中村博士の眼鏡ケースを手にもってこれを箱としていました。)
これを私は自分のものだと考えますわね。
ほんとにいつまでも自分のものだと言えるでしょうか。
私が消えてしまったら、もうこれは私のものじゃないわけですね。
いつまでも自分のものだとは言えないわけです。
それからまた、これは我ではないと。
 
例えば世間的な例で申しますと、地位とか、名誉とか、あるいは財産とか、そういうようなものがその人の本質を構成していると思われる場合もございますね。
けれども、それも消えてしまえばそれっきりでしょう。
私が死んでしまえば、そういうものは自分には残らないわけです。
だからこれが自分であるということも言えないわけですね。
 
草柳:  自分の身体だって、
 
中村:  自分の身体だって自分のものとは言えないわけです。
そうすると、我がものというものは、結局永遠に存するものではない。
これが我であると言われるものも、永遠に存するわけではないですね。
またこれが自分の我であると考えられるものだって、永久不滅とは言えないわけです。
そうすると、どんなものでも自分のものではない。
だから如何なるものも我ではない。
そういうことを仏教では説くわけです。それが「非我説」です。
 
草柳:  先生、じゃ自分の主体というのは、一体どこにあるのか、ということなんですが、よく仏教と言いますと、「無我説」つまり我無しという無我説。
 
「仏教は無我説である」と言われますよね。その無我説ということと照らし合わせながら考えると、どういうことになるんでしょうか? 非我説とは。
 
中村:  今申し上げたことは、原始仏教聖典に説かれて、パーリ語なり、あるいはサンスクリット語で説かれていることを、その通りお伝えしたのですが、あまり抽象的に過ぎるかも知れない。
 
そうすると今度は、今お読み頂いたように、ありとあらゆる物質的な形、即ち過去、現在、未来の内であろうと外であろうと、粗大であろうと、微細であろうと、すべて物質的な形というものは、これは我でもないし、我に属するものでもない。
そこまで説いてきたわけですね。
 
その趣旨を簡単にいうために、「無我説」という言い方もあるんですが、「無我」という意味は、「我執がない」という意味なんですよ。
「我執を無くせよ」という意味です。
 
我々が生きている限りはやっぱり我執というものをもっているわけですが、ただ「それにとらわれるな」ということです。
 
それで「無我」という言葉がよく使われますのは、「諸法無我」という言い方があるんですね。
 
「諸法」というのは、諸々の事物という意味です。
 
何故それを法というかと申しますと、これは仏教特有の表現法ですが、如何なるものも何らかの本質、能力、あるいは属性を持っていると思われます。
そうするとそれらによって表示されるもの、それを「諸法」と呼ぶんですね。
 
つまりその場合の「法」というのは、もろもろの事物を特徴付ける本質、規定、そういうようなものですね。
如何なるものでも、そういう本質とか規定とか、特徴とか、性質とか、持っているわけでしょう。
 
そういうものは実体がないわけなんですよ。
いつかは消えて過ぎ去っていくものでしょう。
本質を持たない。
だから実体がない。
 
それを「無我」と呼んで、「諸法無我」という言葉で言い表した場合もあるのです。
けど、「無我説」というのは、「我々がもっている我執を無くせよ」と。そういう「無我の態度をもって生きていけ」という意味なんです。
 
ところがこれが後代になりますと、「無我」というのは、「我が無い」という意味にとってしまうんですね。
それで「我執がない」という意味の「我がない」ならいいですけど、そうじゃなくて、行為の主体がないという意味に取られた場合もある。
 
少なくとも仏教外の諸々の哲学・学派からは、仏教は行為の主体を認めない、あるいは因果応報の主体をも認めない、という意味に取られて攻撃されたこともございます。
 
これはその趣旨を間違って取られた、あるいは間違って表現した、ということが言えると思います。
だから「仏教が無我説だ」という時には、どういう趣旨かよく検討しながら、自分なりに理解して表現する必要があるかと思います。
 
草柳:  決して虚無(きょむ)主義というか、ニヒリズム(Nihilism:この世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場である)でもないですね。
 
中村:  ニヒリズムじゃないわけです。ニヒリズムというのは、何もかも否定するわけでしょう。
ところが仏教の「我執を無くせよ」という意味は、内に潜んでいる我執というもがあって、それに誤られることがあるから、それに誤られないように気を付けましょうという、そういう趣旨なんですね。
だからニヒリズムではございません。
 
むしろ仏教では「慈悲(じひ)」を説くわけですが、ニヒリズムとは全然正反対でございます。
 
草柳:  むしろどうにもならない我執というか、ブッダが見つけ出した根元的な無知というか、無明(むみょう)というか、そういったものは、これはそこから出てくる我執というのは無くすものではなくて、それはコントロールをするという。
 
中村:  そういう形ですね。制するという意味ですね。
主体説をご説明する時に、私、ついつい申し上げませんでしたけど、「苦集滅道(くしゅめつどう)」というでしょう。その「滅」という言葉の元の言葉は、インドの言葉で「ニロード(nirodha)」と言うんですが、これは「制する」という意味です。
 
英語で言えば「コントロール(control)」なんていうのが一番近いかと思いますがね。
 
ほっといたらどっちへ行くかわからないから、それを過ちのないように、我をも人をも損なうことのないように制する。統制する、支配する、そういう趣旨ですね。
そこに仏教の実践の基本があると思います。
 
草柳:  ですから、何かが働き出すその倫理主体としての自己というのは、勿論これはないんじゃなくて、あるわけですよね。
 
中村:  そうです。
 
草柳:  今先生のお話を伺ってきたような「四諦八正道」の中身であるとか、「非我説」の中身であるとか、勿論当時は、今先生がお話頂いたような形で纏まったものではなかったかもわかりませんけれども、つまり仏教の教えというか、仏教の一番根本的な基本的な問題というのは、この時に既にブッダは五人の比丘たちにいろいろ話をしていたわけですね。
以下略。」(抜粋終わり)
 
本当はここの前段で説かれていた「四諦八正道」の中身も理解した方がよりよく理解できると思いますが、上記抜粋部分だけでも非我の意味あいは理解できると思いました。
 
『ほっといたらどっちへ行くかわからないから、それを過ちのないように、我をも人をも損なうことのないように制する。統制する、支配する。』
ディランは意識はしていないことでしょうが、その詩には人をコントロールする力を含んでいます。
 
あるサイトからディランの「ローリングストーンズのように」の和訳を抜粋します。
 
「かつて君はおしゃれに決めていた
青春の時に
浮浪者に10セント硬貨を投げつけてたでしょ
気をつけな
いつか落ちるぜってみんなが言ってた
君はみんながふざけてると思ってた
笑い飛ばしてた
 
今じゃ君はそんなに大きな声で語らない
明日の食事を探し回る君は
誇らしげには見えない
どう感じる?
どう感じる?
家がないっていうのは
完全に無名っていうのは
転がる石のように
 
ミス寂しがり屋さん
君は最高の学校に行っていたね
ただ社交しに行くだけだった
誰も通りに出て暮らす方法なんて教えてくれなかった
でも今は君は慣れなくてはいけない
決して妥協しないって言ったじゃない
不思議な放浪者
 
でも今は気付いたでしょ
彼はアリバイを売っているんじゃない
彼の目に吸われるように見つめる時
君は取引をしたいかたずねるのかい?
どう感じる?
どう感じる?
家がないっていうのは
完全に無名っていうのは
転がる石のように」
(「ライク・ア・ローリング・ストーン / ボブ・ディラン(オレの歌詞和訳)」より抜粋)
Like a Rolling Stone / Bob Dylanhttp://kashiwayaku.net/bobdylan/likearollingstone.php
 
他の人もこの歌詞に惹きつけられているようです。
3年前の記事「Bob Dylan - Like A Rolling Stone ディランは何を言いたかったんだろ? 」より抜粋します。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11106386431
 
「「ベストアンサーに選ばれた回答
bluegrassandbluesさん
2013/4/3015:36:42
 
歌詞を額面どおりに読めば、「嘗ては羽振りが良かったが今では身を持ち崩した一人の女性に対する批判と嘲りの歌」という事になるのでしょうが、ディランの詩には隠された別の意味を持つものが多く、この曲の場合もご多分に漏れずと言ったところではないでしょうか。?
 
