孝明天皇の毒殺説 代々木八幡再訪(5)~東京のシュロ
「千とせ経て ますます高しつくしがた. みけし(御衣)あふぎし神のみいつは」
正三位勲二等子爵 福羽 美静
昔、文化学園の西側に銀杏天神社があったが、菅原道真公没後千年を記念して歌碑が立てられていたという。 しかし、明治33年5月に、代々木八幡宮に合祀されてここへ石碑も移転してきたことは既に述べた。
この歌を読んだ人物を福羽美静(ウィキペディア(Wikipedia))より見てみた。
『津和野藩士、福羽美質の長男として生まれる。
嘉永2年(1849年)、19歳で藩校・養老館に入学。
津和野藩主亀井茲監の命を受け、嘉永6年(1853年)京都に上り、大国隆正の門に入る。この際に国学思想の影響を受けて尊皇攘夷論に関心を抱き、次第に意を国事に用いるようになったとされている。安政4年(1857年)に帰藩し、養老館で教授を務める。
文久3年(1863年)、御所に召され孝明天皇に近侍する。
八月十八日の政変に際しては、七卿と共に西下し帰藩、藩主亀井に認められ、藩政刷新に尽くすところがあった。
慶応2年(1866年)の第二次長州征伐時には、藩の方針を長州藩寄りにまとめた。
そして明治元年(1868年)、茲監が明治維新政府神祇官の要職につくに及び、微士神祇事務局権判事となり、主に神祇制度確立に尽力した。
明治2年(1869年)には明治天皇の侍講、明治3年(1870年)に神祇大福、明治5年(1872年)に教部大輔となるが、「外国の長所を取り入れるべきだ」との意見に反対意見が続出したため免官され、宮内省歌道文学御用掛となる。
明治9年(1876年)に国憲調査委員、明治12年(1879年)に東京学士会会員、明治18年(1885年)に元老院議官となり、明治20年(1887年)には子爵を授爵。明治23年(1890年)、貴族院議員に選出される。同年、公職を退いて隠居生活に入った。』
いわゆる日本最後の武士の一人である。
しかも尊皇攘夷思想を抱き孝明天皇の傍にいた人である。
革命が成功した明治維新後は、開国開明思想を主張する合理的精神を持つ人に変化しているようだ。
もっとも攘夷派急先鋒の長州人も、徳川方だった福沢諭吉も、維新後はみなこぞって西洋化を主張したのだから、思想の変転とは言えまい。
孝明天皇は毒殺されたという説もあるようだが、その様子を知る人物であった可能性は高いだろう。
孝明天皇(ウィキペディア(Wikipedia))より抜粋する。
『崩御に至るまでの経緯
慶應2年12月11日(1867年1月16日)、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行なわれた神事に医師たちが止めるのも聞かずに参加し、翌12日に発熱する。
天皇の持病である痔を長年にわたって治療していた典薬寮の外科医・伊良子光順の日記よれば、孝明天皇が発熱した12日、天皇の執匙(日常の健康管理を行う主治医格)であった高階経由が拝診して投薬したが、翌日になっても病状が好転しなかった。
14日、典医筆頭のひとりで、中山慶子の執匙を務める山本隨が治療に参加、15日には伊良子光順も召集され、昼夜詰めきりでの拝診が行われた。
12月16日(1月21日)、山本隨・高階経由・伊良子光順と、高階経由の息子・高階経徳の計4名で改めて拝診した結果、天皇が痘瘡(天然痘)に罹患している可能性が浮上する。(中略)
毒殺説
孝明天皇は前述の通り長年のあいだ悪性の痔に悩まされていたが、それ以外では至って壮健であり、前出の中山忠能日記にも「近年御風邪抔一向御用心モ不被為遊御壮健ニ被任趣存外之儀恐驚」(近年御風邪の心配など一向にないほどご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた)との感想が記されている。その天皇が数えで36歳の若さにしてあえなく崩御してしまったことから、直後からその死因に対する不審説が漏れ広がっていた。
その後明治維新を過ぎると、世の中には皇国史観が形成され、皇室に関する疑惑やスキャンダルを公言する事はタブーとなり、学術的に孝明天皇の暗殺説を論ずる事は長く封印されたが、1940年(昭和15年)7月、日本医史学会関西支部大会の席上において京都の婦人科医・佐伯理一郎が、「天皇が痘瘡に罹患した機会を捉え、岩倉具視がその妹の女官・堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」という旨の論説を発表している。
(中略)
学界において毒殺説を唱える研究者は少なからずおり、1980年代の半ばまでは孝明天皇の死因について、これが多数説というべき勢力を保っていた。』
当然毒殺説に対する反論もあるのだが、割愛する。
私が調べているのは、この歌碑の作者である津和野藩士である福羽美静という人物が孝明崩御の際に宮中にいたかどうかである。
福羽美静は、文久3年(1863年)に御所に召され孝明天皇に近侍している。
孝明天皇の死没は1867年1月30日である。
宮中にいた可能性は高いだろう。
孝明天皇(ウィキペディア(Wikipedia))によれば、
『中山忠能の日記にも、「御九穴より御脱血」などと壮絶な天皇の病状が記されている。
それでも天皇の喪は秘され、実際には命日となった25日にも、福井登の名前で「益御機嫌能被成為候(ますますご機嫌がよくなられました)」という内容の報告書が提出されている。天皇の崩御が公にされたのは29日になってからのことだった。』
実際の死亡日は1867年1月25日であったようだ。
それにしても孝明天皇の最後は毒まみれというような悲惨なものだったようだ。
孝明が強く主張していた攘夷を最も嫌う連中、つまり夷人(=外国人)による暗殺の臭いがする。
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