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山寺へ~山形(1)

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Ts396141_2 Ts396145 Ts396146 Ts396147 Ts396149 Ts396151 6119 鳥海山を南側から見る
6124 そろそろ鳥海山の眺めとお別れになる
6132 山形の田んぼにも風量発電があった。
6134 最上川
6138 最上川
6140 山寺への入り口
6141  川原に大きな石、対面石というそうだ。
6145 山寺開山者と地元の狩人
6146 対面石の上に石碑、その背後に楓の木がある
6147 対面石そばにある石碑「念ずれば花ひらく」
6149 山寺入り口の石段
6151 煩悩の数、108段

秋田を離れて山形経由で仙台へ向うことにした。

カーナビはしきりに私を鳥海山の麓よりの道へ誘うが、八甲田山や十和田湖で雪壁で冷や冷やさせられたので、カーナビの言う通りには行かないことにした。

左に鳥海山を眺めながらできるだけ離れるように南下し、酒田の案内標識が目立つ当たりで東(左)へハンドルを切った。

最上川だろうか、川に沿って山道を登るようだが、この道ならば平たいから雪を見なくても済む。
また車の燃費がよいので、環境にもやさしい。

途中で日が暮れたので、温泉のあるパーキングエリアで風呂に入り仮眠した。

翌朝6時に山寺に到着した。
まだ誰も来ていないガランとした川そばの駐車場に車を置き、あるいて参拝コースの石段を登ることにする。

川にかかる朱色の橋の欄干が、京都や高知の橋を思い出させる。
朱色は信仰の匂いがする。

川に家の大きな位の巨大な石があった。
これは対面石と言う。

860年に慈覚大師が山寺を開くときに、この地の支配者、狩人磐司磐三郎(バンジバンサブロウ)と対面したのが、この大岩の上であったことからその名がついだ。

大師は狩人に動物を殺すのを辞めるように諭し、磐司磐三郎はそれを受け入れ、仏道に帰依したという。

それを喜んだ動物たちが磐司磐三郎に感謝して踊ったのが「シシ踊り」で8月7日の山寺磐司祭だそうだ。

この石に左手をあてて願いをこめれば、良いことに対面できるといわれているそうだ。対面石の前には慈覚大師と磐司磐三郎の両像を安置している。

ここには西行も芭蕉も訪ねてきたという。
対面石の上に石碑と庚申塔がセメントで接着されている。
その背後に楓の木がある。
石に楓?

石は石工組合などフリーメイソンを想像させてくれる。
楓はイエスキリストである。

この直感は、私だけのものだろう。
石工は中山道にあった聖徳太子の石碑から、楓は吉田松陰の墓所からそのインスピレーションをもらったものである。
これらは中山道や江戸市中を実際に歩いて訪ねて、身につけた「直感」である。
当たっているか当たっていないかは、私には関係がない。
私はそう石の前で感じているのである。

西行も芭蕉も歩いている。

対面石そばにある石碑に「念ずれば花ひらく」と刻まれていた。
真新しい石碑の説明文を紹介する。

『時宗の開祖一遍正人は、極楽行きのパスポートと言える「法定往生60万人南無阿弥陀仏」の賦算札を配り、25万1千余で生を終えられました。
それでそのあとを継いで私は「念ずれば花ひらく」として、同じ大きさの賦算札を配り続け、それが碑ともなり、芭蕉ゆかりの地に建立されました。
479番碑もその一つであります。
母なる星、地球の平和と、人類の幸せを守る碑として、とわの栄を祈ります。

聖地四国にて  真民』(石碑説明文抜粋終わり)

石碑の写真を良く見ると、黒御影石の傍に小さいが赤い楓の木が植えられていた。

四国を聖地と考える人物のようだ。新しい御影石であるところを見ると、大金持ちのお遍路ではないだろうか、とその場では思った。
しかし、そういう下世話なお遍路に山寺の対面石に食い込むような石碑の建立を許さないだろう。

あとで分かったことであるが、明治時代の癒しの詩人の有名な言葉だそうだ。

坂村真民(ウィキペディア(Wikipedia))より、その人の紹介文を抜粋する。

『坂村真民(さかむら しんみん、1909年1月6日 - 2006年12月11日)は日本の仏教詩人。
熊本県荒尾市出身。本名昂(たかし)。
一遍の生き方に共感し、癒しの詩人と言われる。
熊本県立玉名中学校卒業、神宮皇學館(現:皇學館大學)卒業。

愛媛県砥部町に「たんぽぽ堂」と称する居を構え、毎朝1時に起床、
近くの重信川で未明の中祈りをささげるのが日課であった。
詩は分かりやすいものが多く、小学生から財界人にまで愛された。
特に「念ずれば花ひらく」は多くの人に共感を呼び、
その詩碑は全国、さらに外国にまで建てられている。』

「念ずれば花ひらく」第1号碑は、1970年に京都市鷹ヶ峰常照寺に建てられている。
そして石碑説明文によれば、この山寺のものは第479号碑にあたるものである。
だから御影石が新しいものであったのだ。

熊本県人が、四国を聖地と考え、愛媛にタンポポ堂を建てて住んだようである。
四国は空海の生まれた土地であり、空海の出自は佐伯氏で、製鉄業を専業とする渡来ユダヤ人の末裔である。
渡来ユダヤ人にとっては、四国が聖地になるということなのだろうか。

本名は坂村昂(たかし)といい、2006年に逝去しているから、現代人と言ってもいいだろう。
坂村という姓からは坂上田村麻呂を連想できるような気がする。
真民(しんみん)という名前は、空海の本名である佐伯真魚(まお)を連想してしまう。
根拠のある話ではない。ユダヤ人をDNAの先祖に持つ私の直感である。

私だけの話ではない。
実はあなた方も10%程度、渡来ユダヤ人のDNAを持っているのである。

参拝コースの案内に従って歩くと108つの煩悩の数と同じ石段の前に出る、
石段を登る切ると、お堂やら神社が並んでいる。

私はここが山寺だろうと思っていたが、後で間違いに気付くことになる。

今はここが山寺であると思い込んで散策している。

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