まず歌詞の中に登場する女性の名前が、何故固有名詞ではなく『ミス ロンリー』になっているのか?と言ったあたりが判断のキーポイントになるかもしれません。
 
つまり「嘗て富裕層に属していた人間が、一度没落した途端に虚飾に満ちた過去が浮き彫りにされる」事を強調するには、男性よりも女性の方が理にかなっているということでしょう。
 
更に突き詰めて考えれば、富裕層批判の湾曲的な表現として『ミス ロンリー』が引き合いに出されたのではないかと思います。
 
ところでRolling Stone が何を意味するか?についてですが、この言葉はイギリスに於いては「転がる石には苔も生さない」という感じであまり良い意味には使われませんが、アメリカでは逆に「一箇所に留まらずに、常に何かを追い求める」という前向きな姿勢を表す場合に使われます。
 
つまりどちらの意味を採択するかによって『ミス ロンリー』の未来が、悲惨な状態のままなのか否かの違いが出てくる訳です。
 
この曲が世に出された1966年、アメリカはベトナム戦争の終盤に差し掛かっており、この戦争によって利益を得た富裕層も少なからずいた筈です。
 
ディランはこの曲の中で彼等に対し痛烈な批判を浴びせると同時に、戦争終結によって訪れるであろう転落の人生について幾ばくかの憐憫の情を持って語りかけているという気がします。」(抜粋終わり)
 
NHK-BS「ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム」(後編、11日(日)午前0時(土曜深夜)放送)の録画を見終わったのが12月11日午前3時でした。
 
上述のようなことを考えていて寝つけなくなり、ベッドから起きてこのブログ記事を書きました。
 
書き留めたので少し安心し、眠れそうです。
 
その後・・・
朝飯のあとで少し付け足します。
最後の抜粋文の中の「アメリカでは逆に「一箇所に留まらずに、常に何かを追い求める」という前向きな姿勢を表す場合に使われます。」という下りが気にかかりました。
 
本名ロバート・アレン・ジママン。
 
ボブはロバートの愛称だそうです。
ディラン・トマスというウェールズの詩人の名を芸名にしたようです。
 
音楽活動を始めたころ、知り合いが冷やかしでボブ少年に「おい、ディラン!」と呼びつけたとき、みるみる少年の顔が変化して、その後ボブはディランを名乗ったとNHK-BSの特集で紹介していました。
 
ディランの詩の魂とどこかで交錯するものをアメリカの詩人ボブは有していたのでしょう。
 
まだ幼児の頃、西部のミネソタの田舎町のユダヤ人の父親が経営する電器店の掃除をしながら、『定職をもち安定する生活の良さ』を学び始めた少年がボブ・ディランでした。
実際は、ユダヤ人迫害の世相の中で人種的偏見を一身に浴びた体験をその少年はもっていたはずです。
 
とくに中西部では白人優位の古い思想がこびりついている感じがあります。
かつて私もそういった町に見慣れない黄色人として短期間滞在したことがあります。

広島の近くの町からやってきたというと、少し後ずさりして腰の銃に手を掛けるかのような緊張した姿勢を老人たちから感じたことがありました。
 
そういう田舎町で定住して定職を持つということがどれほどのもんじゃ、とディランは感じたのではないかと思います。その後放浪します。
 
つまりディランのローリング・ストーンが米国諸州で実践されたのです。
 
家を持たないホームレス少年には、家に帰る道すらもありません。
この歌詞の中に、その中ほどに次のフレーズが登場してきます。

With no direction home ?

 

どんな気分だ?

何を感じる?

たった一人になって

帰る家もなくして

誰にも知られることなく

ただ転がる石の様になってさ

 

帰る家もなくしてしまって・・・という気分がディランそのものではなかったのだろうか。
そのフレーズを番組題名に引っ張り出して使ったNHKBSの番組制作者の賢さに拍手を送りたいと思います。

そう、ディランは私たちに、我執を捨ててどんどん前向きに転がり続けよ、と語っているのです。
定住、定職なんざあ、糞喰らえ!
これが、ロックン・ロールの神髄でしょう。
 
NHKBS番組『ノー・ディレクション・ホーム』の紹介記事です。
 
「中略。
 
さらに、NHKBSプレミアムで12月11日23時から放映される『BOB DYLAN Master Of Change~ディランは変わる~』では、1971年バングラデシュ・コンサート、1975年シカゴでのTVライヴ、1986年シドニー公演、1994年ウッドストック、1996年ハイドパーク公演、そして、1994年奈良の東大寺でオーケストラをバックに歌った貴重なライブ映像や、ミュージックビデオ、テレビ出演時の映像などが放送される。
http://www.nhk.or.jp/yougaku80/program/dylan02.html
 
NHK-BSでは『ノー・ディレクション・ホーム』が2夜にわたって放送されることも決定している。
 
12月10日(土)0:00~1:53 NHKBS1 『ノー・ディレクション・ホーム』 (前編) ※9日深夜
12月11日(日)0:00~1:35 NHKBS1 『ノー・ディレクション・ホーム』 (後編) ※10日深夜」
(「ボブ・ディラン、12/10放送のNHKスペシャルの番組内容が明らかに」より抜粋)
http://nme-jp.com/news/30768/
 
ノーベル賞授賞式では爆弾製造の親玉たちが墓場へ入る歌などを紹介するのではないかと期待しておりますが、そのころにまた再放送があると期待しています。
 
ノーベル賞財団を設立したノーベルは火薬爆弾の発明王でおお金もちになった人物です。
 
シリア内戦を見て、いったいどれだけの人間を爆弾で殺したら、彼らは爆弾製造をやめるのでしょうか。
 
そのことは有名なディランの歌「風に吹かれて」にも出ています。
 
「How many times must  a man look up 人はどれくらい見上げれば
before he can see the sky? 空が見えるのか
How many ears must one man have 人にはどれくらいの耳があれば
Before he can hear people cry? 人々の悲しみが聞こえるのか
How many deaths will it take till he knows どれ位の人が死んだら
That too many people have died? あまりにも多くの人が亡くなったと気づくのか
The answer, my friend, is blowin’ in the wind 友よ答えは風に吹かれて
The answer is blowin’ in the wind  風に吹かれている」
(「ボブ・ディラン「風に吹かれて」を訳してみる」より抜粋)
http://www.english-turi.com/song/1000/
 
私はウェールズの詩人ディラン・トマスの詩に「風に吹かれて」が出ていないかどうか見てみました。
 
直接は発見していませんが、ちょっと関係ありそうなくだりがありました。
 
「そして死に支配させはしない
カモメがかれらの耳に鳴きかけることはもうあるまい
あるいは波が岸辺で音を立てて砕けることもあるまい
風に吹かれるところでは花は吹き付ける雨に対して頭をもたげることはない
かれらの気が狂い釘のように死んでいても
先頭の文字たちはヒナギクの花を叩きながら通り抜ける
太陽が滅びるまで太陽に侵入せよ
そして死に支配させはしない
 
And death shall have no dominion.
No more may gulls cry at their ears
Or waves break loud on the seashores;
Where blew a flower may a flower no more
Lift its head to the blows of the rain;
Though they be mad and dead as nails,
Heads of the characters hammer through daisies;
Break in the sun till the sun breaks down,
And death shall have no dominion. 」
(「そして死に支配させはしない」(ディラン・トマス)より歌詞の3番を抜粋)
http://nambara14.exblog.jp/25549995/
 
”Where blew a flower may a flower no more
Lift its head to the blows of the rain; ”のところを、この訳者は、
「風に吹かれるところでは花は吹き付ける雨に対して頭をもたげることはない」と訳しています。
 
強い風に吹きつけられて、おそらくどこかの壁か障害物にまで押し付けられた花は、雨に打たれながら花を咲かせることはないというイメージを私は受けました。
 
社会の嵐に吹きさらされ、ゴミだめのようなところに追いやられた浮浪少年ボブ・ディランは風に吹かれながらこの詩を思い浮かべて唱和したのではないか。
 
どん底にあるとき、人間は転がり続けるより他に手はないとでもいうように・・・。
 
日本人の私はそういう湿った感傷に浸ったのですが、ディランはそこから自由、フリーダムが手に入るのさ、と前向きでした。
 
冒頭の歌の後ろから2番目の歌詞に「それ」が現れてきます。
 
「塔の上の王女や、きれいな服を着た人々は
酒を飲み、自分たちはやりきったって思って
貴重な贈り物を交換し合ってるのさ
 
でもあんたはダイヤのリングを外すんだ、質に入れちまえよ
 
よく面白がっていたよな
堕ちたナポレオンと、ナポレオンの言葉をさ
彼のとこに行くんだ、呼んでるぜ、断れないよ
 
何も持ってないということは、何も失わないということだ
あんたは今透明になった、隠す秘密も何もないんだよ」
(「ライク・ア・ローリング・ストーン / ボブ・ディラン(オレの歌詞和訳)」より抜粋)
Like a Rolling Stone / Bob Dylanhttp://kashiwayaku.net/bobdylan/likearollingstone.php
 
釈尊の言う「我執を無くせ」という非我の説は、人間から「苦」を取り除く妙法として私たち万民に授けられた人間の智慧なのです。
 
苦を取り除かれた人間は、自由に、そして真の幸福になれるのです。

2016年12月 7日 (水)

今日の大気中放射線量です。(川崎市麻生区)

1207 http://www.atmp-kawasaki.jp/ より引用。

11月9日頃のカバー取り外し後、10日ほどで我が家の周辺の放射線量も10%ほど変動をしましたが、それから1か月を経過して安定状態に戻ったようです。

ともあれ一安心です。

※単位:μGy/h(マイクログレイ/時間)   
※緊急時は、1マイクログレイ=1マイクロシーベルトとして換算します。   

以下は、東電HPによる「前記カバーを開きますよ」というお知らせです。

「1号機原子炉建屋カバー解体作業」より以下に抜粋します。
http://www.tepco.co.jp/decommision/planaction/removal-reactor/index-j.html

「お知らせ

建屋カバー解体工事については、2016年9月13日より壁パネル取り外し作業を実施しております。
 解体工事にあたっては飛散抑制対策を着実に実施するとともに、安全第一に作業を進めてまいります。
以下略。」(抜粋終わり)

これを仏教では因果応報といいます。

実際にがバッと天井を開いたのはNHKニュースによれば11月9日頃だったと記憶しています。

北で決して開放してはならない放射能遮蔽蓋を開ければ(原因)、大気とともに南へ漏れた放射能が関東に飛来し、人の肌に着いたり、口や目鼻を通じて体内へと入り込むことになる(結果)からです。

「因果応報
【読み】 いんがおうほう
【意味】 因果応報とは、過去や前世での考えや行いに応じて、必ずそれ相応の報いがあるということ。

【因果応報の解説】
【注釈】
本来は、よい行いをしてきた者にはよい報いが、悪い行いをしてきた者には悪い報いがあるという意味だったが、現在では多く悪い行いをすれば悪い報いを受けるという意味で使われている。
仏教の考え方で、原因に応じた結果が報いるということ。」

(因果応報 - 故事ことわざ辞典より抜粋)
http://kotowaza-allguide.com/i/ingaouhou.html

 

すがすがしい決定 シャペコエンセ優勝!

