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2016年10月25日 (火)

陶晴賢とザビエルの接点

B

若山城跡駐車場から周防の海(瀬戸内海)を見下ろす。(火薬満載の南蛮船は富田港へ着いたころだろうか・・・。)
 
前の記事で、私はこう書きました。
 
(仮説1)陶氏はイエズス会と手を結んでいた。
 
「駐車場に車を置いて、歩いて山道を登っていく。
この山の頂に若山城跡があるとMさんが言う。
私はこの城が誰の居城かは知らないままMさんの後をついていく。
しかし、この稿を書いている今は、陶氏はイエズス会と手を結んでいたと思っている。
海の見える駐車場にあった山口県指定史跡の説明板には、
『1470年、陶弘護(すえ ひろなり)が石州津和野、三本松の城主吉見氏の進行を防ぐために築いた城である。』と書いていた。」
 
また、こうも推理していました。
(仮説2)大友宗麟と仮説1から陶晴方との連携とザビエルの布教影響
 
「1551年宗湛誕生の年にザビエルが大友宗麟の豊後へ布教にやってきています。
27年後の1578年に、宗麟はキリスト教の洗礼を受け、博多商人の神谷宗湛と交友し、日明貿易や日朝貿易も行ったとあります。
もし文明開化の早い博多の神谷宗湛が、彼の誕生時にすでに洗礼を行けていたと仮定すれば、「27歳の宗湛」が洗礼を受けたあとのフランシスコ宗麟と一層交流を深めた可能性を感じます。」
 
果たしてその仮説は時間推移から見て成立し得るのでしょうか。検証してみます。
 
「武家家伝 陶 氏」の記事より、鉄砲伝来とザビエル上陸と、陶晴賢(すえはるかた)の反乱との時間的関係を見てみます。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sue_k.html
 
「享禄元年(1528)、大内義興は臨終の床で、(陶)興房に大内氏の後事を託し、嫡男義隆の補弼を依頼した。
中略。
 
晴賢の謀叛と滅亡
 長男(陶)興昌はすでに戦死していたため、二男の隆房(のち晴賢と改名)が十九歳の若さで家督を継ぐことになった。
(陶)隆房は父祖以来の周防守護代という大内家中における地位と、もちまえの軍略とによって、大内氏家臣団におけるぬきがたい勢力を作り上げた。
しかし、義隆が右筆の相良武任らを重用するようになって、次第に文弱に偏るようになったことから、両者の間には不穏な空気が流れるようになった。
 
天文十九年、隆房は大内氏譜代の家臣杉重矩・内藤興盛らと謀って、富田若山城に引籠ってしまった。」(「武家家伝 陶 氏」より抜粋)
 
杉重矩(しげのり)の氏名が吉田松陰の本名に酷似しているのを妙に気にしているのは私だけでしょうか。
 
「幼時の名字は杉(本姓不明)。幼名は寅之助。吉田家に養子入り後、大次郎と改める。通称は寅次郎。諱は矩方(のりかた)。字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。」(吉田松陰-wikipedia)
 
つまり、生まれたときの松陰の本名は「杉 矩方(のりかた)」でした。
このことは今の議論には関係ありませんので、措(お)きます。
 
陶晴賢(隆房のこと)は大内氏譜代の家臣杉重矩・内藤興盛らと謀って、富田の若山城に引籠ってしまったのが、天文19年(1550年)でした。
種子島に鉄砲が伝来したのは1543年 (天文12年)ですので、この時までに既に7年を経過しています。
中国の寧波港で日明貿易を独占的に差配していた大内氏が鉄砲をいち早く配備したことは容易に想像可能です。
 
大内義隆の父、大内義興が、臨終の席で最も信頼していたはずの腹心たちが、揃って若山城へ籠ったのは、ザビエルが鹿児島に上陸した1年後でした。
 
「1550年8月、ザビエル一行は肥前平戸に入り、宣教活動を行った。
同年10月下旬には、信徒の世話をトーレス神父に託し、ベルナルド、フェルナンデス修道士と共に京を目指し平戸を出立。
11月上旬に周防山口に入り、無許可で宣教活動を行う。
周防の守護大名・大内義隆にも謁見するが、男色を罪とするキリスト教の教えが大内の怒りを買い、同年12月17日に周防を立つ。
岩国から海路に切り替え、堺に上陸。豪商の日比屋了珪の知遇を得る。」(フランシスコ・ザビエル-wikipedia )
 
1550年11月にザビエルは周防山口(周防守護は陶氏)に来て布教をしていました。
周防守護の陶氏一族にザビエルが謁見しないはずはありません。
 
そして、次の記事によれば1550年11月下旬より陶晴賢(隆房)は病気と称して居城若山城(周南市)に籠もったのです。
この背景には、大内氏による石見銀山支配から脱したい石見の吉見正頼の姿が出入りしています。
 
「天文18年(1549年)2〜5月に、大内氏と毛利氏の同盟を強化するための義隆の計らいで、元就が息子たちを連れて山口を訪れて義隆に謁見する。
しかし、毛利に近づくための陶の招きとも言われており(相良武任申状)、隆房(=晴賢)の嫡男・陶長房を通じて密書のやりとりがあったとも言われる。
また、この長期の滞在の間に隆房と吉川元春は義兄弟の契りを結んだ。
 
天文19年(1550年)になると、武任と隆房との対立が決定的となり、武任暗殺まで謀られるに至るが、事前に察知した武任は義隆に密告して難を逃れた。
しかし、隆房が謀反を起こすという伝聞が流れるまでになり、義隆の側近である冷泉隆豊は義隆に隆房の誅殺を進言するほどだった。
武任は、美貌で評判だった自分の娘を陶長房に嫁がせることで和睦を図ろうとしたが、隆房が家柄の違いを理由に縁談を拒否し、融和案は決裂した。
 
