民家のシュロの木~山形(17)
6264(ブドウ畑か桃畑)
6265(この道を少し先へ行けば山寺)
6266(山寺宮崎、山寺公民館の看板)
6267(民家の壁に並ぶシュロの木)
6270(山寺事蹟○○碑)
6271(山寺史跡の○○○○ いちい記念樹)
6274(分岐にシュロ)
6275(作並街道へ)
山寺を訪ねて、古代宗教の雰囲気を味わいながら、やはり古代ユダヤ人のシュロの木を探していた。
境内では楓の木は沢山見たが、予想に反してシュロの木はなかったように思う。
日光街道には無数のシュロの木があったが、日光東照宮へ近づくと不思議とシュロの木が見えなかった。
本拠地へ近づけばシュロは消えるのではないか?
そこへの道筋にシュロの木を目印として植えているのではないかと、東照宮を訪ねたときに思ったことがある。
山寺にシュロの木がなかったからと言って、山寺にその心がないとはいえないだろう。
そう思いながら山寺を後にしたが、バス停1つも行かないうちに大きなシュロの木が民家にあるのにであった。
まだ山寺の町内に当たるところの民家2箇所にあった。
バス停には「山寺宮崎」と書いてある。
宮は日枝神社で、その先にあるという意味であろう。
その傍に山寺公民館の看板がある。
公民館に入り事務員の男女2名がいたので、聞いてみた。
「バス停のところに立派なシュロの木が並木になって植えられていますが、シュロの木の意味は何かあるのでしょうか?」
事務員はお互い顔を見合わせながら、「さー、シュロの木がありましたか?よくわかりませんね。すみません。」と答えてくれた。
私にとっての謎なのだから、現代の若い人が分からなくても決しておかしくはない。
江戸時代、もしくはそれ以前には、そのいわれを説明しながらシュロの若木を育てた時代があったのだろう。
山寺公民館の駐車場には「山寺事蹟○○碑」と書いた真新しい石碑が立っていた。
石碑の上には真っ白い梅の花が、その傍には赤い椿の花が咲いていた。
その石碑の奥の斜面には「山寺史跡の○○○○ いちい記念樹」と刻まれた御影石がいくつかの大きな岩に囲まれてぽつんと建ち、そこに緑の葉を茂らせた背の低い若木が植えられていた。
「会所山(日田市)の今昔物語」というサイトに「いちい樫」についての記述があったので抜粋する。
http://www.ito-denki.biz/report/kodaishi/yosoyama.pdf
『古代日本人にとって「東は神界、西は人間界であったが、人間界からさらに西方は太陽の沈むところであると同時に、人の死につながるところである。
人間の場合、東から西への動きは誕生を意味するが、その動きの中央にあるものは母の胎である。
西から東への動きは死去を意味するが、その西から東への中間にあるものは、母の胎内になぞらえられた墓、つまり擬似母胎である。
母の母胎も墓も共に「穴」であって、この穴にこもるということがあってはじめて、完全な生と死が達成されるのである
神の場合も同様であって、人の生死から類推から想定された神迎え、神送りは、母の胎になぞえられてつくられた山中の御嶽や、巨岩の作り出す洞窟などで行われた。
また岩クラという陰石や窪地が擬似母胎、擬似女陰として神のみあれの場所としたであろうことは、先述の通りである。
ところが中国からやってきた陰陽五行とは神は天にいて、人間にいる地に下りてくるという天地軸で成り立つ。
日本人はこの外来思想を取り入れて天地軸を水平軸に移し変え天は北で地は南とし、東の神界を北に移し変えて中国の思想を自らの信仰と習合させてしまった。
白鳳期の天武天皇のころからこの考えでさまざまな行事が呪術とともに展開された。』(抜粋終わり)
どうやら天武天皇の時代に外来思想を積極的に取り入れたようである。
天智天皇(中大兄皇子)は第38代天皇で、その子弘文天皇を第39代とし、その次の天皇が
第40代天武天皇(大海人皇子)である。
天智天皇、天武天皇ともに父親が舒明天皇で、母親が宝皇女(皇極天皇)となっているから、両者は兄弟ということになる。
「天皇について」というサイトの質疑応答に、このお二人の天皇のお名前が出ていた。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1193805.html
『質問)天皇の血筋(家系)はどこまでさかのぼることが出来るのでしょうか?
また、途中で別の一族に変わっていることは無いのでしょうか?