旅客機墜落で選手犠牲のシャペコエンセ 国際大会の優勝チームに
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161206/k10010797001000.html
12月6日 15時03分
 
今朝は気持ちの良いニュースで目が覚めました。
私の貧相な想像とは大いに異なる決定に拍手喝采をしたい。
 
私は事故当時、熱狂的なコロンビアサッカーファンによる爆弾墜落の可能性さえ想起していました。
 
ワールドカップでのブラジル選手の背骨を傷めつけるコロンビア代表のシーンや、ワールドカップでオウンゴール献上して負けた選手のコロンビア帰国直後のファンによる射殺事件など、コロンビアではサッカーに関してあまりよい印象がありませんでした。
 
麻薬ギャングなどが国を支配しているかのような印象が濃かったので、結局しめやかにしつつもアトレティコ・ナシオナルがすまなそうな顔をして優勝カップを受け取るのだろうと想像していたのです。
 
しかし、今朝のNHK-BSで流れた前記記事は全く違ったすがすがしい展開を示したのです。
 
上記記事より一部を抜粋します。
 
「南米サッカー連盟は5日、旅客機の墜落事故で多くの選手が犠牲になったブラジルのシャペコエンセを、チームが決勝の試合のために向かっていた国際大会、「コパ・スダメリカーナ」の優勝チームとすると発表しました。
 
ブラジル1部リーグのプロサッカーチーム、シャペコエンセは先月28日、南米のチームによる国際大会、コパ・スダメリカーナのコロンビアで行われる決勝に向かっている途中に、乗っていた旅客機が墜落し、主力選手の多くが犠牲になりました。
 
事故を受けて、決勝で対戦する予定だったコロンビアのチーム、アトレティコ・ナシオナルは、シャペコエンセにタイトルを譲る意向を表明していましたが、南米サッカー連盟は5日、シャペコエンセを大会の優勝チームとすると発表しました。」(抜粋終わり)
 
優勝譲渡の意思表明は自発的に早期から行ったということです。
名門アトレティコ・ナシオナルの真摯な態度にも敬意を表したい。
 
シャペコエンセの優勝が決定…クラブ暫定会長「南米連盟から宣言を受けた」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161205-00523687-soccerk-socc
SOCCER KING 12/5(月) 21:34配信
 
これより記事を抜粋します。
 
「 凄惨な事故を受けて、決勝での対戦相手であったコロンビアのアトレティコ・ナシオナルは、2016年大会の決勝戦を辞退してシャペコエンセにタイトルを譲るよう、早くからCONMEBOLに申請していた。今回の決定は、前述の申請も少なからず影響したとみられる。
 
 クラブに創立史上初の国際タイトルがもたらされたのを受けて、シャペコエンセのイバン・トッゾ暫定会長は、次のようなコメントを残している。
 
「CONMEBOL(南米サッカー連盟)から、シャペコエンセがコパ・スダメリカーナのチャンピオンとする宣言を受けた。
 
このような結果になるようCONMEBOLに申し出た(決勝での対戦相手である)アトレティコ・ナシオナルの慈悲深い配慮に、心から御礼を申し上げる。
 
そしてCBF(ブラジルサッカー連盟)やFIFA(国際サッカー連盟)、そして世界中のサッカーファンによる支援にも、心より感謝と御礼をお伝えしたい」
 
 スダメリカーナの王者となったシャペコエンセには、2017年のコパ・リベルタドーレスとレコパ・スダメリカーナの出場権が与えられるほか、同年のコパ・スダメリカーナにはディフェンディングチャンピオンとして決勝ラウンドからの出場権も与えられる。
 
さらに、コパ・スルガ・バンク(スルガ銀行チャンピオンシップ)への出場権を得たことで、ルヴァンカップ王者の浦和レッズと埼玉県で対戦することにもなりそうだ。」(抜粋終わり)
 
『慈悲深い配慮に、心から御礼を』という下りで、そういう素晴らしい思考論理がまだ生きていることを知りました。
 
シリア内戦の様子をテレビで見ている昨今、世界は慈悲を忘れているのではないかと、私自身も麻痺しかかっていましたので、この記事に大事なことを気づかされた思いがしました。
 
シャペコエンセ「優勝認定」ロナウジーニョら支援の輪広がる
http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2016/12/07/kiji/K20161207013862110.html
[ 2016年12月7日 05:30 ]
 
これより一部抜粋します。
   
「 南米連盟は5日、シャペコエンセ(ブラジル)の選手らが同連盟主催の国際大会スダメリカーナ杯決勝出場のために乗った航空機が墜落した事故を受け、同クラブを優勝チームと認定すると発表した。
 
優勝杯、賞金200万ドル(約2億2800万円)を授与する。
決勝の相手で優勝を譲ると申し出たアトレチコ・ナシオナル(コロンビア)にはフェアプレー賞と賞金100万ドル(約1億1400万円)を贈る。
 
またブラジル協会は来年1月にブラジル代表とコロンビア代表の親善試合を行うと発表。収益は遺族に贈られる。
 
 シャペコエンセは事故でC大阪と千葉でプレーしたFWのケンペス選手ら主力の大半を亡くした。
 
38歳のアイスランド代表FWグジョンセンは4日にツイッターでシャペコエンセでのプレー希望を表明。元ブラジル代表FWロナウジーニョもプレーを申し出るなど支援の輪が広がっている。」(抜粋終わり)
 
グジョンセンやロナウジーニョがシャペコエンセのユニフォームを着て埼玉で浦和レッズと戦う姿が見られるかも知れません。
 
亡くなった選手たちへの追悼の気持ちで、私も会場へ足を運びたいと思いました。
 
日経社説からもよいニュースが伝わってきました。
 
「和平をコロンビアの発展に  2016/12/5付
 
 コロンビア政府が左翼ゲリラと結んだ和平合意の修正文書が、国会の承認を得た。
半世紀以上にわたり20万人を超す犠牲者を生んできた内戦が、正式に終わった。
 
流血の終結を何よりも歓迎したい。
 
同時に、治安の改善と経済の発展につながることを期待したい。」(抜粋終わり)

2016年12月 6日 (火)

大本山向嶽寺の沿革他 ~西向きの石仏様など

多少写真が残っていますので、以下にご紹介します。
 

Sh3b0494

SH3B0494 早朝の朝もやをついて笹子峠を越えてきた。道の駅から振り返り峠を見やる。
 
かつて私は江戸日本橋から甲州街道を歩いたことがある。
自分の足で越えてきた峠だけに、思い出はあちこちに大変多い。
 
笛吹川上流沿いでテント泊したとき、深夜に遭遇したあの鹿親子3匹は、今どうしていることだろう。
暗黒の中で緑色の大きな瞳が印象的だった。ホイッスルを吹くような激しいいななきから、笛吹川の名の由来を鹿に教えてもらった。

Sh3b0499

SH3B0499 室町時代の中門(左端に見える)の、右手の塩築地とその隣の色のやや濃い築地。
 
「塀は上に小石と塩をまぜて築かれた「塩築地」と呼ばれるもの。」(「街道を歩く甲州街道」よりhttps://books.google.co.jp/)
と、あるので、白い築地は下地に塩築地があり、真っ白い新しい漆喰で化粧し直したもののように見える。
 
NHK大河ドラマの「信玄」でも、白い漆喰を一部はぎ取った上で、下地を塩築地として映像紹介をしていた。
ちなみに古代アッシリア語で塩のことを「シオ」と言うそうです。水は「ミズ」と言う。

Sh3b0515

SH3B0515 内側から見た中門と塩築地

Sh3b0503

SH3B0503 このしだれ桜の前を人力車に乗ったお姉さんの花嫁は通過していった。

Sh3b0500

SH3B0500 左奥に梵鐘、右奥に座禅堂らしき建物が見える。座禅中ゆえ静粛に!との立て看板があったので・・・。接近しづらくて途中から引き返した。とかく庶民には近寄りづらいかも。
 
真ん中の赤いカエデの枯葉が、「それ」らしく見える。
そうそう、イタリア大使館の楓を見に行かなければ。そろそろ散るころです。

Sh3b0507s

SH3B0501 沿革
塩の山という塩山(えんざん)からは塩は取れないそうだ。麓南面の塩築地からは緊急時は塩が取れる。達磨さんの絵が国宝指定を受けている。
火災で再建されてはいるが、木造建築物で600年以上も雄姿を再生・維持できていることは驚嘆すべき事実である。

Sh3b0505

SH3B0505 参道

Sh3b0506s

SH3B0506 東京は晴天なのに山梨は早朝の朝霧が蜘蛛の巣に水滴を為す。

Sh3b0507s_2

SH3B0507S 塩の山の由来は「しほうの山」

Sh3b0510s

SH3B0510 あんた、頑張ったねえ、って感じ。

Sh3b0517

SH3B0517 失礼ながらあまり良いお顔に見えなかった石大仏様。
創建年によっては止むをえないことかも。
 
「向嶽寺の大仏は、山梨県甲州市塩山上於曽にあり、以前甲州寺好きでも紹介した臨済宗向嶽寺派の大本山の境内に西向きに座しています。
大仏と言えば、奈良の東大寺、鎌倉や牛久などを連想しますが、ここの大仏は石の石仏で長年の風雪で苔むしており、山梨ならでわの石信仰を連想させるもので、最近葺き替えられた仏殿や開山堂と共にいい趣でした。
また、よく見ると大仏様のお手には金色の大仏様が抱えられており、まさに大仏のコラボ!!でした。」(「向嶽寺の大仏」より抜粋)
http://www.y-charm.com/blog/2010/01/post_697.html
 
知りませんでした。
上の写真を拡大してみましょう。

Sh3b0507sgold

SH3B0517SGOLD 赤い丸のところに小さな金色の仏像があるそうですが、よく見えません。
上記サイトにははっきりと撮影された金色の仏像が見えます。
惜しいものを見逃してきました。
 
仏を掌の上で転がしている?一体だれが、となります。
 
大仏様を西に向かせる行為は、殺された大国主の命を西に向かせて出雲大社に座らせ、死の国、つまり黄泉の国の支配者になったとした「原理」に似たものを私は感じ取りました。
果たして奈良の大仏様も西向きなのでしょうか?
 
