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2016年9月18日 (日)

「真田親子の九度山村での蟄居」はそれほど苦痛でしょうか??

今夜のNHK総合の「真田丸」を見て、真田親子蟄居先の九度山村の場所を調べてみました。
生活の様子は次回放送で放映されるようですので、ドラマの展開を楽しみにしています。
 
「昌幸・幸村高野山配流」によれば、
http://museum.umic.ueda.nagano.jp/sanada/siryo/sandai/100099.html
「国元からの仕送りが頼りのその生活は、当然のことながら苦しいものであった。」そうです。
また、「高野山配流」にもその生活の様子が紹介されていました。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~sanada/sanada/sanada/kudo.html
 
 高野山から熊野古道小辺路(こへち)を歩いている私ですが、九度山村(現在は町)がどこにあるか知らなかったので、GOOGLE MAPで調べました。
 
それが以下です。
意外に楽ちん距離であることに驚いたのです。

1 いずれもGOOGLE MAPより引用しました。

九度山町1 高野山の入り口、九度山村、ヨットマンの私の眼でみれば、実は紀の川沿い、「高野山から大阪への出口」なのです。

2

九度山町2 善名称院(真田庵)は紀の川から支流・丹生川(ニウガワ(niugawa))に入ってすぐの場所。海運にとても便利な位置です。

3

九度山町3 大阪城と善名称院(真田庵)の直線距離は40㎞、当時の男足なら1日で到着する距離です。船旅は多少時間はかかりますが、内海ゆえ波もなく気楽な船旅でしょう。
 
家康もこの便利な場所に真田親子を留め置くことの深い意味は、当然読んでいたことでしょう。
大阪城、つまり淀殿と真田親子との通信の便宜のために好都合の距離です。
おそらく、淀殿の浅知恵か背後から淀殿を操るある種の集団の差配であったことが感じられました。
 
つまり、その後に起きる「大阪夏・冬の陣」を必然勃発させるために、大阪と真田庵の距離を1日通信距離以内に置いたのではないだろうか・・・、と私は見ました。
 
場所選定については、九鬼水軍も一役買っていたでしょう。
水軍に便利な場所です。
 
「九鬼水軍(くきすいぐん)は、戦国時代の水軍。志摩国を本拠とし、九鬼氏に率いられた。強力な水軍であった毛利水軍を第二次木津川口の戦いで破り、織田信長方の水軍として近畿圏の制海権を奪取した。
織田水軍(おだすいぐん)・志摩水軍(しますいぐん)とも称する。
九鬼嘉隆は鉄甲船(鉄板で装甲した巨大安宅船)を建造した。」(九鬼水軍-wikipediaより)
 
大阪→大阪湾経由→和歌山市→紀の川→丹生川降りてすぐの場所に真田庵
 
おそらく武器の輸送路としても活用できたことでしょう。
 
どうせなら、紀伊半島南端の潮岬か、あるいは串本町か、現在は地続きの紀伊大島などに蟄居させたら、本当に真田親子は大阪方と連絡を取るのに困難となったことでしょう。
 
そうはならなかった以上、家康側も、いずれまた淀殿と真田親子を軸に、大坂方と戦火を交えることになるとの「確信」をもって、九度山へ真田親子を流したものと推理いたしました。

Photo

串本町 紀伊半島南端です。

Photo_2

串本町2 直線で大阪とは120㎞以上あります。

3_2

串本町3 真田親子配流先が「潮岬や串本ではまずい」と考えた権力者がいたということです。
家康がそう思うはずはありません。
すると「淀殿とその背後を操る集団」という推理が成り立ちます。

『日本国で鉄砲を使った戦争が起きれば必ず儲かる集団』であるだろうと思われます。日本国内では火薬は調達できませんので、中国、あるいは大陸からの輸入になることでしょう。

 ところで、紀の川が海に注ぐ和歌山市から南下して御坊市塩屋町北塩屋へと中辺路(なかへち)を歩いたとき、古代のヨットマンが王子となって祀られている神社を通過しました。
 
そこは塩屋王子神社といい、塩田技術を持つヨットマンでした。
 
「西暦703年のこと、朝廷が熊野権現こと塩屋王子に対して、当時国内では産出していなかった銀を献上するように命じた記録がある、と、この神社入口の案内板にあります。
 
日本国に当時1か所しかない銀の精錬所の所在(対馬)を把握していたこと、外洋航海術に長けていたことなどを知った上で、朝廷は塩屋王子に銀の献上を命じたのでした。」(拙著ブログ過去記事より)
 
