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2016年11月 4日 (金)

古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いていくように

私の部屋のテレビにはたくさんの番組録画が記憶装置に残っています。
 
サッカーの試合やMOTO-GPというオートバイ世界選手権レースの決勝などが多いのですが、最初の3つ、つまり古い方から3個の番組は、釈迦(敬語では釈尊)の原始仏教をわかりやすく説明したNHKの再放送録画です。
 
1995年の同じ番組を3~4回も繰り返して視聴していますので、削除できずに残されていたのです。Windows95が発売された年の録画です。
 
私はずっと無宗教ですが、母方祖父が曹洞宗僧侶だったので、幼いころから祖父の仕事場である本堂の釈迦像(俗に仏様)と、その隣に立つ観音菩薩像を、意味も知らずに拝んだ体験が残っています。
 
そういうことがあってか、成人したあとの私には、釈迦を人間として尊敬する傾向があります。
 
66歳の今、そろそろ身体の健康が心配になり、病苦のやがてわが身にやってくることを薄々恐れるような心境になりつつあります。
 
関東一円にも散布されてしまった放射性核種による健康破壊のリスク増大も、その心配を加速する次第です。
 
ところが、驚いたことに晩年の人間・釈迦も、私たちと同じように病苦に苦しみ、老いを嘆いていたのでした。
 
NHK番組を記録した「ブッダの人と思想⑦自らを灯とせよ」より、80歳になったその年の釈尊の心境を述べた下りを「そのまま」に抜粋します。
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-635.htm
 
注)google検索で「ブッダの人と思想①」で検索すると、その第一巻が閲覧できます。数字を1~7まで変えて検索して、アーカイブ放送の内容をすべて文字で見ることができました。
 
今から約2500年前にインド人釈迦が実際に述べた言葉です。
 
そのころ中国では孫子が兵法書を書いていますので、アジアの知的財産の深さを思い知らされます。
 
この番組収録の4年後に中村元(はじめ)博士もお亡くなりになります。
 
中村博士の言葉のひとつひとつをこのサイトの著者は丁寧にそのまま記録してくれています。その地道な作業にも頭が下がる思いがします。
 
ゆっくり一語一語理解しながら読みますと、釈尊の思いが伝わってくると思います。
 
『草柳:  釈尊の言っている「法」というのは、「ダンマ」「ダルマ」と。これは釈尊だけのものではない。もうすべて万人が、その法の下で、法を尊んで暮らしていかなければ、生活していかなければいけないということなんですね。
 
中村:  そういうことに帰着すると思うんでございますね、簡単に申しますと。
 
草柳:  だから余計に教師がじっと握りしめているようなものではない、ということも余計ここでは強く言っているわけですね。
 
中村:  そう思いますね。殊に珍しい発言だと思いますね。どこの国の宗教史を見ましても、宗教的指導者というものは、「俺は偉いんだ、俺が導いてやるんだ」と、そういう態度で人々、信者に向かう方がいろいろございましょう。それとは全然異なるわけです。
 
草柳:  まさにこれはこの後になるのでしょうか、ブッダが(弟子)アーナンダに向かって言っている次のような言葉も、これもこう身に迫るというか、心に迫るものがあるんですが、これをまた見てみます。
 
「アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢(よわい)をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。たとえば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いていくように、おそらくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ。」
しかし、向上につとめた人は一切の相を心にとどめることなく、若干の感受を滅ぼしたことによって、相のない心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全(快適)なのである。それゆえに、この世でみずからを島として、みずからをたよりとして、他のものをたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」
 
中村:  釈尊の感懐ですね。これは私も年齢だけについて言えば、もう釈尊のこの世における歳を過ぎたこの身にこたえるものがあるんでございます。
 
例えば「自分はもう老齢に達した。我が齢は八十となった。
ちょうど古ぼけた車が革紐の助けによって、やっとこう動いていくように、自分の身体ももうまるで革紐で結わえられて、のっそりのっそり動いていくようなもんだ」と。
 