ちなみに皆さんは南側から北の出雲大社本殿を拝みますので、大国主の命の左頬に向かって手を合わせていることになります。
調べると、東大寺の大仏も春日大社の神も北から南を向いて座っておられるそうです。
 
これは北極星を神格化した中国の思想によるもので、天皇も最高位の北を背にして南を向いて政務を執るとのことでした。
 
西向きの大仏様は陽が没するところを見ておられます・・・。

Sh3b0520

SH3B0520 祖父が住職をしていた曹洞宗の寺で三歳まで遊んだことのある私が、建物の大きさと早朝の静寂さによって「入りづらい」と感じた座禅堂のような建物。結局ここで引き返したために10円玉は財布に戻りました。

Sh3b0521

SH3B0521 きっとお喜びになることでしょう。

Sh3b0523

SH3B0523 妙に自己主張の強い岩に感じたので、ひょうたん池とツーショットで撮影しました。ひょっとしてこれが三門跡の礎跡なのかしら。だとすればびっくり。もっとしっかり撮影すべきでした。

Sh3b0526s

SH3B0526 こちらの散り方もなかなかよかった。

Sh3b0532

SH3B0532 白い漆喰のほう。おそらくこの下層が塩築地。

Sh3b0531

SH3B0531 白くない壁の方。いずれここも漆喰で白くするのかも知れません。
そうであれば、これこそが塩築地の地肌そのものという理解も成り立ちますが、NHKで見た漆喰をはがした塩築地は小石が散らばっていてゴツゴツした表面でしたので、これほどきれいではありません。
 
ここまで写真を整理してきて、「はっ」と気づいたことがあります。
 
寺の見学のときに左手奥の畑に人影が一つ見えたのでしたが、私と目があったあとですぐに消えていきました。バイクの音がしたので、盗難防止のために寺の関係者の方が出てきたのだろうと思っていました。
 
昔の寺の規模からいえば、東側400mにある塩山温泉なども境内の内側だったことでしょう。ましてや開山和尚が源泉を発見したのですから、修行僧もその湯を使ったはずです。
 
公衆風呂の駐車場に到着したとき、それとほぼ同時に軽トラックが私のバイクの横に留まって、見知らぬおじいさん(これが例の親父だったのですが)が「ぶつぶつ」言いながら車を降りてきたことを思い出しました。
 
はっきりと聞き取れなかったのですが、「ほいで、何がしたいんじゃ」というような日本語だったと思い、反射的に私はいま一番したいことを素直に答えたのでした。
 
「お風呂に入りたいのですが。。。」
 
このことは既に前の記事で書きました。
 
はっと気づいたのは、これらの写真の整理をしながら、私が想起している事柄、それを調査するために写真を一杯撮影していた、「その行為」を親父は咎めたのかもしれません。
 
本堂に入りお参りするわけでもない、写真をあちこちで撮ってから温泉へやってきた私。
 
「ほいで、何がしたいんじゃ」
 
そうか、あの親父は寺の住職OBか寺の境内管理を任されている人ではなかっただろうか?
 
不審なよそ者が朝早くバイクでやってきて、やたらと写真を撮っていることは近所の住民か庫裏の窓からでも見えたはずです。
 
見たところ金ももっていそうにはない年寄りだ。
 
湯が熱いと言って「贅沢言うな!」と叱られたのも納得できました。
 
親父は、寺の境内の左手の畑で私とちらっと見合ったあのおじいさん、その人だったのです。
 
きっと・・・。
 
次回は例の金色の小さな石仏を撮影したら、一直線に湯船へ飛び込みます。
私のこの行為は、少しは山梨観光の発展促進に貢献しているのではないかと「ほいで」私は思うのですが・・・。

Photo

地図 GOOGLE MAPを引用しました。
向嶽寺の東側400Mに塩山温泉があります。左手端に見えるほったらかし温泉(日帰り入浴専用)も山梨では有名で、朝焼けや夜の夜景なども見ながら湯に浸かれます。

わからないことを調べました。法蔵菩薩の名前とは、

Photo

 

比叡山延暦寺 根本中堂 朝の読経の声がこだまする。

歴史を見ましたら、織田信長が一度焼いていました。大名の放火です。

788年(延暦7年)
伝教大師により「一乗止観院」創建(中央に薬師堂・北に文殊堂・南に経藏)
823年(弘仁14年)
嵯峨天皇より延暦寺に寺号を賜り「根本中堂」と改称
887年(仁和3年)
9間4面の大堂に改修(智証大師の時代)
980年(天元3年)
谷を埋め立て現在と同規模11間の大堂に改修し廻廊や中門を新造(慈恵大師の時代)
1571年(元亀2年)
織田信長の焼き討ちにより焼失
1585年(天正13年)
仮堂建立
1642年(寛永19年)
江戸幕府三代将軍徳川家光により9年の歳月をかけて再興
1798年(寬政10年)
本堂屋根栩葺を銅板葺に変更
1955年(昭和30年)
昭和の大改修(半解体修理)
2016年(平成28年より)
平成の大改修(10年間の予定)」
(写真、文とも「根本中堂の歴史」より引用。)
http://www.tendai.or.jp/daihoue/project/konponchudo.html
 
家光さん、いい仕事をしていますね・・・。
 
前の記事で、向嶽寺の開山、抜隊得勝(ばっすいとくしょう)禅師の偉い点だとして一念発起した動機をほめた下りがよくわかりませんでした。
何がそんなに偉いのかと。
 
「ついに(抜隊得勝は、)正平10年(1355)29歳の正月「衆生を度し尽くして後に正覚を成ずべし。」と決意されます。
 
「この決意は阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩の大願と同じで極めて注目すべきことです」と書いていたのですが、何のことやらわかりません。
 
wikipediaに聞いてみました。
 
 「四十八願 (しじゅうはちがん)とは、浄土教の根本経典である『仏説無量寿経』(康僧鎧訳)「正宗分」に説かれる、法蔵菩薩[1] が仏に成るための修行に先立って立てた48の願のこと。
 
『仏説無量寿経』のサンスクリット原典[2]である『スカーバティービューハ』には異訳があり、願の数に相違がある。二十四願系統と四十八願系統とに大別できる。前者は初期の浄土教思想、後者は後期の発展した浄土教思想を示すとされる。
 
浄土宗、浄土真宗などの浄土教系仏教諸宗では、特に「第十八願」を重要視する。
中略。
 
第十八願
願名 - 念仏往生の願・選択本願・本願三心の願・至心信楽の願・往相信心の願
原文 - 設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法
 
訓読 - 設(も)し我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)し、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生ぜずば、正覚を取らじ、唯五逆と誹謗正法は除く。 / たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。
 
意訳 - 私が仏となる以上、(誰であれ)あらゆる世界に住むすべての人々がまことの心をもって、深く私の誓いを信じ、私の国土に往生しようと願って、少なくとも十遍、私の名を称えたにもかかわらず、(万が一にも)往生しないということがあるならば、(その間、)私は仏になるわけにいかない。ただし五逆罪を犯す者と、仏法を謗る者は除くこととする。(第十八念仏往生の願)[4]
 
わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国[5]に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません 。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。[6]
 
法然はこの願を最も重要な願ととらえ、『選択本願念仏集』において、「故知 四十八願之中 既以念仏往生之願[7]而為本願中之王也」と解釈したことから、「王本願」とも呼ばれる。」(四十八願-wikipediaより)
 
悪人をも往生できるという考え方は、例外規定を置かなかったのではないかと思ったのですが、例外規定はあるようです。
 
法蔵菩薩と同じ理由で悟りを開いた点が、 抜隊得勝(ばっすいとくしょう)禅師は偉いという訳です。
 
しかし、法蔵菩薩って誰でしたっけ。
 
「法蔵菩薩 - 阿弥陀如来の因位の時の名(修行時の名)」(法蔵菩薩-wikipedia)
 
「私の名を十回唱えて云々」とは、念仏のナムアミダブツを口に出していうということでした。
 
『「南無」はナモー(namo)の音写語で「礼拝、おじぎ、あいさつ」を意味するナマス(namas)の連声による変化形。
 
「礼拝」から転じて帰依(śaraṇagamana)を表明する意味に用いられ、「わたくしは帰依します」と解釈される。
 
「阿弥陀」は、その二つの仏名である「アミターバ(無量の光明, amitābha)」と「アミターユス(無量の寿命, amitāyus)」の「はかることのできない(無量)」というアミタ(amita-)のみを音写したもの。
 
すなわち「南無阿弥陀仏」とは「わたくしは(はかりしれない光明、はかりしれない寿命の)阿弥陀仏に帰依いたします」という意味となる。」(南無阿弥陀仏-wikipedia)
 