地元に詳しい方のサイトからそのくだりを抜粋します。
 
「 塩屋の歴史は古く、天田古墳群、中村遺跡、東大人遺跡、尾ノ崎遺跡など旧石器時代から中世にかけての遺跡があります。
 古くから製塩が行われていたようで多くの製塩土器が出土しており、平城京跡から出土した木簡に、(この)日高地方から潮を送ったという記録も発見されています。
 
 また、『続日本紀』の」大宝三年(703)五月条には、日高郡の調として銀を献上することを命じたことが書かれています。
 当時、我が国で銀の採掘できる場所は対馬以外になく、航海技術など相当進んだ、諸々の技術者が日高地方に住んでいたと思われます。
 
 伝説では権現磯に熊野権現が上陸し、切目、神倉、飛鳥、速玉の各神社を経て熊野大社に遷座されたとの言い伝えもあり、当時塩屋には有力な豪族が住み、その氏神が塩屋王子ではなかったかと推察します。」(「塩屋王子神社」より抜粋しました。)
http://kamnavi.jp/ki/nanki/sioya.htm
 
やや高台にある風通しのよい神社境内に立ち、私も「そのように推察」したことを懐かしく思い出しました。

Photo_3

塩屋王子神社と対馬(同上)
 
 西暦703年頃、塩屋王子はこの距離を帆船で往復して銀を対馬から持ちかえり、それを朝廷に献上しています。
 
熊野権現こと、塩屋王子が帆走した和歌山~対馬は、直線で500㎞ほどです。
航海の安全性の高い瀬戸内海を通過したものと推理いたします。
 
古来から持っていたこういう「眼」で、大阪城と九度山の至近距離を「水軍の大将」は眺めていたことでしょう。
 
 但し、大将の九鬼嘉隆は関ケ原ののち、豊臣方についた責任を取る形で答志島(とうしじま)家臣団により斬首されています。一方、家康方についていた息子が、嘉隆の首を差し出して詫びをいれてき答志島地元民代表から父の首を受け取り家康に面談したとき、もっと早くくれば助命も可能だったことを知り、失意のまま首を島へ持ち帰りました。(だいたいこういう感じの顛末です。父子で敵味方に分かれ血統を残す、というもう一つの事例)
 
・・・が、島民たちは港の傍にある胴体墓の中にその首を納めることを拒絶しました。
息子方は止む無く父の首を島の小山の上に葬り、答志島(とうしじま)水夫一族方の胴体墓とかなり離れてしまい、辛いその後の大将となっていました・・・。
 
 さて、家康の当時の街道歩きのキャリアはどうだったでしょうか。
1582年6月21日本能寺の変のときに堺にいて、暗殺の脅威から逃れるために家康主従は僅か34名で徒歩で伊賀越えをして岡崎城まで逃げ延びました。
酒井忠次、石川数正、本多忠勝、井伊直政、榊原康政など主力重臣がいたことは有利に働いたことでしょう。家康も上京と堺遊興には相当な危険性を感じていたことでしょう。
 
1600年の関ヶ原の戦いの戦後処理として真田親子は配流されますので、その約18前に家康自身は伊賀越えを体験しています。
それも山道を一気に150㎞以上歩き通した経験は、街道歩きとして十分な経験者だと言えます。
 
家康は配流先決定会議の際の意見として、おそらく「九度山村かあ、近いなあ・・・」と語ったのではないか・・・、と思われます。

Photo_3 GOOGLE MAPより引用。

MAP3 伊賀越え(堺~岡崎)およそ160㎞です。途中、津か、その周辺から知多半島経由して愛知県碧南市までは船を使っているようです。
 
参考記事) 上記と同じように、大阪に近すぎると考えている人が3年前にいました。
 
「何故九度山か? 1600年関ヶ原に勝利した家康の戦後処理の中で真田親子を大阪に...」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10101607880
 
「質問者 jfxv111gさん
2013/2/712:46:58
何故九度山か?
1600年関ヶ原に勝利した家康の戦後処理の中で真田親子を大阪に近い和歌山で浅野家と言う豊臣よりの大名の支配する九度山に流したのか? 真田兄と離すなら千葉の南とか、
宇喜多のように島流にしてもよかったはずです。
まさか大阪の火種に?
質問は何故真田親子を九度山に流したのかです? 」(抜粋終わり)
 
なお、この質問への回答の中に、幸村の正室(大谷吉継の娘)の頼る先がないこと、(女人禁制では不都合)を挙げていましたが、正室には「大阪に近くに住む必要」があったのかもしれません。
 
これまでのドラマの画面から、いくつか理由に思い当りました・・・。この項、終わり。
 

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