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南北朝時代の玉御輿~山形(10)

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6206(御神輿殿)

そばにこけし塚という石の塔が立っている。
御神輿(おみこし)を保管している社殿である。

山寺日枝神社の社宝である玉御輿1基(1320年製)と、鳳凰御輿2基(1615年製)の合計3基と、それらの複製3基が納められているそうだ。

社宝である玉御輿が作られた時代を考えてみたい。
北畠顕家(ウィキペディア(Wikipedia))よりその頃の奥州を眺めてみる。

『南北朝時代の公家・武将である北畠親房は、後醍醐天皇に近侍し、1333年(元弘3年/正慶2年)から開始された建武の新政を補佐していた。
その嫡男北畠顕家はこの年に従三位陸奥守となる。
翌1334年(建武元年)、後醍醐天皇の皇子である義良親王(のちの後村上天皇)を奉じ、父とともに陸奥国の多賀城(宮城県多賀城市)に下向し、東北地方経営を始める。同年、従二位に叙任し、1335年(建武2年)鎮守府将軍に任ぜられる。

同年、足利尊氏軍が鎌倉にて建武政権に反旗を翻し、京都へ迫ったため、顕家は12月、奥州の兵を引き連れ、尊氏軍を追って上京し、これを新田義貞、楠木正成とともに破り、京より追い出す。翌1336年(建武3年)1月、再度の入京を目指す尊氏を摂津国で破り、尊氏は九州へと落ち延びる。』

鎌倉幕府の威光が減退し、奥州に新しい公家・武将による経営機運が生じ始めていた頃である。

日枝神社の由来からすれば、荒々しい鎌倉武士の治世よりも、公家色の強い北畠一族の支配を望む気風が強かったのではないだろうか。

玉御輿のご利益があったのだろうか、1334年(建武元年)には北畠親子は陸奥国の多賀城(宮城県多賀城市)で東北地方経営を始めている。

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