昔、私は比叡山延暦寺の根本中堂の庭を散策したことがありました。
朝の読経の声が松やヒノキの梢に木魂します。
 
「なーーもーー、あーーみーー、だーーぼーーー。なーーもーー ・・・」
 
だから「なーもー」と発音していたのだと、今理解できました。
 
ナモー(namo)で、お辞儀をしながら対象に帰依しますと誓う言葉なのでした。
 
比叡山で今もなお、「なーーもーーー」と原始仏教のままの「音(おん)」が流れていることに対して、私は最澄さんの偉大さをひしひしと感じる次第です。

公衆風呂の発見者 黄檗宗の僧

Sh3b0518

普通よりは明らかに多い向嶽寺の棕櫚の木(3~4本が松に隠れている)

Sh3b0534s

公衆風呂の額(縮小して再掲)

 

実は、私的には黄檗宗は東方キリスト教と仏教が禅の世界で習合したものだという理解があります。
 
はっきりと根拠を示すことはできませんが、いくつかのことの連鎖からふとそう感じるようになっています。
 
西洋からはネストリウス派のキリスト教は異教であると弾劾され、自然と歴史から姿を消したのですが、神道をも習合してしまう仏教の世界宗教感覚ではネストリウス派さえも吸収してしまったのではないかと。
 
イエス・キリストの磔処刑とその復活。
 
AC45年から数年を経てトマスはインドへ布教にやってきています。
聖トマという地名もインドにあったとか何かで読みました。
 
そのキリスト教は釈尊の教えが伝来したルートを辿って唐都長安へも伝搬していったのでしょう。
中国へ渡った空海は長安でイスラム教の寺院やキリスト教の寺院などを見聞しているはずです。
 
さきほどの公衆風呂の入り口に係っていた達筆の証明額に塩山向嶽寺開山の抜隊得勝による源泉発見だ、と書いてありました。
 
「隊」の字を「遂」の字と同じに「すい」と読ませていますが、書き間違えではないのかとも思いますが・・・。
 
「ばっすいとくしょう」と読みます。
 
少し長いですが、「塩山 向嶽寺」サイトよりそのくだりを抜粋します。
 
「抜隊得勝(慧光大円禅師)

向嶽寺の開山は抜隊得勝(ばっすいとくしょう)禅師〔慧光大円禅師〕です。
 
禅師は鎌倉幕府が滅亡する直前の嘉暦2年(1327)10月6日、相模国中村(神奈川県足柄上郡中井町)に生まれました。
 
父の姓は藤氏と伝わります。
禅師は4歳の時に父を失いますが、その三回忌に供物を供えるのを見て、亡くなった父はどうしてこの供物を食べるのだろうと素朴な疑問を抱いたと言われます。
 
このことについて後年抜隊禅師は、
 
「少年より一つうたがいおこりて候ひし。そもそもこの身を成敗(裁くこと)して誰そと問えば我と答えるものはこれ何物ぞ。」(『塩山仮名法語』)
 
と疑ったと述べられています。
 
この疑いが深くなるにつれて出家しようとの志が深まり、ついに正平10年(1355)29歳の正月「衆生を度し尽くして後に正覚を成ずべし。」と決意されます。
 
この決意は阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩の大願と同じで極めて注目すべきことです。
 
出家された抜隊禅師は中国僧・明極楚俊(みんきそしゅん)の高弟(特に優れた弟子)で出世を嫌って山中に庵居していた得瓊(とっけい)を訪ね、自己の心境を披瀝(ひれき)し同じく山居修行を続け、やがてさらに心境が深まるにつれその究めたところをしかるべき師に証明してもらおうと、鎌倉・建長寺に肯山聞悟(こうざんもんご)を、常陸に復庵宗己(ふくあんそうこ)をというように各地を遍歴し正平12年再び得瓊の下に帰ります。
 
13年得瓊の勧めで出雲・雲樹寺に孤峯覚明(こほうかくみょう)を訪ね修行を始めましたが、僅かに60日、その悟りの境地が認められついにその印可を得ることになります。
 
孤峯は千挙を群といい万挙を隊というとして禅師に「抜隊」の道号を授けました。
 
孤峯の法を嗣(つ)いだ抜隊禅師は近江の永源寺に寂室元光(じゃくしつげんこう)を、また能登の曹洞宗・総持寺に峨山紹碩(がさんじょうせき)を訪ねるなど各地を遍しました。
 
その後も伊豆・相模の山中に庵居され、永和2年(1376)には武蔵横山(現八王子市)に移り、さらに永和4年(1378)には以前から志していた甲斐に入り高森(塩山市竹森)に庵居することになります。
 
高森には禅師を慕って800人にも及ぶ僧俗が参集したといいます。
 
ところで、昌秀庵主という人がいて、深く禅師の徳風を慕っていました。
 
昌秀庵主は抜隊禅師の住む庵が風当たりが強く、山道が険しい所にあったため、教えを受ける者たちが苦労しているのを見て、時の領主・武田信成(のぶしげ)に要請して、塩山の地を寄進させ、康暦2年(1380)正月に「塩の山」の麓に庵を創建し抜隊禅師を招き入れています。
 
抜隊禅師54歳の時でした。
 
この庵は、かつて抜隊禅師が近江にいた頃、夢に富士山を見、今、塩山にいて目の前に富士山を眺めていることにちなんで「向嶽庵」と称されました。
 
寺号をつけなかったのは抜隊禅師が道行のすたれることを心配し、修行を専一にという考えによります。

抜隊禅師は初発心時のお考えのごとく、まさに泥まみれになって僧俗の教化に努められました。

至徳3年(1386)に上梓された『和泥合水集』は衆生を教化救済するためには、泥まみれ、びしょぬれになることをいとわないことを書名としています。
 
また遠隔の地の人々からの質問に手紙で懇切に答えられた『塩山仮名法語』もあります禅師は至徳4年(1387)2月20日、端座して周りの弟子たちに向かって、「端的(たんてき)是(こ)れ什麼(なん)ぞと看(み)よ、什麼(いんも)に看ば必ず相い錯(あやま)らざらん」と2回にわたって声高に告げ、灯火が消えていくかのごとくに寂したといいます。61歳でした。

その後、天文16年(1547)6月、甲斐の実権を握った守護・武田信玄の朝廷への働きかけによって抜隊禅師に「慧光大円禅師」の諡号(しごう)を賜ることになります。」(「塩山 向嶽寺」より抜粋しました)

http://www.rinnou.net/cont_03/13kogaku/

Sh3b0516

SH3B0516 私には中国風の教会に見えて来るのでした。

Sh3b0522

SH3B0522 見事な松

Sh3b0514

SH3B0514 ひょうたんの括れに橋(私は意味もなく三位一体をこの場所で感じました)

「放生池 

この中門は通常開かれることはありませんので、塩築地の東端にある通用門より境内に入ることになります。

 

赤松や杉、檜の木に囲まれた放生池(ほうじょういけ)が目に入ります。

瓢箪(ひょうたん)のような形をしていてその丁度くびれの部分に木の橋が架かり、その先に三門跡の礎石が残り、仏殿に到ります。

 

この仏殿は天明6年(1786)の大火災後の再建建造物で「由緒記」によれば、「合棟仏殿開山堂、号して祥雲閣」と記されています。

 

「合棟」つまり仏殿と開山堂を合わせ建てているものです。

通例の禅宗仏殿とは異なった意匠による複合建築と言えます。」(同上より抜粋)

三門跡跡の礎石という文字から三位一体を私は想起したようです。
意味は知りません。調べてみました。
 
意外なことに「最澄」の名前が私の脳裏に浮かび上がってきたのです。
 
平安密教の国立僧です。空海は民間僧でした。
 
「「天台宗を代表する寺院としては3門跡寺院という呼名があります。
天台宗とはそもそも比叡山延暦寺を総本山とする宗派ですが、
 
①青蓮院門跡
②三千院門跡
③妙法院門跡
 
です。
 
妙法院門跡についてはご存知が無い方も多いと思いますが、
あの三十三間堂を塔頭に持つお寺です。
 
この3つ寺院に、曼殊院と毘沙門堂を加えて、
5門跡寺院ということもあります。
つまり
 
①青蓮院門跡
②三千院門跡
③妙法院門跡
④曼殊院門跡
⑤毘沙門堂門跡
 
となるわけです。」
(「天台宗の3門跡寺院と5門跡寺院についての マメ知識」より抜粋)
http://kotoyuujin.com/2013/02/
 
なるほど、密教はキリスト教の新旧聖書を漢字のお経文として確かに含んでおりました。
 
モーセの言ったナツメヤシの葉で神を祝う行為は、今でも甲斐の山奥で受け継がれているように見えてきました。
 
賽銭箱が見当たらなかったのも、庶民の銭を当てにして営業しているのではないということでしょう。
 
私は手に握りしめて境内を散策していた一個の10円玉を、再び私の寂しい小銭入れにそっと戻したのでした。
 
帰路、馬上で、もとい、バイク上でぶつぶつ何かを唱えながら・・・。
唐への国側留学僧の最澄は先端密教が何かを知らずに旧約聖書の漢訳を日本へ持ち帰りました。
 
それは紀元前13世紀のモーセから始まる古代ユダヤの歴史物語です。
 
ナツメヤシ、日本に来たザビエルは、「棕櫚」と和訳した薩摩武士ヤジロウの案を和訳聖書に採用しましたが、棕櫚の精神はまさに紀元前13世紀から脈々と伝わってきている信仰のサインです。
 