回答)形式的に初代の神武天皇が紀元前660年に即位して以来、今上天皇(当代の天皇)まで万世一系(絶える事無く)の血で繋がっているとされています。
ただ学者によってはいろいろ説もあり、例えば10代崇神天皇は「ハツクニシラススメラミコト」が名前なので、この方が初代ではないかという説や26代継体天皇は25代の武烈天皇に子供が無かったので、越前から迎えられたが、大和に入るまで20年を費やしたのは、別の王朝により武烈天皇が殺され征服したのではないかとか言われております。
また14代仲哀天皇(大和武尊の息子)は筑紫の橿日宮に入った時に后の神功皇后が神がかりして新羅を討つように言われたが、神のお告げを無視したため神の怒りに触れたとありますが、密室で妻と部下の建内宿禰の3人で密議をしてる時に部屋が暗くなり、神の怒りにより死んだと書いてありますから、暗殺されたと見るむきもあります。
39代弘文天皇は即位前は大友皇子と呼ばれ、天智天皇の息子でしたが、母親の身分が低いため皇太子にはなれず、伯父の大海皇子が皇太弟でした。
ところが天智天皇は死期を悟ると息子に位を譲りたくなり、何とか弟の大海皇子を殺そうとしますが果たせず、彼の死後壬申の乱が起こり、大友皇子は自殺に追い込まれます。
その為、明治時代までは歴代に数えませんでしたが、明治時代に弘文天皇として、歴代に数えられるようになりました。
学者によっては壬申の乱に勝った大海皇子(天武天皇)が本当に天智天皇の実弟か疑問視する向きもあり、現実彼から48代称徳天皇までは天武系の天皇として位牌が別にしてあるようです。
49代光仁天皇からはまた天智天皇の子孫の血筋になります。
この後は皇統が室町時代に南北に分かれ、どちらが正当か争いもありますが、どちらの系統も血筋的には天皇家です。
形式的には途中で他氏が成り代わる事はなく、藤原氏が娘を天皇に嫁がせ、外戚として結びつきますが、父親はあくまで天皇家の物ですから、男系として皇族が位を伝えていきます。
唯一、足利3代将軍義満が天皇になろうとしましたが、後一歩で果たせずに終わりました。
因みに足利義満は後円融天皇の従弟にあたり、当人は女系であれば俺が即位してもと考えたのかも知れません。
割を食ったのがトンチ小僧の一休さんで、彼は100代後小松天皇の皇子であり、天皇になってもおかしくない血筋でした。』(抜粋終わり)
一休さんはとても偉かったのだ。
皇居平河門付近、竹橋駅最寄りにある和気清麻呂像の碑文の記事で、孝明天皇の「宣命」と明治天皇の「策命」について書いたことがある。
そのとき、孝明天皇(ウィキペディア(Wikipedia))の記事の中にこういう変わった記載があった。
『平安京最初の天皇・桓武天皇を祀る平安神宮に、昭和15年(1940年、皇紀2600年)に平安京最後の天皇として合祀された。』(抜粋終わり)
桓武天皇は天智天皇系であり、孝明天皇は天智系最後の天皇として合祀されたということ
になる。
すると、その次の明治天皇が天武天皇系であるということになるのではないだろうか。
私の街道歩きの体験によれば、飛鳥時代の天智、天武論になると、明治維新の孝明、明治論と深く関係してくるのである。
話は飛躍してしまったが、ともかく山寺史跡に植えていた「いちい樫」が生い茂り、「イワクラ」が沢山ある山寺は、外来思想導入前の天智天皇の時代から存在していたのではないだろうか。
先の会所山の資料より、その時代の照葉樹林の様子を眺めてみよう。
『日田は大和に先駆けて東南アジア、ヒマラヤから中国江南地方経由で照葉樹林地帯の文化の洗礼を受けている。
三世紀の久津媛当時の日田はシイ、クスノキ、ツバキ、モチノキ、サザンカなどの照葉樹林で覆われていた。穀類はアワ、ヒエ、キビ、ダイズ、ソバなどの雑穀類とヒョウタン、コンニャク、ナツトウ、イモ類などがもたらされた。
今でも宮崎、熊本県の一部では焼き畑農業が残っている。
縄文文化の基盤をなすもので、日本人の精神世界にも大きな影響を及ぼした。現在の日本人の心の中の奥底深く貼り付いているものは照葉樹林の森の神々であることは否めない。
岡正雄によれば日本文化は柳田国男の稲作による単一文化説ではない7つほどの外来文化によって成立したという。
数万年前に北方から、縄文時代初期には南シナから、続いて弥生時代にも入ってくる。
古墳時代になると北方から数次にわたって入ってくる。日本の固有信仰とされる宗教が縄文時代から現代まで受け継がれているのは照葉樹林文化の影響が残っているからであろう。
(中略)
会所山も戦前までは神々の山としていちい樫(亀山公園や宇佐神宮の植生が参考になる)やぶ椿(や楠)などに覆われていた。』
(会所山(日田市)の今昔物語より「いちい樫」の下りを抜粋)
http://www.ito-denki.biz/report/kodaishi/yosoyama.pdf
天智天皇の在位期間は661年~672年である。
それ以前にこの地に山寺が存在していたのだろうか?
作並街道への分岐点の手前に、サインのようにして背の高いシュロの木が道沿いに立っていた。それに従って、作並街道をとおり仙台へ向かう。
仙台藩には支倉常長というクリスチャン武士がいた。
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