その譬えが如何にもピンときますですね。
 
殊になんかあるとすぐ薬を飲むなんていうことを致しますが、我が身の哀れさを託(かこ)つにつけられましても、この言葉を訴えるものがございます。
 
けれども、釈尊は体の不自由を託(かこ)っていても、はっきりとした態度を表明しておられます。
 
つまり自分は修行にずっと努めてきた人であった。けれど最後に心の乱れることがないように、一切の相を心に留めることのない、そういう精神統一の境地に達した。「無相三昧(むそうざんまい)」とでも申しますかね。
そうなると、もう身体が自分を悩ますということもないから、自分は健全快適であると。
 
草柳:  つまりこの辺のところは、一切の執着といったようなものを滅し去るというか、滅ぼすというか、そしてその欲望のコントロールができた状態ということなんですか。
 
中村:  そういうことになると思いますね。
それでその場合に何を頼りにするかということですが、今読んで頂きましたように、「この世でみずからを島として、みずからをたよりとして、他のものをたよりとせず」と。
 
「島」という言葉が使われていますが、これはインドでは洪水の時に一面水浸しになるわけです。
そうすると、水のこない水面上に現れているところへみんな避難して、日を送って、それで水が退くのを待つわけなんですが、そこだけ水面上に浮かんでいますから、それを「島」と呼ぶ。
あるいは漢訳仏典では、「州(す)」と訳していることもございます。
 
元の言葉ですと、「ディーパ」と言うんですね。「ディーパ」というのは、「島」とか「州」とかいう意味です。
 
この「ディーパ」という言葉には、「ともしび」という意味もあるんです。それを俗語では「ビーバ」になるわけですね。その「ビーバ」という読み方をとりますと、「お灯明」灯(ともしび)という意味になります。
世の中は闇黒になると、我々何を頼りとしていいかわからない。
 
余分なものに頼りにしないで、本当の人間の理法というものがある。
それを頼りにして、考え行動せよ、という意味なんでございますね。
それで先ず自分を頼りにせよ。州とせよ。島とせよ。
 
それからまた殊に漢訳の仏典には、東アジアの仏教では、「自己を灯明、自己を灯とせよ」と。
自分で反省してみて、その結果得られた確信に導いて貰うと。それで「自灯明(じとうみょう)」「法灯明(ほうとうみょう)」ということが言い癖になっているんでございますね。
 
草柳:  「自灯明」「法灯明」の方はなんとなく分かり易い、
 
中村:  ええ。日本では、そっちの方がよく言われますね。
日本だって洪水がないことはないけど、しかし日本は島国でしょう。だから一面に大海原になるという洪水がないわけですね。
一つの村が被害を受けても、周りはひょっと丘があれば、そこで助かるというものでございましょう。
 
ところがインドのようなところでは、田も畑もみんな洪水の水に浸されるから、この州とか島という譬えが非常にあちらの人にピンとくるわけです。
ところが漢訳仏典になりますと、「ビーパ」という読み方をとる。
それは「頼りとする」と。
 
我々日本人にとっては、灯として頼るという方がピンとくるような気がしますが、親鸞聖人の御和讃にも、「無明(むみょう)長夜(じょうや)の燈炬(とうこ)なり 智眼(ちげん)くらしとかなしむな 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ」と言われている。
 
つまり我々は無明の迷いの中に閉じ込められているんだけれども、しかし仏様の御光(みひかり)によって導いて頂く。だからそれを自分のものとして、そしてかえりとして好(よ)き日を送れ、という意味でございます。
 
草柳:  とにかく先生、灯明というのは、勿論目に見えるし、触ればわかるんですけれども、法(ダンマ)というのは、これは手で触って確かめることもできませんし、勿論目で見ることもできませんよね。
 
中村:  これは人間が各自が実践し行い明らかにするものである、ということが言えましょう。
ですから「自灯明」と「法灯明」と二つ並んで出てくるというのは、どうかと申しますと、何に頼るか。
自分でよく考えて反省してみる。
 