一方、私費での民間留学僧の空海は確か奈良で中国人帰化僧の指導を受けて中国語も読み書きは堪能でしたので、平安時代の唐の都長安で先端の密教は何かを掌握しその正当な承継者に接近し、得度を得ました。
 
正確には得度というレベルではなく、密教の正当な後継者として日本人民間僧が選ばれたという栄誉を得たのです。
 
すなわち空海は新約聖書の漢訳を日本に持ち帰り、朝廷に報告しました。
ここで勝負が決まりました。
 
帰国後新約聖書の存在を知った最澄は、それを貸してほしいと空海に頼みますが、空海は拒絶します。弟子以外には見せないと。
 
とうとう最澄は聖書見たさに空海の弟子となり、それにより最澄の信頼できる弟子を高野山に受け入れさせることを得ました。
 
仕舞いにはその弟子も比叡山へ戻ることなく高野山へとどまったっようですので、踏んだり蹴ったりの最澄の留学後の人生になります。
 
その最澄の宗派が天台宗なのでした。
 
キリストの死と復活ののちに書かれた新約聖書をインドへ持参したのは聖トマでしょうか、それとももっと後世の預言者だったのでしょうか。
 
「トマスはインドまで赴いて宣教し、そこで殉教したとされているが、史実的な裏づけはない。
しかし、『トマス行伝』にインドの王として記録されているグンダファルという人物が、近年発掘された当時の貨幣によって実在していたことが判明した。
 
また、この時代から海路を通したインド貿易が行われていたため、インドに渡ったというのはまったくあり得ない話ではないといわれている。
インドでは、トマスはトマの名で呼ばれ、トマが建てたという伝承のある教会がある。」(使徒トマス-wikipediaより)
 
このwikipedia記事の著者は人間の歩く距離に勝手に制約を置いているように見受けられます。
 
四国お遍路10週という猛者もいますが、1500㎞を10回歩いた修行僧です。
弘法大師空海などはもっと沢山歩いているはずです。
 
私は五街道を歩きましたが、合計で2000~2500㎞ほどでしょうか。
また江戸期にインドからエルサレムまで歩いた日本人青年ペドロ・岐部という切支丹がいました。
 
聖トマスは教えを東方に広めるべく、自分の足で歩いてインドへ至ったのだと私は考えます。
 
「海路交易があったからトマスがインドへ行った可能性がある」、などというwikipedia氏の言い方は、その書いた人物の日陰育ちの弱弱しさを私に与えてくれたようです。
 
人間の足を見損なっちゃあいけない。
 
さて、「聖トマ」という名はトマスのインドでの呼称でした。
 
トマかその弟子たちの誰かが起源後のどこかでインドへ新約を伝え、それが三蔵法師の旅程をなぞるようにして世界宗教の中心都市である唐の長安へたどり着いたのでしょう。
 
それを短い留学の期間に素早く習得し、その才能の高い事を中国僧に認めさせた空海の賢明さと抜け目のなさは見事という他はありません。
 
最澄はおそらく生真面目な勉強好きな僧侶だったのでしょう。
私はこのような新約と旧約の思想的な摩擦を見聞すると、その後のプロテスタント(聖書原点に忠実)とカトリック(カトリック教会の指導に忠実)との争いと似たものを体で感じてしまいます。
 
大阪夏の陣、冬の陣が先週来NHK大河ドラマ真田丸でやっていますが、大坂方の中の明石カモンがカトリック信者の元大名としてカミングアウトしていますが、家康側は山岡荘八著「徳川家康」によればプロテスタント側。家臣に三浦按針(元オランダ船のイギリス人水先案内人)がいるから・・・。
 
大野修理と大蔵卿の局母子も、私はカトリックではなかったかと「徳川家康」全巻を読んだときの印象としてはもっています。
 
そういえば、高野山九度山蟄居の真田幸村も正室一人しか妻は持たなかったようです・・・。
話が飛びました。
 
向嶽寺の境内にある三門跡の基礎石のことで気づいたのは、天台宗の宗派であるということでした。
 
京の都では高野山の空海に対して敗北を認めざるを得なかった最澄ですが、甲斐・信濃まで信仰を説いて歩いたものでしょう。
 
その後、関東各地を最澄は歩いていくことになります。

塩山温泉 公衆風呂は極上の湯質、但し熱い

Sh3b0534s_2

SH3B0534 向嶽寺開山和尚による温泉発見

書いてある内容よりも、信玄の郷の人の達筆に見とれました。(風呂場の入り口にて)
しかも内容もすごいし、ありがたい。

Sh3b0535

SH3B0535 公衆風呂の入り口(大人400円)、この後ろ側のとなり部屋に座るおじいさんに支払います。

Sh3b0537_2

SH3B0537 脱衣場にコインロッカーはありません。同じ経営の隣接旅館で預かるかも知れません。

Sh3b0536

SH3B0536 内風呂のみです。向こうが熱い湯船、手前が常温の源泉です。私は源泉を洗面器で汲み、自分の周囲にまき温度を調整しました。
 
私の中ではコスト/性能比で今のところ日本一ですが、熱いのにはなれるほかありません。
お断りしておきますが、「私的に日本一」という意味は安くて良質という点で日本一という意味です。
 
一泊一人5万円、10万円などを支払っての日本一なら観光案内にいけばすぐに教えてくれますので、自分で苦労して探す必要もありません。
 
300円、400円という安い入浴料で極上の湯質と清潔な施設と景色を提供しているところが、『とても偉い』と私は思うのです。
 
そういう日帰り入浴できる温泉は、日本の国の変質とともに、消えていきつつあります。
この国の良さがいつまでも消えないようにと祈りつつ、コスト/性能日本一の湯を探して走り回っているところです。
 
「塩山温泉「宏池荘」さんに日帰り入浴♨」
http://blogs.yahoo.co.jp/kyytn668/8674774.html
 
さて、自宅を出る前に、事前にこの記事を読んでから山科へ参りました。
 
「武田信玄公の隠し湯としても知られています。(この言葉に私は弱い)
 
この、こじんまりとした温泉街のほぼ中央に位置するのが、旅館・宏池荘さんです。
この旅館の大浴場は「公衆浴場」としても営業しており、地元の人々や観光客の皆さんに人気があるとのことです。
 
入口は、お宿の入口とは別の場所(駐車場の奥手)にあり、下駄箱に靴を入れて入ると、左右どちらに行ったら良いのか分からず・・・
左の母屋(旅館棟)に入ると、リクライニングチェアで熟睡している年配の男性を発見・・・・・・」(同上抜粋終わり)
 
そのおじいさんが駐車場にやってきました。
 
私がバイクを駐輪したのが午前9時過ぎ。
すかさずその隣に軽トラックが入庫し、私を見ながら「何がしたいのか?」と聞かれた気がしました。
 
「風呂に入りたいのですが・・・」
 
「400円じゃ」
 
このおじいさんがあの風呂の親父らしい。
 
一緒に公衆風呂の方へ歩いていき、親父は左手の旅館側のガラス扉を開けて居間へ入り、例のリクライニングシートへ座る。
今はまだ眠りはしない。
 
私は立ったまま、おじいさんに料金を手渡し、簀子板の前で靴を脱ぎ、右手の公衆風呂に向かう。
親父は遠ざかる。
 
背中方面でおじいさんの声が響く。
 
「誰もおらんから、貸し切りじゃっ!」
 
貸し切りで400円は安いという意味だろうか・・・。
 
清潔そうな湯である。
手入れはきちんとしていて気持ちいい。
 
まず手前の源泉水槽に手を浸けてみるが、水で冷たい。少しぬるい気がするもののそこへ浸かるのは相当覚悟がいるだろう。
 
向こうの湯は熱い。
 
そこで洗面器でつめたいほうの水を汲んで熱い湯船へと入れた。
 
そのときはまだそれが源泉であるかどうかは知らなかったので、水槽を汲んで湯を冷やしているつもりだった。
 
何とか肩まで浸かれた。
 
二の腕同志を擦ってみる。
 
私的には最高レベルの「ヌルヌル感」である。
濁り湯ではなく、ほぼ透明に見える。
 
誰もいないのに「あ~、いい湯だなあ」と、つい声に出してしまった。
 
山口県光市で大昔に通っていた寿楽荘の湯、あれがこれまでの日本一であったが、今は現代風の温泉スパ「バーデンハウス光」に変わっていて、それは存在しない。
 
当時の入浴料は350円で、内湯湯船の窓外の樹木に山鳩やモズが止まってさえずる自然観満点の湯だった。
 
この公衆浴場はそれに匹敵する。
鳥も樹木も見えないけれど、それに匹敵する湯質である。
 
両者ともに、「長湯できないくらい熱い」のも共通している。
寿楽荘の湯で小学生の娘二人に100を数えさせるのは火照った顔を見れば無理だとわかり、それでも30を数えさせたのは拷問だったかも知れない。
 
もし温湯(ぬるゆ)の浴槽がもう一つあったなら、文句なしに私はこの湯をコストパフォーマンス日本一に認めるであろう・・・。おしい。
 
私が湯から上がる頃、80歳を越えた痩せ気味のおじいさんが一人入ってきた。
地元の人らしい。
 
二言三言言葉を交わした。
これも田舎の公衆温泉の楽しいところである。
 
彼があの熱い湯船にどうやって入るのか、大変興味が湧いてきた。
見るともなく、そのなりゆきを気にしながら、私は帰り支度をしていた。
 
しばらくすると、喉を絞ってトイレでイキむような大きな声で、「アッツイーッ!」とおじいさんの叫び声が湯船の天井で反射した。
 
脱衣場の私の耳にまでその声は伝搬してきた。
私は一人でにやりと笑った。
 
「地元の人にも熱く感じたんだ。
そうすると、いつもは適温であって、今日だけ熱過ぎたのかも知れない。
冷やす手立てはほかにあるのではないか?」
 
バイクのナンバープレートから川崎からやってきた「よそ者」だと親父は初めに私を見抜いている。
 
郷に入っては郷に従え。
熱い湯もこの郷の決まりかも知れないと考え、私は自分の手で湯温を調整し我慢して入浴したのである。
 
しかし、状況は変じた。
 
地元のおじいさんの悲鳴がある。
 
私は着替えの途中であったが、急いで脱衣場を出て、親父の座るチェアーへ小走りに向かった。
 
チェアーと称するのがお似合いの椅子である。
親父は新聞をめくっていた。
 
「あのう、地元の人も湯が熱いと言っておられますよ。調整できないのでしょうか?」
 
親父は新聞をめくる手を止めて、首だけ持ち上げて私をぎょろりと見上げた。
 
「贅沢言うなっ!
 
