2017年12月 9日 (土)

幸せます!(山口弁)

てれんこぱれんこ (山口の方言) https://dictionary.goo....

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2017年12月 7日 (木)

武甲(ぶこう)温泉(秩父)に行きました

秩父湯元 武甲温泉 の入り口付近   所沢在住の会社の同僚若手埼玉県人...

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2017年12月 4日 (月)

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2017年12月 3日 (日)

 信長は快川和尚を眺めていた!

「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」(碧巌録)より抜粋します。 http://ww...

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2017年12月 2日 (土)

信長に焼かれながらもお経をあげた快川和尚のこと

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国道20号線(甲州街道)にて、遠くに甲府盆地が見えてきた。

昨日の電車で読んだ小説にそのくだりが登場してきました。それで甲府へ向かっています。

信長の命令によって「焼けただれる山門の炎の中で、合掌する和尚の姿」が小説に登場してきました。

三浦綾子著「細川ガラシャ夫人」(上)(新潮文庫)p339より抜粋します。

「この度信長は、武田信玄の菩提寺である恵林寺(えりんじ)の和尚快川(かいせん)を、寺内の僧侶らと共に山門に閉じ込め、百五十余名を焼き殺したのである。

中略。

が、快川はこの炎の中で、
「心頭滅却すれば、火もまた涼し」

と、莞爾として死んでいったのである。」(抜粋終わり)

ここで「莞爾として」の意味を検索してみると、結構奥深い意味がありました。

「『論語』陽貨編に出てくる「夫子莞爾として笑ひて曰く、鶏を割くに焉ぞ牛刀を用いん」が語源です。

孔子が弟子たちと共に武城の街を訪れた時、町中から管弦楽の音が聞こえてきたので、孔子はにっこりと笑って「小さな鶏を捌くのに大きな牛刀を用いることはないだろう。こんな小さな町で宮廷用の礼楽を流すなどもったいない」と独り言を言いました。

それを聞いた武城の長官で孔子の弟子でもある子游が「昔、先生は私におっしゃいました。礼楽を学ぶことで人格者は人を愛するようになり、凡人ですら扱いやすくなる、と」と答えます。

孔子は弟子たちを振り返って「お前たち、子游の言葉が正しい。
私の言ったことは冗談だよ」とおっしゃった……というものです。

莞爾の「莞」は元々莚(むしろ)を織るための草を表します。
「爾」はこの場合「なんじ」「のみ」などとは読まず、修飾語に添える助字として機能しています。」https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1463157349 のベストアンサーを抜粋しました。

勢力の衰退していた武田勝頼を牛刀で殺すような荒っぽいことをしなくても、信長は政略、調略などの鶏用の小刀で容易に甲府をわが物にできたはずではないか、という嘲笑の意味を含めてのにっこり笑って、であれば、天下人への教訓を含む小さな笑いであるといえるのかもしれません。

以下、恵林寺訪問の写真を掲載します。臨済宗妙心寺派。

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朱色の柱の四脚門が遠くに見えますが、信長に全山を焼かれたあと、家康の天下になったあとで家康が1606年に棟上げしたものだそうです。

徳川家の菩提寺は浄土宗ですが、同じ仏教徒として思うところがあったのでしょう。

しかし、よく考えるとそうではないような気がします。

家康の寝首をかくために甲州から街道を江戸へ向かう武田遺臣の大勢の姿を常に家康は江戸城で意識して生きていたはずです。

用心深い武将だったようです。

井伊家などに召し抱えている武田の赤備えを付けた武田家遺臣たちがこの門をくぐってお参りに来ることを考えると、赤い目だった四脚門によって、誰よりも信玄公の菩提を弔う気持ちが家康にもあるのだぞとデモンストレーションをしているように思えてきました。

朱色の柱でなければ、私のそのような勘繰りは生まれなかっただろうと思います。

なぜ朱色なのか、なぜ四脚なのか、考えているうちに、江戸城で夜の物音にぎくりとしている家康の心理が思い浮かんだ次第です。

或いはもともとの門が朱色の四脚門だったのを再建しただけかもしれませんが、その場合でも目立つ赤い門を寄贈したいと主張した家康の心理は同じものがあったのではないかと思われます。

八王子市千人町は、家康が甲州街道を通って江戸へ侵入する武装集団を八王子で押しとどめるために街道脇に千人の幕府同心を居住させて警備したことで生まれた町です。

家康の周到な手配、念入りな武田遺臣への心のケア―など、いまさらながら感心させられました。

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私は入り口山門に掲げられているこの看板を見て、快川和尚の死を想起しましたが、果たしてそうなのかどうか。

『大辞林 第三版の解説
さんもんふこう【山門不幸】
https://kotobank.jp/word/

その寺の住職の死。また、それを知らせる言葉。』 

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これが快川和尚ら百五十余名が閉じ込められた上に火を放って焼き殺された三門という名前の山門です。よく見ると門の構えが3つあるのがわかります。

おそらく東方キリスト教(ネストリウス派)の影響を受けた密教からの伝来思想、三位一体を私は想起します。

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右の柱には、

「安禅不必須山水」(あんぜんかならずしもさんすいをもちいず)

左の柱には、

「滅却心頭火自涼」(しんとうめっきゃくすれば ひもおのずからすずし」

と、快川和尚の遺偈(いげ)が書かれています。

「天正十年(1582年)快川和尚、壮絶な火定(かじょう)を遂(と)げた際の一句である。」と恵林寺のパンフレットに書かれていました

ザビエルの来日が1549年ですので、その33年後の信長による甲州征伐での出来事です。

鉄砲、火薬の輸入開始とその拡大は日本の歴史を大きく転換することになったのです。

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金閣寺より銀閣寺を思い起こさせる「わび」のある三重塔

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開山堂 夢窓国師(むそうこくし)、快川(かいせん)和尚、末宗(まっしゅう)和尚の三像が安置されていました。

末宗和尚は師匠の快川和尚の命令により山門を脱出し、那須に潜み、のちに徳川家康に命じられて恵林寺を再興したそうです。(恵林寺パンフレットより)

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左に末宗、夢窓、右に快川の像

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信玄の墓参りと庭園の写真はあとの記事で掲載します。

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参詣後の帰路、再び焼き殺された山門を横から撮影しました。この中で遺偈を唱えたのか、あるいは般若心経(はんにゃしんぎょう)を唱えたのだろうか・・・。

僧侶を略150人ごと山門に焼いているとき、信長はここにいたのか、あるいは岐阜に戻っていたのか・・。いろいろ気になってきます。

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