8月24日付けで隆房は、毛利元就・隆元宛と吉川元春宛に2通の密書を書き送るが、
「杉や内藤と相談し、義隆を廃し、義尊に跡目を継がせたい」として協力を求めているのが、隆房が謀反を示す最初の史料とされる(吉川家文書)。
また、元就を通じて隆房の意向は、天野隆綱など他の安芸国人にも伝えられており、隆房への協力の見返りに所領を与えることが約束されていた(天野毛利家文書)。
 
9月15日に仁壁神社・今八幡宮で行われた例祭での参詣を義隆は急遽欠席し、右田隆次を代参させた。
これは「隆房が、義隆・武任を幽閉する」という噂で、義隆側が警戒したものと考えられている。
翌16日に義隆は隆房を呼び出して詰問するが、隆房は無実を主張した。
 
他方、武任は同日(16日)に再び大内家から出奔し、石見の吉見正頼の元に逃げていた。
 
11月下旬より隆房は、病気と称して居城若山城(周南市)に籠もり、年が明けた2月の修二月会大頭役の勤めも果たさなかった(隆房が同役を勤めることは前年から決まっていた)。
この時、義隆も隆房らの謀反を恐れて、自ら甲冑を着けて居館に立て籠もり、さらに隆房に詰問使を送るなどしたことから、義隆と隆房の仲は最悪の事態を迎えた。」(大寧寺の変-wikipedia)
 
「そして翌天文二十年(1551年)、隆房は義隆の姉の子で、大友宗麟の弟大友晴英を主君に迎えるように取り計らうと、山口の大内邸を攻撃したのである。
義隆は長門の深川大寧寺で自刃し、大内氏の当主に迎えられた大友晴英は大内義長と改めて山口に入った。
 
 かくして、陶晴賢の下剋上は成功し、表面上は義長を立てながら大内氏の実権を掌握した。クーデターを起こしたとき、晴賢は毛利元就にも支援をたのみ、元就も消極的ながら晴賢に味方して大内義隆を見殺しにしたようだ。
 
その後、毛利元就は着々と勢力を拡大し、晴賢は毛利氏が強大化することを危惧するようになった。
 
そして天文二十二年、旗返城をめぐって両者の間に感情的対立が起こった。
その折もおり、津和野の吉見正頼が晴賢討伐の兵を挙げ、元就にも協力を要請してきた。
 このころ、晴賢の勢力は強大であり、元就は吉見氏の依頼を受けるか、晴賢に応じて吉見氏を討伐するか悩みに悩んだ。
 
これをみた晴賢は、毛利氏内部への調略を行い内部崩壊をもくろんだ。
これを知った元就は、ついには晴賢と対立する道を選んのである。
 
かくして、陶氏と毛利氏との間で戦いが繰り返されるようになり、弘治元年(1555)、元就と晴賢は厳島を舞台に決戦を行った。
 
戦力的には陶方が圧倒的に有利であったが、元就ては謀略・知略をかたむけて、陶方の切り崩しを行い、大軍を動かしにくい厳島に陶軍を上陸させることに成功した。
 
 このとき、元就の策を見抜いた陶方の将弘中隆兼は、晴賢に厳島に渡る不利を説いた。
しかし、元就は隆兼が毛利に通じているという噂を流しており、晴賢は隆兼の進言を受け入れなかったという。
こうして、晴賢は二万の大軍を厳島に上陸させた。
一方の毛利軍は嵐をついて兵を島に上陸させ、海からは村上水軍の協力を得て厳島に攻め寄せた。
海陸から同時に討って出た毛利軍によって、陶軍は大混乱となり、乱戦のなかで晴賢は自刃し、嫡子長房も自殺してはてたのである。
陶晴賢は享年三十五歳の壮年であった。
 
 晴賢は武将としての力量はあったようだが、それは大内氏の重臣としてのものであって、独立した戦国大名になるだけの力(運も含めて)には恵まれていなかったといえよう。
陶晴賢と毛利元就とは親子ほどの年齢差があり、老獪な元就の謀略に若い晴賢は翻弄された末に敗れ去った。
また、主君を裏切ったことで人が信じられなくなっていたのであろう。」(「武家家伝 陶 氏」より抜粋)
 
大内義隆が長門の深川大寧寺で自刃したのが文二十年(1551年)、その後陶隆房(晴賢)は義隆の姉の子で、大友宗麟の弟大友晴英を主君に迎えるように取り計らってから、山口の大内邸を攻撃しています。
その年、ザビエルは豊後で大友宗麟と面会しています。
 
「天文20年(1551年)に豊後へ布教のためにやってきたイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルを引見したことが(宗麟と)キリスト教との出会いであった。
27年後の天正6年(1578年)7月にキリスト教の洗礼を受け、ポルトガル国王に親書を持たせた家臣を派遣している。」(大友義鎮-wikipedia)
 
以上のことより、下記の2つの仮説は十分に成立し得ると思われます。
 
(仮説1)陶(晴賢)氏はイエズス会と手を結んでいた。
 
(仮説2)大友宗麟と陶晴方の連携とザビエルの布教影響
 
なお、長い間の明との交易を経由して、ザビエル来日以前から日本にイエズス会士や信者が来日しているはずで、
商業活動の中で日本人に信仰を教えていた可能性もあります。
 
ザビエルの来日は準備万端、満を持しての乗り込みであった、とも思われます。。

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