あいつは地元言うても、1年に1~2回来るか来ないか程度のもんじゃ!」
 
親父の傍でおかみさんらしいおばさん?おばあさん?がテレビを見ていたが、こちらを振り返って私を見た。
 
何ら表情は変わっていない。
しかし、やがて頬が緩んで笑っているようにも感じられたが、笑いの意味まではわからない。
 
親父の顔を見ると、朝いちばんでどなった頃の顔のまま、贅沢を言うなと怒鳴る。
 
しかし、声と顔は怖いが、目を見ると少し笑っているような印象がこちらへ伝わって来た。
 
もう2度とこの熱すぎる湯に来るものかと感じていた私だが、親父の言葉が終わりそうな頃にはその印象が変化してきた。
 
そして、ついこう返事をした。
 
「いい湯でした。また来ますよ。」
 
親父の愛想の悪さと湯の熱さを差し引いても、その言葉は本当以上だった。
 
私的には日本一の湯に入るのである。
 
春が来たら、群馬の温泉経営者から聞いた山形の湯を確かめにいくつもりだ。
 
温泉経営するものがあそこにはいい湯が沢山あると昔を回想するような表情をしながら私に教えてくれた。
 
ここの湯を越える『熱くないいい湯』が山形にはあると思う。
 
これから雪深くなる山形の山間(やまあい)の露天風呂を想像しながら、山梨の、今のところ日本一の湯を去ることにした。
 
自宅までは5時間のツーリングである。
日帰りだから、1日のうち10時間をバイクの上で過ごす。
朝飯はコンビニのサンドイッチで済ます。
 
好きでなけりゃあ、できない仕業(しわざ)である。
寒い甲斐・信濃の山中で熱い温泉に浸かり、心身の傷を癒せた。
 
それは信玄公の時代から今まで変わっていない。
 
開山僧は中国黄檗宗の影響を受けた名僧であり、それを保護したのも信玄公であった。
 
その有難い湯に私は浸かれたのである。
そこで覚醒した。
 
確かに私は贅沢を言ったのである、と。
 

2016年12月 5日 (月)

娘が嫁に行きました・・・。

桜ふぶきの おねえさまお別れおしんで 泣きました
 

Sh3b0509

SH3B0509 来年の桜の並木道を通る花嫁を想像しました。 
塩山(えんざん)向嶽寺(こうがくじ)境内にて。(山梨県塩山市(えんざんし)
塩山温泉に浸かる前に、東400mにあるお寺を今朝訪ねました。
 
「十五夜お月さま ひとりぼち
桜ふぶきの 花かげに
花嫁すがたの おねえさま
くるまにゆられて ゆきました
 
十五夜お月さま 見てたでしょう
桜ふぶきの おねえさま
お別れおしんで 泣きました
 
十五夜お月さま ひとりぼち
桜ふぶきの 花かげに
遠いお里の おねえさま
わたしはひとりに なりました」
 
これは、大村主計作詞、豊田義一作曲 童謡「花かげ」です。
味わい深いので3番まで掲載させていただきました。

Sh3b049870

SH3B0498 童謡「花かげ」の碑

Sh3b0502

SH3B0502 塩の備蓄は壁の中、「塩築地(しおついぢ)」
向獄寺は臨済禅、黄檗禅。富嶽(ふがく、富士山)に向かう場所にあることから名前がついたそうです。
 
「正面には中門と称される総門が行く手を遮ります。
室町時代の建造物で、向嶽寺は開創以来幾度もの火災に遭遇し、山内のほとんどの伽藍を消失していますが、この中門だけが残って、室町時代の禅宗様四脚門の代表的遺構として国の重要文化財の指定を受けています。
 
檜皮葺き(ひわだぶき)で彩色や装飾要素がなく切妻屋根の簡素な造りです。
また、この門の東西には漆喰(しっくい)製、瓦屋根の築地塀(ついじべい)が配されています。
由来によれば、この付近の岩塩から「にがり」をつくり、漆喰に混ぜて築地を強化したと伝えられ、「塩築地」とも称されています。
主要建物が南北一直線上に配置されている伽藍の配置上、見透かしを避けるために設けられたものと考えられ33.5mあります。」(「塩山 向嶽寺」より抜粋)
http://www.rinnou.net/cont_03/13kogaku/

Sh3b0529

SH3B0529 塩の入った白壁に光が反射している

Sh3b0530

SH3B0530 こちらは普通の壁のように見える。白さがそれほどない。
 
「童謡「花かげ」は、桜吹雪の頃、このあたりを人力車に乗って嫁入りする姉の姿をうたったものです。
 
作詞者 大村主計は、山梨県牧丘町の出身であり、ゆかりのこの地に、昭和32年、郷土の文芸振興を目的として詩碑が建てられました。」(現地の説明板より抜粋)
 
「童謡「花かげ」の詩は、郷土の詩人大村主計が二十歳の時、一夜で書き上げたという。
それは彼が少年のころ、姉のはるえが嫁ぐ日、向獄寺境内の桜並木をとおって旧大藤村へ嫁入りする雄姿を涙ながらに見送った切ない想い出が脳裏に刻み込まれていたからだと言われている。
この詩は戦前から歌われていたが、戦後松田トシ、川田三姉妹が愛唱して全国的に知られるようになった。
 
昭和三十二年、この詩を顕彰して詩碑が建立され、その除幕式には、徳富蘇峰、サトウハチロー、堀内敬三等多数の文化人が参列した。
 
このおり、主計の詩友西条八十は、
 親しき友の石ふみの たつ塩山の秋の空
 流るる雲の石ふみに 草むす日など想いつつ
 
と、詩碑のたつ塩山の地名を織り込み、二人の友情の絆の強さを詠んだ。この友情に溢れ詩情に満ちた作品の所在は早くから知られていたが、この度その真筆が発見されたことを機会に塩山ロータリークラブ創立三十周年を記念して、ここに記念碑を建立する。
平成十四年四月十八日
        塩山ロータリークラブ
        協賛 塩山市」(現地の解説板より抜粋)
 
「桜ふぶきの おねえさまお別れおしんで 泣きました」
 
この下りはおそらくその母親も同じ心情であったことでしょうが、母親には巣立つ子への喜びや安堵の気持ちもほのかに感じられていたことでしょう。
 
そして、我が家の娘はマンションのエレベータ内で手を振りながら、階下へと消えていきました・・・。
 
皆様、大切な人とお別れするときは、ぜひ外玄関までお見送りを致しませう。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(参考) 武田信玄、塩がないとなぜ困ったのですか?
(海のない甲斐は、塩を戦国時代の他国からの輸入に依存していました。)
 
「>塩を断たれた武田勢、
 >塩がないとなぜ困ったのですか?
 
「塩分」は「水分」同様に人間必要なものです。
そのため「今川家」から「塩」を断たれた「武田家」の領民が困りました。
 
>謙信はなぜ敵である武田勢に塩を送ったのですか?
 
贈ったのではなく「越後」の「塩商人」に規制をかけなかったのです。
規制した場合「越後」の「塩商人」が困ります。
それを「上杉氏」が望みませんでした。
 
また「今川氏」の「駿河」の「商人規制」も長続きしませんでした。」(「知恵袋」より)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1133773556

2016年12月 2日 (金)

川崎市の放射線量推移

福島の第1原発1号機の原子炉建屋カバーを外して3週間が経過しました。
 
2016年11月16日 (水)付け拙著記事にて、
「ストロンチウムの学習(17) 1号機原子炉建屋カバー解体の件」を掲載いたしました。
 
冒頭、「1週間ほど前のテレビニュースで標記のカバーが開かれたという報道を目にしました・・・。」との書き出しでした。
私の上記の記憶が正しければ、11月9日頃に1号機のカバーが開かれたということになります。
 

Photo

http://www.atmp-kawasaki.jp/よりデータを引用し作図しました。

そのときの測定値と現在の測定値の挙動を示します。
11月19日、20日頃から少し増加しているようです。
 
※単位:μGy/h(マイクログレイ/時間)   
※緊急時は、1マイクログレイ=1マイクロシーベルトとして換算します。   

以下は、東電HPによる「前記カバーを開きますよ」というお知らせです。

「1号機原子炉建屋カバー解体作業」より以下に抜粋します。
http://www.tepco.co.jp/decommision/planaction/removal-reactor/index-j.html
「お知らせ

建屋カバー解体工事については、2016年9月13日より壁パネル取り外し作業を実施しております。
 解体工事にあたっては飛散抑制対策を着実に実施するとともに、安全第一に作業を進めてまいります。
以下略。」(抜粋終わり)
 