自分を頼りにするわけですが、その場合にも、強い確信をもって行動する人は、百万人と雖もわれ行かん、という気がしましょう。
何故そういう確信が出てくるか。
これは人間として生きるべき理法があるわけですね。
それを「ダルマ」―「仏」と呼ぶわけです。
 
それに基づいて言えば、自分の反省というものが意義をもってくる、ということになるわけでございます。
ただ「自分に頼れ」と言ったって、これは自分の勝手気儘な気分なんかに頼れという意味ではなくて、自分が進もうという道が、ほんとに人間としての道に合しているものであれかしと。
そう思いますと、それに頼るようになる。
だから法を求めて得られた確信とか結論というものは、人類全体に通ずるものでなければならない。
もし如何なる人でも実行すべきものであるということになりますと、百万人と雖も我行かん。百万人の人が反対しても、自分は正しいと思う、この道を行く、というわけですね。
 
この確信というのは、高度に文明の進んだ現代社会でもやっぱり重要なことだと思いますね。
 
つまり如何なる人も、社会的なある持ち場において生きて活動しているわけですね。
その人にとっては、正しい道というものがあるわけです。
それを頼りにし、それに則れ、というわけです。
 
自己に頼るということは、また世の中の人すべてに頼るということにピッタリ合うわけです。
 
時代は違いますけど、近年になっての話で、私、聞いてちょっと心を動かされて感動した話がございますが、この頃いろんな薬が発明されまして、そのために人が薬に頼って害を受けるということがあります。
 
薬害の問題がございますね。
ところが聞きました話ですけど、ある特殊な薬害については、ドイツとアメリカにはその例がない、というんですね。
 
何故かと言いますと、薬屋さんが新しい薬を作って申請しますね。その時にみんなが要るからと言うんでいい加減に許可を出すことをしないで、それを扱ったドイツの女医さんですが、同時に検査官の方、あるいはアメリカでもそういう人がおられたわけです。
 
それが「まだ実験が十分にできていないから、これは売りに出してはいかん」と言って止められたんですね。
みんなが言っていることと反対のことをやったわけです。
 
けれど、すべての人の幸せを望んで、自分の確信を貫かれたわけですね。
 
だからある特殊な薬害というものは、ドイツとアメリカでは起こらなかった、と言っていました。これは大したことだと思いました。
 
草柳:  今のお話は、大変今の日本の状況に照らして、とても示唆に富んでいますね。
 
中村:  示唆に富んでいます。自分が確信をもって、これは人間の道として斯くあるべきだという、それを実行されたわけです。
だからそういう意味の勇気というものはやっぱり今後も要るんじゃないですか。
 
草柳:  我々はその場合、自分に頼るということは、つまりそれは法に頼るということと同じこと?
 
中村:  同じことですね。表裏の関係ですね。
決して矛盾しないわけでして。
 
だから自己に頼るということは、自己の良心に頼るということですね。
また古典の言葉によりますと、「良心」ということは、インドでは何と言うかというと、「アートマン」という言葉を使っています。
つまり自分の内なる魂、心に基づいて批判し考え行動しろ、ということですね。
 
そう思いますと、「自灯明・法灯明」ってこれ同じことになるわけですね。「自帰依・法帰依」というのも同じことですね。」(抜粋終わり)
 
「どこの国の宗教史を見ましても、宗教的指導者というものは、「俺は偉いんだ、俺が導いてやるんだ」と、そういう態度で人々、信者に向かう方がいろいろございましょう。
(釈尊は、)それとは全然異なるわけです。 」というくだりを、日本人僧侶たちはどういう気持ちで読むことでしょう・・・。
 
参考)1995年のNHKアーカイブ放送録画「中村元 ブッダの人と思想」
 
「ブッダの人と思想⑦自らを灯とせよ
インド哲学者 中 村(なかむら)  元(はじめ)
き き て  草 柳  隆 三
語   り  石 澤  典 夫 」

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