9月13日より作業は開始していたようですが、いよいよカバーを外して大気に露出させる日が11月9日頃だったようです。
 
1年間で7割程度が北東の風が吹く日本列島ですので、数日で大気中漏れ出した放射能が私の住む町へ到達するのではないかと、心配して測定値を下記サイトから調べましたが、当時も変化は少なく、今日現在も少ないようです。
 
プルーム(放射能雲)の関東への到来軌跡などを見ても、大気は右へ左へゆらぎながら、徐々に南下しているように思われます。
新幹線のように一直線に東京駅へ向かうという挙動はしません。
 
http://www.atmp-kawasaki.jp/
 
上図を見れば、1割程度は平常時よりも高めになっているようにも感じられますが、雨天の影響によっても値は上昇しますので、このデータだけでは何ともまだ言えません。
 
当該カバーを外したのが11月9日頃、そして川崎市麻生区の大気中の放射線量が11月19日、20日頃から少し(1割程度)増加しているように見受けられます。
 
なお、3.11のあとで原発が水素爆発した当時は、平常時の15倍の濃度に川崎市上空もなっていましたので、1割程度の変動であればまだ安心できるようです。
 
ただ、ストロンチウムの学習で学んだように、内部被ばくによる晩発性障害の場合は、低線量ほど障害は遅れて発するという性質もあります。
 
外部被ばくのように、低線量だから直ちに生命に危険を及ぼす濃度ではないという文句をそのまま内部被ばくへ当てはめることもできないことをよく理解しておきましょう。
 
低線量ほど潜伏する。吸ったり飲んだりして体内に入ったら、低線量だからといって危険がなくなるわけではありません。
 
1割程度の増減であれば、できれば1割減少する方が体にはよいに決まっています。
上図を見ますと、間違いなく1割増加しているような変化を見せています。
 
雨の日は放射能が濃縮される可能性が高まります。
 
雨に濡れないように注意し、濡れたならばハッピーバースデーの歌を2回分歌う時間をかけて手を洗い、うがいをしましょう。

消えた原発の二文字

 「電力の供給力確保を促すには」より一部を抜粋します。 

2016/11/30付 日経新聞社説

 

再生エネルギーの開発や電力自由化の流れを必要と認めたあとの課題とその解決の考え方を触れたくだりです。

 

再生エネルギーの特徴である電力変動の吸収には火力発電などが必要として、そこに原発の2文字が登場していませんでした。

 

これまでの日経新聞の記事の論調はどちらかと言えば原発容認であって、3.11以降もその傾向は変わっていませんでした。

 

たいていの経済問題に関して正しい視点を有しているように見える日経新聞ですが、こと原発となると対米追随的な誤った論調を何度も拝読していましたので、上記の社説表題を見たときも、「また日経だから原発新設必要などと訴えるのだろう」という思い込みで読んだ次第です。この傾向はNHK解説員にも数年前まではありました。

 

しかし、今回はその期待を裏切らぎられました。一部を抜粋します。

真理は一つに収束しつつあるように感じました。

 

「 再生エネルギーの導入が増えれば、それに応じて火力発電所など調整用の電源を用意しなければならない。しかし、再生エネルギーの発電量が足りない時だけ動かす発電所は稼働率が高まりにくい。

 

 発電事業者は、稼働率が低くて費用の回収を見通せない投資には消極的にならざるを得ない。有識者会議はこの点を踏まえ、将来の電源不足を回避する策として「容量メカニズム」と呼ぶ手法を検討している。

 

 電力小売会社が、電力販売に必要な発電能力を長期の枠として入札を通して買う。発電会社は発電所の稼働状況にかかわらず安定収入が見込める。自由化で先行する米欧で導入が始まっているこの仕組みを日本でも定着させたい。

 

 それには制度設計が重要だ。発電能力に応じて収入を保証した結果、古くて非効率な火力発電所が温存されることになってはまずい。入札価格の決め方を工夫するなど、効率の高い発電所への切り替えを促す制度にすべきだ。

 

 発電能力を増やすだけでなく、供給力が足りない時に消費者に電力利用を控えるよう促し、需要のピークを下げる仕組みなどと組み合わせていくことも大切だ。」

(抜粋終わり)

 

これまで原発必須の理由の一つに再生エネルギーの欠点をあげつらい、それを誇大妄想化してきた影響を原発なしの論調で引き受けているから、「妙な塩梅」になっているものと思いました。

 

電気技術分野にいた私の意見では、新設の火力発電へ古い火力発電を早期に更新するだけで日経社説記者の杞憂は解決できます。

日本の火力発電は世界に誇れる高効率発電所です。

政府はそれを財政面で支援すればよいだけです。

 

あれこれと議論する余地のない問題です。

 

こと原発問題への基本姿勢の変化は時流に任せるなどという安易な態度ではなく、戦争報道への謝罪と同様に、メディアとしてきちんと読者や国民になぜ誤った判断をし続けたのか、その理由と責任を明らかにして誌面で謝罪する必要があるのではないかと私は思います。

誤った方向にしばしの間でも大衆を誘導したことへの真摯な姿勢を期待します。

2016年12月 1日 (木)

真理はひとつ

Atm

図1「仏の原発で圧力容器の強度不足疑い 「日本鋳鍛鋼」製 国内に13基」(2016年9月3日 東京新聞 朝刊)より引用。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201609/CK2016090302000123.html
 
「 九州電力や東京電力、関西電力など電力六社は二日、フランスの原発で強度不足の疑いがある重要設備を製造した大型鋳鋼品メーカー「日本鋳鍛鋼(ちゅうたんこう)」(北九州市)が、稼働中の九電川内原発1、2号機(鹿児島県)を含む国内八原発十三基の原子炉圧力容器を製造していたと原子力規制委員会に報告した。」(同上より抜粋)
 
1年以上前の「揺らぎ始めた「原発大国フランス」」によれば、
投稿日: 2015年01月08日 17時12分 JST   更新: 2015年03月08日 18時12分 JST   
http://www.huffingtonpost.jp/foresight/shaking-france-nuclear-power_b_6426454.html
 
「 欧州の電力業界へ次々に変革の波が押し寄せている。
3.11以降にドイツやイタリア、スイスなどが「原発ゼロ」への道を選択し、スペインも原発を新設せず、再生可能エネルギーのシェア拡大へ舵を切った。そこに拍車を掛けたのがフランス。
2012年の大統領選で原発依存度を75%から50%に引き下げる公約を掲げて当選したフランソワ・オランドの政権下で「縮原発」が進んでいる。」(同上抜粋)
 
というフランスでの「揺らぐ原発政策」の話題がありました。
 
今夏には下記の懸念情報がありました。
 
「仏原発の原子炉鋼材、強度不足の懸念 国内の調査指示へ」より抜粋します。
2016年8月23日21時07分
http://www.asahi.com/articles/ASJ8R5VT1J8RULBJ014.html
 
「 鋼材の問題は昨年、仏で建設中の原発で発覚した。仏規制当局(ASN)の発表などによると、仏電力会社傘下のメーカーや日本国内のメーカーが製造した原子炉などで、強度不足の懸念が指摘された。
鋼材に含まれる炭素にムラがあり、もろくなる可能性があるという。
 
 ASNは今年6月、仏国内の18の原子炉で同様の鋼材が使われていたと発表。ASNは直ちに安全上の問題があるとは判断していないが、電力会社に強度が十分か確認するよう求めた。」(同上より抜粋)
 
原発は人間にとって悪であるのか、善であるのか?
 
私は確信をもって前者であると信じています。制御不能なエネルギー資源を人類は利活用すべきではありません。
 
「アンダー コントロール」などと政治家が世界へアナウンスするのを見聞するに際し、この国の物理科学者たちの有する「真理」は一体どうなっているのだろうかと、科学者たちの良心の所在に不安を感じざるを得ません。
 
真理は一つしかないと、約2500年前に釈尊は言っています。
 
「草柳:  その辺のところを、また『スッタニパータ』からいくつか続けてご紹介したいと思います。
 
ある人々が「真理である、真実である」というところのその〔見解〕をば、他の人々が「虚偽である、虚妄である」という。このようにかれらは異なった執見(しゅうけん)をいだいて論争する。
なにゆえにもろもろの〈道の人〉は同一のことを語らないのであろうか?
(スッタニパータ)
 
真理は一つであって、第二のものは存在しない。その〔真理〕を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。
(スッタニパータ)
 
というふうな言い方をしているわけですが、ここのところはどういうふうに見たらよろしいでしょうか。
 
中村: 考えてみれば、真理というものは、人間に関する限り一つであり、普遍的なものですから、どこでも意味をもつものであると、そう考えられます。
ところが当時世間の人々は、お互いに論争し合って相手に対して罵言(ばげん)を浴びせて言い合っている。
 
ところがそういうようなことに迷わされてはいけない。
本当の真理というものは一つしかない筈だ。
 
その一つに我々が到達することは、できることもありますが、できない場合には、相手が違ったことをいうからと言って、すぐに罵(ののし)り返すということをしないで、何故ああいう違った考えをもつかということを、じっくりとこちらで考えてみて、その違った意見が出るのは何故であるかということを反省するわけですね。
 
その反省の必要ということを、仏教では最初の時から説いております。」
(「ブッダの人と思想①われ一切世間に違わず」インド哲学者 中 村(なかむら)元(はじめ)より)http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-629.htm

« 2016年11月 | トップページ | 2017年1月 »

最近のトラックバック

最近のコメント

2017年7月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